第21話 琴葉と仕事状況
「ふうー、今日もいい商談ができたよ。ありがとう琴葉さん」
「ふふ、私はご案内させていただいただけなのでお礼は結構ですよ。いつもご贔屓にありがとうございます、野崎さん」
時刻は14時40分。
商談が終わり、先方の野崎とエントランスで向かい合う琴葉。体を45度に傾け、手を前に重ね丁寧なお辞儀を交わしていた。
その身長と容姿からは想像がつかないほどに大人びた対応をこなしている。
そのギャップが琴葉の強みとなり、受付嬢としての評価は上々なのだ。
「いやいや、案内をしてくれた時にこまめに話しかけてくれたでしょう? あのおかげで緊張を払うことができたよ」
「お役に立てて嬉しく思います。他にもお手伝いできることがあれば、お申し付けください」
「ははっ、そうさせてもらうよ」
野崎の年齢は40半ばであり、他社でそれなりの立場にいる相手。何か失礼を起こせば商談が破棄される可能性もある。
話しかけられることでそのリスクを背負う琴葉だが、怯んだ様子は一切ない。
優しい微笑みを浮かべて野崎の心を掴んでいる。
「では、車の手配をしておりますのでこちらにどうぞ」
「ありがとう」
丁寧な指差しでその場所を示し、受付から離れる琴葉は先導して野崎を案内する。この時——二人きりになる。
「琴葉さん」
「はい、どうされましたか……?」
エントランスから外に出て車の前に移動した矢先、野崎から少しの緊張を含んだ声をかけられる。
たったこれだけでも次に何を言われるのか、琴葉はある程度の予想ができていた。
「ち、近々でいいんだけど……今日のお礼を兼ねて僕と一緒にディナーでもどう? 夜景が綺麗なお店を見つけてね、琴葉さんに紹介したくって」
「ふふ、それは嬉しいお誘いですね」
「そうかい!? もちろん僕の奢りだから好きなものを頼んでくれて構わないよ!」
受諾されたと思い、まくし立てる野崎だが全て勘違いである。琴葉はこのように言葉を続けていた。
「ですが……申し訳ございません。お気持ちだけ頂戴いたします」
「えぇ……。そ、それは時期を遅らせても……なのかい?」
「はい、出席したい気持ちは山々でございますが事情ありまして」
「その事情は?」
「こちら……です」
琴葉は左手の薬指にはめられた銀の指輪を見せた後、手を重ねて数回優しく撫でた。その大切さを伝えるように……。
「いやぁ、僕はただお礼がしたいだけなのになぁ……」
それでも諦めない野崎はチラチラと意味深に琴葉を見つめている。
お互い会社にとって大事な相手であることには違いないため、強引に断ることも誘うこともできないのだ。
「でしたら、私の彼も
「ッ、そ、それは……まぁ、あれだ……。で、ではまた連絡しよう……」
「はい、その際にはよろしくお願いいたします」
この時点で諦めたことを悟る琴葉。
野崎とは連絡先の交換をしていないため、その手段はないのである。
「で、では失礼……」
「本日は大変お疲れさまでした」
そうして逃げるように去っていった野崎を最後まで見送った琴葉は、大きな深呼吸をする。今の今まで
「戻ろう……」
先ほどと同様に両手を重ねた琴葉は、左手の薬指にはめた指輪をマジックのようにスッと抜き、ポケットに忍び込ませる。後は何事もなくエントランスに入っていく。
「お疲れ、琴葉。お茶用意してるから飲んでね」
「ありがとうございます、小川さん」
受付にはもう一人、受付嬢の小川がいる。琴葉が頼りにしている先輩である。
「さっき車の前で野崎さんに声かけられたでしょ?」
「よ、よく分かりましたね……?」
「そりゃあ琴葉を狙ってる目つきだったからねぇ、
「もし……私が断ってないと言ったらどうします?」
「いいや、間違いなく断ってるね。琴葉はお金に左右されるタイプじゃないし、そもそも野崎さんとは好みが違うでしょ?」
「さすがは小川さんです……。参りました」
先輩の小川に全て見透かされている琴葉は苦笑いをしながらお茶を口に流した。
受付や電話、接客をする際には敬語が基本の職場だが、受付嬢同士ではそれなりに砕けた口調で話す。
同じ仕事をして、お互いの情報を交換しあいながら作業を進めたりもするため距離感は自然と近くもなる。
「琴葉は凄いよ、めんどくさいことに当たっても顔に出さないから」
「それは小川さんも同じですよね……? 仕事ぶりは間近で見ていますから分かります」
「わたしは相手と視線が離れた瞬間に出るからねぇ……。琴葉はそうじゃないから」
「ふふ、正直……気持ちは分かりますよ。しつこい方もいますからね」
「そもそもクライアントの受付嬢をナンパするなんて常識的じゃないよねぇ……。担当者の耳に入ったらどう思われるのかなんで考えられないんだか」
会社の顔とも言える受付嬢。採用基準に容姿が含まれているのは事実。社外の人間にも社内の人間にも声をかけられることは少なからず多いのだ。
お茶を半分ほど飲んだ琴葉は椅子に座り、本日のスケジュール表を取り出す。
残りの仕事を確認すると同時に、黒ペンで今終わった野崎の接待にピンをつける。
ゆっくりすることもなく仕事に勤しむ琴葉を見て、小川は何か思うように口を開いた。
「それにしても……今日はご機嫌だよねぇ琴葉。何かいいことでもあった?」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
「って言う人に限ってなにかあるんだよねぇ。もしかして常套句の『
ニヤニヤとリップの塗った唇を上げていたずらっ子の顔をする小川。
「もしできていたら一番に小川さんに報告していますよ」
「それは助かるねぇ。まあ琴葉でもわたしの旦那に勝つような男は見つけられないだろうけどね?」
「ふふっ、確かに小川さんの旦那さまは魅力的ですけど……同じくらいに素敵な方、私にも候補はありますよ? 異性として見ているわけではないですけど」
もちろん、喧嘩する寸前の空気を放っている二人ではない。お互い楽しく言い合いをしているだけである。
「ふぅん? そう言うなら今度写真撮ってきてくれる? わたしがその男を見てあげるから」
「いいですよ。でもそのお写真を見て嫉妬しないでくださいね、小川さん? 素敵な方であることは保証しますから」
口元を手で押さえ、微笑を浮かべながら林檎色の瞳をわざとらしく細める琴葉。
『まあ琴葉でもわたしの旦那に勝つような男は見つけられないだろうけどね?』
この発言の仕返しである。
「くー、言うねぇ……っ。でも、そこまで言って異性として見ていないってなんか嘘っぽいなぁ?」
「ふふっ、それはどうでしょう」
そうして今日も楽しく職場で過ごす琴葉。
もちろん、小川と協力もすることでミスなく今日の仕事を終えるのであった。
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