10.声

 王女が泡になった話は、人魚の国に瞬く間に広がり、全ては彼女が望んだことではあったけれども、魔女の意地悪によるものだとも噂が広がった。

 王女がいなくなって、沈没船の中はより暗く感じられるようになった。彼女は本当に光だった。彼女が現れると、ここは明るくなった。彼女が人間になって地上へ行っても、その光がここまで差し込んでくるのを感じた。でも、もう彼女はいない。話しかけてくることも、歌うこともない。この世界から消えてしまった。

 沈没船の一室。彼女の一部、泡が入った瓶は、目の前の棚に並べてある。王女が泡になった後、必死に集めたものだ。しかしあるのはわずかな量だけ。

 もう彼女は戻らない。もうあの声を、歌を、聞くことはできない。

 どうして死を選んだの。

 そんなに王子が大切だった? 友達と言ってくれた、私よりも?

 ただもう一度、友達だと言ってほしかった。愛してると言ってほしかった。奪った声を返すから。戻ってきてほしかった。本当に、それだけ。

 でも、誰かにとられて、自分を置き去りにするなんて、許せなかった。

 だから声を奪った。私を慰めてくれた声を。

 彼女の死を望んだわけではなかった。しかし彼女はもう歌わない。

 ――王女の声。

 ふと、私は泡の入った瓶の隣を見た。そこには煙のようなものを閉じこめた小瓶がある。

 王女から奪った声。

 彼女が戻ってきてくれたとき、返そうと思ってとっておいたもの。

 もし、この声を奪わなかったなら、彼女は王子と結ばれただろうか。種族の違いを完璧に乗り越えられただろうか。でもそれでは、王女は遠くに行ってしまうから。

 けれどももう彼女は戻らない――声はここに、あるけれども。

 声だけは、残っている。

 ――彼女の声が、歌が、もう一度だけ、聞きたかった。

 私の愛した声。おもむろに手を伸ばせば、私はその輝きを見つめ、囁かれたかのようにその蓋を開けた。

 それなら、と。

 私はその声を飲んだ。

 それなら、私が歌おう。この声で。あなたの歌を。

 温かなそれが口に入ってきて、喉に宿る。瞬間、火を飲み込んだような熱さと痛みに襲われた。耐えられず喉を押さえ、汚れた床の上に横たわり、もだえる。まさに陸に揚げられた魚のごとく、尾を打ち付ければ鱗が剥がれた。

 しばらくそうしていると、すっと痛みがひいてきて、罪を許されたかのような疲労と安心感に溜息を漏らした。

 瞬間、新しい時が始まったかのような感覚。これまでが全てなくなり、世界が新しくなったかのような。

 溜息と共に漏れた声。それはもう、自分のものではなかった。

「私の、声……」

 不思議な感覚だった。

 自分の声ではない声が、口から発せられる。

 それも彼女の声。私の声がかき消され、彼女の声が、私の喉に宿った。

「……これは、あなたの声ね。あなたの、きれいな声」

 自分が喋っているけれども、彼女が近くにいて、話しかけているかのような感覚。

 彼女が近くにいる。確かにそう感じられた。

 ふと溢れた涙が、きらきらと輝いて海水と混じった。彼女が近くにいる。いつ振りだろうか。遠くに行ってしまった彼女が、帰ってきたかのようだ。

 涙が止まらなくなって、ついに私は声を上げて泣き始めた。それはまるで、失恋し傷つき、それでもなんとか海に戻って来た彼女の代わりに泣いているかのようだった。

 しかし、ふと思う。

 彼女に涙は似合わない。太陽のような彼女は、笑顔が似合う人だった。

 ――歌を、歌おう。彼女が歌っていた歌を。

 泣くのを止めて。顔をあげる。彼女が歌うように、歌おう。

 彼女の歌は、世界で一番美しいものだから。

 忘れることのなかった歌。囁くように歌い始めれば、やがてその声は自然と大きくなって、歌声は沈没船内に響いた。曇った夜空に歌うように、声を響かせた。いまはもういない彼女が、ここにいるように歌う。

 いや、彼女は間違いなくここにいる。

 私が歌っているのではない。いま、彼女がここにいて、私に歌を聴かせてくれているのだ。あの優しい歌で、私を慰めてくれる。

 いま私は、彼女と一緒にいる。

 歌い終われば、船内には静寂の幕が下りる。けれども先程のような静けさではない。まるで夜が明け、朝日が射し込んでくるかのような、幸福な静寂。

「――私の歌、どうだったかしら?」

 彼女のように、言葉を紡いだ。

 素敵だった、と心の内で返した。素敵だった、あなたの声はやはり天使のようね、と。

 ふと、泡の入った瓶を見つめ、そっと撫でた。あなたは、私と一緒にいるのね。

「私のお友達、愛してる」

 それは、私から彼女への言葉か。彼女から私への言葉か。

 私は一人ではなくなった。


 * * *


 よく歌を歌うようになった。すると、彼女が近くにいると感じられるから。彼女に歌ってもらうのだ。そうしながら、今日も薄明かりに満ちた海底を泳ぐ。他の人魚も、魚もいない。二人だけの温かい海。

 決して白くはない砂に触れると、さらさらと流れた。と、先にきらりと輝くものを見つけて、子供のように泳いでいく。落ちていたのは、青い宝石のペンダントだった。

「見て、私の目と同じ色よ!」

 王女の目は青色だった。

「とってもきれいね!」

 指で表面を撫で、笑う。王女が身につけたならば、とても似合うだろうペンダント。

「宝石も、魔法の材料になるんですってね」

 王女の声で、王女のように喋る。

「あなたの鱗も、こんな宝石みたいにきれいになるかも! あなたにあげるわ!」

 それに対して、でも難しいわ、と私は内で返す。それに、きれいになったところで、あなたには適わない、と微笑む――微笑んだのは、私か、王女か。

 そうしてまた、歌いながら進むのだった。王女の優しい歌は、海底を満たしていく。時折、私の尾の鱗が剥がれた。けれどももう気にしないし、痛みもない。布を巻くのももう止めていた。尾を受け入れてくれた彼女が一緒にいるのだ、隠すなんて失礼だ。

 のんびりと二人で散歩しつつ、あの場所へと向かう。彼女が一人歌っていた、あの場所だ。そこにある岩に、彼女と同じように腰をかけて歌う。他の人魚は誰もいない。いつもならいる魚達も、暗い海に住む魔女に驚いて避けていく。それでも歌う。彼女の歌を。私を慰めてくれる歌を。喉を振るわせ、彼女がここにいることを証明する。海上から差し込む日の光は、ここが二人だけのステージであるかのように、優しく照らしてくれている。私と、大切な友達、二人だけの世界だ。

 歌い終わって、そっと尾を撫でた。否、彼女が撫でてくれた。ぼろぼろの尾。彼女がそばにいて、受け入れてくれるのなら、このままでもいいかもしれないと思った。

 彼女は他の人魚とは違う。唯一の友達だから。一緒にいてくれるから。

「もう、寂しくはないわ」

 声は海に響く。太陽の光に照らされながら。彼女の声ではあるけれども、それは紛れもなく私自身の言葉。

「戻ってきてくれて嬉しいわ、私の、愛おしい友達」

 そして私はまた歌う。彼女を手に入れたと言わんばかりに。

 これでもう、彼女はどこにも行かない。ずっと一緒。

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