第60話 梅雨入り
「……入ったか」
一人しかいないリビング。テレビ相手に立ちながら目を向けていた蒼太は顔を険しく変えていた。
——聞こえているのは『梅雨入りしました』の音声。そして、左上のテロップにも『梅雨入り』の赤文字が記されている。
6月。とうとう梅雨期がやってきた。
今までは『ダルい』そんな感情一つで済ませていた時期だが、今回に至っては私情に
「さて、これからどうするべきか……」
眉間に深いシワを作りながら頰を掻く。もし、今の表情をひよりが見たのなら声をかけようとはしないだろう。それほどの真剣さが圧となり浮かび上がっている。
蒼太が考えることはただ一つ、美麗について。
小雪から事情を教えてもらっているのだ。
梅雨時期に美麗が過去を強く思い出してしまうこと。結果、睡眠が取れず体調を崩してしまう……と。
これまでの期間、必死に策を考えてはいた蒼太だったが、残念ながら収穫を得ることはできていなかった。
というものの、美麗が一番に信頼している相手であり、美麗のこと一番に知っている小雪が上手く立ち回れないほどなのだ。
ぽっと出の蒼太が入るこむ余地などないに等しい。
「……はぁ」
それでもこのような不甲斐ない結果に思わずため息を漏らしていた。
神経質になっていたからこそ思い返される。
『美麗を安心させるためにわたしが一緒に寝たりもするのだけれど、朝には部屋からいなくなっているの。……恐らくうなされて、その声でわたしの睡眠を妨げないようにしているのだと思うわ』
一言一句、小雪の言葉が。
うなされるような状態で一人になるのは絶対に辛いに決まっている。それでも迷惑をかけないようにとその気持ち一つで美麗は動いている。
美麗の気持ちを考えれば考えるだけ言葉にならない思いだった。
ニュースが天気から移り変わる。それでも蒼太は動かなかった。いや、動くことを忘れるほどに頭を働かせていた。
「……ソウタさん」
「…………」
それは横から声をかけられたことにすら気づかないほど。あごに手を当て、表情を変えることなく熟考を続ける。
自室にこもるのだろう美麗にどのような言葉をかければいいのか。
怯えた美麗に対してどう接すればいいのか。
そもそも夜中に美麗と関われる時間があるのだろうか。
「うーん……」
ゴールの見えない迷路に入ってしまった瞬間である。現実世界に戻されるように——
「ソウタさん」
「う、うおぁッ!?」
蒼太の耳元で、温かな吐息とともに綺麗な声音が届いたのだ。瞬間的に振り返れば、 なぜか負い目を感じたような小雪がいた。
「あっ……お、おはようございます小雪さん」
「おはよう」
「す、すみません。ちょっとテレビに夢中で気づきませんでした」
「いいえ、気にしないで」
首を数回横に振った小雪は窓から映る外に視線を向けて言う。
「いよいよと言っていいのかしらね。梅雨入りは」
「こ、小雪さんも知っていたんですね? 今日のことですからまだ知らないと思ってましたよ」
「偶然だけれど梅雨入りのニュースが終わる頃にリビングに着いていたから」
「えっ!? そ、そんなに早くからいたんですか!? いやぁ……それはなんというか……」
演技などではなく本気で驚くばかりだ。
小雪の言葉を別の意味で例えるなら、『蒼太が考えていたところ、そして独り言を見聞きした』となる。
「ソウタさん、わたしが頼ったばかりごめんなさい……。いつも通りに振舞っていたから気づかなかったけれど、やっぱり相当の負担がかかっていたのね……」
「……」
形のいい眉を下げ、胸に手を当てた小雪。これがさっき見せていた表情の正体——小雪は確かな責任を負っていたのだ。
その一瞬の間。
ピクリと目を大きくさせ、小雪の心情を悟った蒼太は考えてもなかったことをツラツラ並べていた。
「あの……小雪さん。大変言いにくいんですけど、今考えていたのは美麗さんのことじゃなくて今日の夕ご飯なんですよね」
「えっ……」
全ては小雪の責任感を薄めるため。その責任感を覚える必要は何もない。そんな思いだったのだ。
「あっ、もちろん美麗さんのことをほっぽり出したわけじゃないですよ。ただ今日はリクエストしてくれた煮物を作るので何を入れようか迷っていたんです。前に作ったものとは具材を少し変えた方が飽きないと思いますからね」
「……」
「な、なんですかその無言」
「ソウタさん、本当のことを言ってちょうだい。わたしに気を遣えばさらに負担が増えることになるじゃない……」
「負担もなにも夕ご飯のことは本当ですから。言わない方が小雪さんを不快にさせることはなかったんでしょうけど、お世話になってる人たちに嘘はつきたくないですから」
「…………」
ケロッとしたまま最後まで押し通す蒼太に、再びの無言を作った小雪は凝視している。見事に
「はぁ……。そこまで言うのなら無理やり納得させることにするわ……。ありがとう」
「なにがですか?」
「……本当つれないことばかりするわよね、ソウタさんは。年下のくせに全然可愛くないんだから」
「はははっ、なんですかそれ」
白状させることに諦めたのだろう、今度は拗ねている。
小雪は鈍いわけではない。テレビを見ていた時の蒼太の顔、それに加えて独り言の内容。蒼太が何をしているのか透けていたからこそのお礼だったのだ。
「……それじゃあ、わたしもご飯を食べるから準備をお願いできるかしら。先に手を洗ってくるわ」
「分かりました。用意しておきます」
話のピリオドを打った小雪はリビングから手洗い場に移動しようとする。
ドアノブを落ろし、廊下に一歩踏み出した時——
「あ、最後に俺からも一ついいですかね」
「なにかしら?」
蒼太は狙ったようなタイミングで小雪を引き止めていた。
「ずっと言いたかったんですけど、小雪さんは俺を心配する前にまずは自分を体を心配してください。目の下、
「っ!?」
「美麗さんへの心配が積もった影響なんでしょうけど、そんな状態で俺が正直に言えると思いますか?」
「そう……。そう言うことだったのね。あんなに強引に誤魔化した理由は」
吹き出したように微笑みを浮かべた小雪。どことなくスッキリしているのは気のせいではないだろう。
「それにしてもよく気づいたわね。わたし、コンシーラーの塗り方には自信があったのよ?」
「照明の当たり具合がよかっただけです。とりあえず今日は必ず昼寝を取ってください」
「依頼のお仕事があると言ったら……?」
「小物の整理でもなんでも俺にできることがあれば手伝いますよ。それにこの時期、小雪さんが体調を崩したりでもしたら一番の影響を受ける相手は誰でしょうかね。小雪さんを頼りたくても頼れなくなる、そんな入居者が出てくるんじゃないですか?」
「……」
美麗を大事にしているからこそ、言い返すことをしない小雪に、蒼太はチェックを打った。
「小雪さん、俺
「……ズルいわよね、その言い方って。うんって言わざるを得ないじゃない……」
「こんな手を使うくらいに大事にしていますから。小雪さんはもちろん、入居者のみんなも」
「っ、も、もう……。もう行ってくるわ……」
その返事が最後だった。
小雪はリビングから逃げ出すようにして廊下に出ていったのだ。
「本当、可愛くないんだから……」
手洗い場にある正方形の鏡。そこに移る小雪の顔は、自分の意思で見たくないくらいに紅葉の色になっていた。
美麗を気遣ってくれるのはもちろんのこと、同じように心配してくれた。小雪にとってそれは一番心を動かされることだったのだ。
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