第65話 美麗と蒼太その①

「美麗さん……」

 蒼太は困惑以外に言葉が出てこなかった。

 普段から強気で当たられていただけに今の泣き姿は強烈に映っているのだ。


「ぐすっ、うぅっ」

『ドアからどけ』との美麗の主張。

『一口でも食べられるもの、もしくは一口でも食べたいものを教えてもらわなければどかない』そんな蒼太の主張。

 美麗からすればこんな姿を見せたくない。今は関わりたくない。そんな思いであり、蒼太からすれば少しでもご飯を食べさせたい。元気にさせたい。そんな譲れない思い。


 押し問答を続けた結果、とうとう美麗は泣き崩れてしまう……。普段の様子から見てありえないことだが、それだけ精神が不安定な状態。それだけでなく主張が通らないというのは美麗に負担が掛かり続けているのと同じである。


 蒼太は小雪に言われた通り、普段通りの行動を取ったつもりだ。

 しかし、それが正しい動きだったのか答えは見えないばかり。


 ただ、どうにか泣き止んでほしい。落ち着いてほしい。その想いが強く溢れていくる。

 蒼太は床に膝をつけ、崩れ落ちた美麗と同じ目線に立った。

 今できる慰めをしようと美麗の頭に手を差し伸ばしたその瞬間——脳に電流が走り抜けたように体が固まる。いや、思い留めたのだ。


 美麗の過去を知っているだけに、許可なく触れていいのか……と。

 触れることでさらに苦しめてしまうのではないかと。

「……」

 深い闇が襲いかかり、さらに追撃が加わる。


「っ、うぅ……ぐすっ。どけ……どけ……」

 ポロポロと涙を落としながら今だにその主張を続ける美麗。仮にここからどいたとしても、立ち上がる元気さえないように感じるほどだった……。


 一度は思い留まった蒼太だったが……そんな美麗の姿にもう耐えられなかった。

 苦しめてしまうかもしれない。それよりもどうにかして助けてあげたい。後者の気持ちが勝ったのだ。

 自己中な行動であることは蒼太が一番に理解している。それでも今できることはこれしかなかったのだ。

 小雪に言われたことを守るなら、これしかないのだ。


「大丈夫……。大丈夫だから」

「ッ!」

 膝立ちをして距離を詰めた蒼太は、フードの上から美麗の頭に手を置いたのだ。

 途端、びくっと美麗の体が動く。


「ッ、うぅ……っ、さわんなっ……。さわんなっ!」

「……大丈夫。大丈夫だよ」

 言葉のキャッチボールができてはいないが、美麗を安心させるにはこの言葉以外に見つからなかった。

 拒否の声が出ても、美麗の体は拒否していなかった。……いや、体で拒否するだけの余力がないだけかもしれない。


「ぐすっ……さわんなってっ……!」

「大丈夫だから……」

「うぅぅっ、ずっと言ってる……じゃん……」

「……ごめん」

 慰めれば慰めるだけ美麗の勢いがどんどんと無くなっていく。

 それが蒼太にとって次の行動に移せるキッカケ。


「悪いことは何もしないから……今だけ俺を頼って」

 蒼太は美麗の後頭部を右手で抱くように、左腕では美麗の肩に回して優しく抱きしめた。胸元に抱き入れたのだ。

 殴られてでも、噛みつかれても、暴れられても……救いたい。その思いで。


「嫌なことは絶対にしないから……。大丈夫だから……」

「ぐすっ、うぅぅ……ひっく……」

 

 美麗の泣き声を聞いて蒼太は優しく力を込めていく。

 こんなことは今まで一度もしたことがない。そして、管理人としての領域を軽く超えていることでもある……。


 蒼太自身、声の震え、体の震えを抑えられなかった。

 管理人と言うのは理恵から信頼されていたからこそ振ってくれた仕事。

 慰める行動を取ったことに後悔はなにもない。それでも訴えられた時の未来を想像してしまったのだ。


 人生を投げ打つ覚悟で行った理由はただ一つ。美麗を少しでも楽にさせるため……。

 馬鹿で不器用な行動だが、その想いはちゃんと伝わっていた。


 蒼太の服を思いっきり引っ張り、その胸にすがって赤ん坊のように泣きわめく美麗だった。



 ****



「ふぅ……」

 何十分が経っただろうか、蒼太は安堵の息を大きく吐いていた。


「すう……すう……」

 蒼太の胸元には動かない美麗の頭がある。背中に手を回し寝息をあげる美麗がいるのだ。

 蒼太が両腕を横に広げても美麗は器用にくっついて寝ている。

 睡眠不足だったのか、安心したのだろうか、泣き疲れたのか、はたまた全てか。

 かなり深い睡眠に誘われているようだ。


「これで良かったのかな……」

 Tシャツの襟元はゴムが伸びており、それだけ美麗が強く引っ張っていたことを証明している。胸元は美麗の涙で湿っている。

 想像もできないような過去があったのは今までの美麗を見れば分かること。

 そんな過去を乗り越えた美麗に、苦手な異性の前で眠ってくれている美麗になにかしようだなんて煩悩があるはずがない。


「さて……と」

 いつまでもこのままではいられない。蒼太は美麗を優しく抱っこして立ち上がった。

 無抵抗な身体を落とさないようにしっかりと支え、リビングにあるソファーの上で横に寝かせる。

 今の美麗の状態を見るに、目が届くところで寝かせておいた方が都合がいいのだ。


 することは残り一つ。

 管理人室からタオルケット持ってきた蒼太は美麗の足先から肩にかけていく。

 仰向けで寝ているだけにフード越しに寝顔が見えているが、クマもあり、目は腫れていた。涙の痕も目立っていた。

 経った1日だけでこの影響。なんとも心が痛くなる。


「これからゆっくり立ち直っていこうな……」

 寝ていることをいいことに、子どもをあやすように美麗の頭をポンポンと撫でた蒼太は仕事に戻ろうとする。

 そんな矢先——

「……パパ。あり……がと」

「っ!?」

 気のせいではない。美麗が寝言を口にしたのだ。

 そのようなことをされたことがあるのか、美麗の寝顔には穏やかさがあった……。


 しかし、それはお母さんが他界する前の、虐待をする前のお父さんなのだろう……。

 記憶の混同が起こっていた。

 

「そ、それ言うか……」

 蒼太の声が再び震える。今の一言を聞いて仕事に戻る気にはなれなかったのだ。

 美麗の隣に腰を下ろした蒼太は、先ほどと同じように頭を撫でる。


「ん……」

 するとまた安心した顔を見せてくれる。 


「はは、しょうがないなぁ……」

 微笑を浮かべる蒼太はその日、初めて仕事をサボることになる。少しでも美麗を安心させるために……。

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