第66話 蒼太と美麗その②

「んんん〜〜……っ」

 時刻は15時。あれから数時間の睡眠を取った美麗は大きく背伸びをしながら重たげなまぶたを開いた。


「おはよう、美麗さん」

「ん、おはぁ……」

 視界がまだぼやけているのだろう、今の様子を見るに蒼太だとは認識できていないようだ。ふにゃふにゃとした可愛い声を見せて返事をしてくる。


「もう少し寝ててもいいんじゃない? まだ寝たりないんじゃないかって思うけど」

「ぅん……。じゃあもうちょい……寝る」

「はーい」

 むにゃむにゃと寝ぼけてている美麗は、人肌の温かさがある平たい何かを枕として利用していた。

 勝手の良い場所に頭を置き直し、平たいものに繋がっている筋肉質な太い何かに腕を絡めて抱き枕のような要領で再度の睡眠を取ろうとする。


「あはは……また手を枕にされた」

 笑い声と共に耳に聞こえてくるそんな優しそうな声。

 美麗はまどろみの意識の中、複数の違和感を覚えていった。

 今、誰と会話をしたのか。今の声はなんなのか……と。


「ぅーんん……」

 数分後である。美麗は眠気と戦うような小声をあげながら上半身をゆっくりと起こしていた。

 両目を手で擦り、意識をはっきりさせようとしている。

 その手を止めれば、目の前に肌色の何かがいる。


「もう寝なくていいの?」

「だいじょぶ……」

「少しは眠れた?」

「ん……ありがと」

 誰だかわからないが聞かれたから答える。寝起きだからこその単純な思考。

 そんなふわふわとした頭に視界からの情報が入ってくる。

 ぼやけた視界がクリアになり——目の前にいる肌色がなんなのかその正体が明らかになる。


「……ん?」

「おはよう、美麗さん」

 おっとりとした瞳の美麗と視線がバッチリと絡みあった瞬間である。


「は?」

 今までのふにゃふにゃ声はどこへいったのか、無機質な声を出した後、ありえないものを見たように硬直する美麗。


「……」

「……」

 そのまま、数秒見つめ合い——蒼太が笑みを見せた矢先、

「は、はぁあああッッ!?」

 バケモノを見たようなリアクションをした美麗は高速で距離を取るように後ずさり、そのままソファーの上から床に落ちていった。


 尻もちで『ドン』と鈍い音。

「い、痛たっ……」

「だ、大丈夫!?」

 顔をしかめて痛みに耐えている美麗に近づく蒼太。


「なっ、なななな……ちょ、待って! くんなって!」

「え……」

「なんであんたがそこにいるわけ!? ちょ、い、意味わかんないんだけど!」

 いまいち状況が理解できていないのか、完全にパニック状態に陥っている美麗。綺麗なつり目をパチパチさせ口も連動するようにパクパクとさせている。


「えっと、記憶にない……? 美麗さんが俺の手を枕代わりにしてたからなんだけど……」

「はぁ!? ア、アタシがそんなことするはず——」

 そして、美麗は声を止めた。唐突に頰に手を当て、何かを確認するような動作を見せている。そう、美麗は何時間も蒼太の手を枕にしていたのだ。少なからず感触が残っているのである。


「俺が嘘を言ってないのわかった?」

「くぅぅっ……! マジ最低ッ!」

 白い歯を噛み締め、顔を真っ赤にしながら感情をぶつけてくる。照れ隠し、それはもちろん伝わってくる。


「えぇ? どちらかと言うと俺は寝ぼけた美麗さんに襲われた立場なんだけど……。そのせいで仕事もできてないぐらいだし」

「う、うるさいっ! そんなのアタシの頭をどかさなかったあんたが悪いじゃん!」

「手だけ頭に置かれてたらどかせたけど、腕まで絡められたら取れないでしょ?」

「……」

 言い返す言葉が何もなくなったのか、口を真一文字にして悔しがった表情を見せている。

 こうして冷静に対処している蒼太だが、安心させるために美麗の頭を撫でていた、、、、、、、ばかりに捕らえられてしまった手であることは内緒にしていること


「でも安心したよ。そのくらい元気になってくれて本当によかった」

「ッ!?」

 本心は蒼太の表情になって現れる。柔らかい笑顔を見せられ美麗の息は一瞬だけ止まる。


「……さてと、そろそろご飯にしよっか。まだ一食も食べてないだろうしさ」

「あ、あんたの料理なんか食べないし!」

「へぇ、またそんなことを言うようになったんだ。それじゃあ小雪さんに連絡しようかなー。美麗さんが怒られるのは嫌だけど、約束をしてるから破ることはできないし」

「ぐぅぅうう……」

「睨んでも変わらないんだよなぁ。食べるって言ってくれないことには」


 殺意のある眼差しが向けられるが、蒼太は何も怖くない。悔しがっているその顔が怖さを消失させているのだ。可愛げのある顔と言っていいだろう。


「チクるとか女々しすぎ! それで男かっての!」

「美麗さんが心配だからに決まってるでしょ。どうでもいい相手なら連絡したりしないよ」

「……っ」

 管理人として強く出れるところがあれば強く出る蒼太なのだ。

 いくら憎まれてでも、嫌いになられてもこればかりは譲れないところなのだ。


「美麗さんはこのリビングで何があったのか、寝る前に俺に何をされたのかちゃんと覚えてるでしょ? 美麗さんはソコ、、だけ触れてなかったし」

「……」

 沈黙と同時、顔をうつむかせて耳を赤くする美麗。ピンクに染めた触角を人差し指で絡め、口を小さく尖らせていた。

 蒼太の言う『ソコ』とは、美麗がリビングで泣きじゃくったこと。そして抱きしめられたことを差している。


「母親に任された仕事だから悪いことは隠すことができないし、正直に言うけど、俺が美麗さんにしたのは入居者への過剰接触。どんな事情があったとしても立派な違反に当たるんだ」

「なっ……」

 それは美麗に取って開いた口が塞がらないほどの衝撃だった。

 自らが不利になり、社会的地位も家族失いかねないことを馬鹿正直に伝えているのだから。それも、一番の敵意を抱かれていると知っているだろう相手に……。


「あれは美麗さんから頼まれてしたことじゃないし、全部自分勝手な行動だった。だからもし美麗さんが訴えることをしたらちゃんと責任は取るつもりだよ」

「……」

「要は俺が管理人でいられるのは美麗さん次第だし、時間の問題。だから、今のうちに美麗さんの体調が良くなることをやっておきたい」


 あの行動を取った時点で全てを覚悟していた蒼太なのだ。覚悟しているだけに今さら怖気づくことは何もない。


「ば、ばっかじゃないの……。そんなんで人生無駄にしていいわけ? あんたはそんなんでいいの……?」

「もちろんよくはないけど、この行動を取ったことを後悔をするのは一番しちゃいけないことだと思ってる。軽い気持ちであんなことをされるのは特に嫌だろうし、俺自身もそうありたくない」


 一変、最低な発言だと捉えられるかもしれないがそうではない。蒼太は『ちゃんと責任は取る』と先に反省を口にしているのだ。


 反省とは過去を振り返り、問題点を洗い出し、改善策を探すといった積極的な行動や思考のこと。

 そして後悔とは残念に思うだけで自らは何も行動を起こさないこと。


 後者の言葉を出すことがどれだけ美麗を傷つけるのは理解しているのだ。

『あの場でアタシが泣いたからいけなかったのか?』——と。


「ご、ごめんね。強い口調になっちゃって。あんまりここにいられなくなるって思うとどうしても今の気持ちを伝えなきゃって思って」

「……あんたってば頭おかしすぎ……」

 完全な悪口だが、涙をこらえているようなそんな声だった。


「アタシは、あんたをずっと攻撃してたんだよ……。恨みあるはずなのに、それなのに、どうしてそこまですんのよ……」

「それはまぁ——」


 蒼太は美麗の過去を気にして、今まで優しい行動を取っていたわけではない。


「管理人になってまだまだ日は浅いんだけど、やっぱり入居者には元気でいてほしいって思ってるからそんな単純な理由だよ」

「……」

「美麗さんもこの仕事をすることがあれば俺の言葉がわかるようになると思う。……って、違反した俺が言っても説得力もない……か」

 後頭部に手を当てて苦笑いを浮かべる蒼太。一瞬だけ寂しそうなそんな顔をしたことに美麗は気づいていた。


「じゃあ、今からご飯作るけど食べたいものある? 一口でも食べられる料理があればいいなって思うんだけど」

 美麗が訴えた場合、今日が入居者に作る最後の料理になる。それでも、ご飯を食べてもらえるならと笑顔を見せて美麗に問う。


「バカすぎだって……マジで……」

「そんな料理名はこの世にないから作れないよ」

「し、知ってるって! もう……オ、オムライス作ってッ!」

「了解。じゃあ待ってて」

「あ、あんたに毒入れられるかもだし、……み、見てるから」

「あっ! なら一緒に作ってみよっか?」

「……」

 ジロリと見られる。何を言いたいのかそれだけで伝わってくるほどだ。


「もちろん俺はこれ以上の違反はするつもりないし、どうしても心配なら護身用に包丁を用意しててもいいから」

「それなら……わかった。なにかしてきたらぶっ刺すから」

「ははっ、その時は心臓でいいからね」

「当たり前だし……」

「じゃあちょっと待っててね。材料だけ俺の方で準備するから」


 そうして、蒼太は先にキッチンに向かって歩いていく。冷蔵庫や棚を開けて次々と用意を始めた。

 そんな働き姿を視界の隅で捉え続ける美麗は、両手をもじもじと重ね合わせているのであった。

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