第63話 美麗の過去。※胸糞注意

 闇空の一面が光り輝き、響く雷鳴。

 大粒の玉垂たまだれが降り注ぎ、止まることを知らない雨音。


 梅雨時期には何度も訪れる天気。


 その日、とある一軒家には重苦しい空気が充満していた。

 テレビは付けられず、室内から聞こえるのはクチャクチャとした咀嚼音のみ。その状況の中、か細い声が伝っていた。


「パパ……。み、みれいもおなかすいた……」

「あ?」

「っ……お、おなか……すいたの」

「ふざけたこと抜かすんじゃねぇよ。働かねぇやつに食わせる飯があると思ってんのか」

「……パ、パパにいわれたお皿あらいしたよ……。お、おそうじも……頑張ったの……」

 命令されたこと。床に正座をし続けている美麗の頰は痩せこけている。小さな体は震え、怯えを露わにしている。

 生きるために勇気を振り絞って言葉に紡いだ美麗だが——1人コンビニ弁当を食べている父親には何も伝わらない。


 もう母親が他界して半年以上が過ぎている。父親の精神状態はもう崩壊しているのだ。


「ハァ……」

 弱る美麗を睨みつけながらタバコを吹かす父親。この紡いだ言葉が父親の逆鱗に触れることになる。


 父親は椅子から立ち上がり、迷うことなく部屋の角に足を進める。そして腰を下ろしたと思えば人差し指で床をなぞり確認をした。

 ホコリによってうっすらと白くなる指紋。それ一つアウトなのだ。


「オマエ、これで掃除をしたとか言ってんのか? あん?」

「……っ」

 指につくホコリを見せながら美麗に近づいていく父親。

 そして間を置くこともなく——

『パァン!』

 容赦のない全力の平手打ち。乾いた音が室内に反響する。美麗の体は簡単に弾け飛び、頭を強く床にぶつけながら倒れこむ。


「ふざけんじゃねぇよッ! この役立たずが!」

「ぐすっ、パパ……ごめんなざい。ごめんなざい……」

「オマエこの程度で飯食おうとしてんのか、あ゛? ホコリのねぇようにしろっつってんだろ。また虫食わせてやろうか」

「ぐすっ、ぐすっ、ゆるしてくだざい……」


 美麗の頰は手の形に真っ赤に腫れている。それでも、泣きながら必死に謝るのだ。一生懸命掃除をしたのにも関わらず……だ。


「いいか? 何もできねぇオマエは生きてる価値すらねぇんだよ。ゴミが生かしてもらってるだけ感謝しやがれ。いいな?」

「うぅ……ぐすっ、はぃ……」

「あ。おっと……床に灰が落ちちまうよ。ほら」


 咥えたタバコに伸びる吸殻。父親はタバコを利き手に持ち、あろうことか美麗を灰皿にするようにタバコを強く振る。——勢いに乗り飛ぶ高温の灰。

「うぐ……ッ!!」

 それが美麗の皮膚や髪に降り落ちる。

 それでも美玲は歯を噛み締め、必死に声を抑えた。ぽろぽろと涙を流しながらエビのように身を折り込んで耐えたのだ。


 一度でも叫べば、攻撃がエスカレートすることを身に叩き込まれているのだから……。


「ハハハ、よしよし、いい子だ」

 父親は撫でるわけではない。美麗の長髪を鷲掴みにして頭を振り子にように揺らすのだ。


「それじゃあオマエに今日の飯をやる。腹が減ったろうしなぁ」

「すぐっ、パパ……」

 タバコを吹かして立ち上がる父親。その一言で美麗に希望が生まれるが、その顔は一瞬で絶望に変わる。


 父親が、とある虫カゴ、、、に手を伸ばしたことで……。


「ほら、オマエが大好きなエサだ」

「ち、ちがうよ。パパ……」

 エサ、、。まさしくそれは人間が食用にしているものではない。

 カゴの中に入っているのは……爬虫はちゅう類のエサとして利用されているもの。


 中型のゴキブリ。すでに命を絶ったデュビアだった。

 何をするかと思えば、父親はカゴの蓋を開け悪魔の笑みを浮かべる。


「……ぐすっ、パパ……。やめて……」

「ほら、食いやがれ! オマエにはこれで十分だろうが」

「っっ」


 タバコの灰と同じようにデュビアの死骸が美麗めがけて撒き散らされたのだ——。



 ****



「——ッ!!」

 過去のほんの一部……。忌々いまいましい記憶が夢に宿り、瞬間的に目を覚ます美麗。

 ひたいには汗が浮かび、背中にも汗が染み込んでいる。うなされていた時に必ず起こる状態。


「——うっ」

 次に美麗を追い詰めるように吐き気が襲いかかる。

「っっ」

 口を思いっきり押さえ、暗闇の中で堪えるが、一度で収まりがつくような軽いものではない。断続的に強い嘔気おうきがやってくるのだ。


「く……」

 限界を悟る。

 美麗は涙目になりながら二階にあるトイレに駆け込んだ。カギを閉める余裕があるはずもなく、動いただけで力を使い果たしたようにトイレの床に両膝をつく。


 そうして胃の中にあるものを全て戻していた……。


 夜中。トイレに数十と響く嘔吐えずき。

 反射条件で流れてくる涙が頰を流れるほど。それくらいに苦しい思いが続いていたのだ。


「ん……はぁ……はぁ……」

 胃は空っぽになる。生気のない青白い顔で美麗は肺に酸素を取り込んでいた。

 床にへたりこみ、立ち上がる気力もない。


「……くそ。なんで……なの」

 言葉にならない感情が、美麗の心を蝕む。

 そのモヤを少しでも抑えるためか、美麗はピンクの触角と黒髪を巻き込んでくしゃりと手で握り潰す。

 その手には全ての力が込められていた。引っ張られることで当然の痛みが襲ってくるが、美麗は力を抑えることをしない。

 痛みで誤魔化すように歯を噛み締めていた。


 手の力を緩めれば、指と指の間には数十本の髪が抜けている。それほどの力を加えていたのだ……。



「ぐすっ……うぅ……ぐすっ」

 噛みしめた歯の間から、嗚咽が迸り出る。

 大きな瞳から涙が溢れ出す。両手を握りしめ、過去に耐えるように時間に身を任せる……。


 美麗が強い態度を見せるわけ。謝らないわけ。お礼を言いたくなかったわけ。

 それは全て過去のトラウマが関わっている。

 その行動を取ることで弱いものと見られたくなかったから。弱いものに見られたらのなら、あの時と同じことをされると記憶に刻まれてしまっているのだ……。


 その日、美麗は一睡もすることができずに学校を休むことになる……。さらに運の悪いことに今朝の天気予報で夜帯に雷雨のマークが記されていたのだった。

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