09.終幕
あの王子が、隣国の姫と結婚する。
そんな話が海底の人魚の国まで届いたのは、王女が人間になってから、何日が経った頃だろうか。やがてその話は、近いうちに船で結婚式を挙げる、という話に変わった。その日は、王子が別の人間と結ばれる日となる。つまり――元人魚の王女が泡になる日だ。
やっぱり、人間と人魚の恋は叶わなかった。そうだと思っていた。だから止めておいた方がいいと言ったのに。これで彼女も思い知ったに違いない。
途中までは順調だった。拾われた彼女は、王子に気に入られた。話すことも、ものを伝えることもできない。その上、もともと尾だった足はうまく使いこなせない様子で、上手に歩くこともできなかったらしい。それでも、いや、そのこともあってか、王子にかわいがってもらえたようだ。話せなくても、動けなくても、彼女は人形のように美しいから。
けれども、それも隣国の姫が現れるまでの話。その姫に、王子はとられてしまった。これでもう、彼女は泡になるしかない。失恋したと気付いたとき、彼女はどんな気持ちだったのだろうか。
でも大丈夫。私があなたを助けるから。
結婚式があるという日。沈没船に王女の姉達がやってきた。話を聞きつけた彼女達は、何としてでも末の妹を助けたい、何を差し出してもいいから、妹を助ける手段を、とすがってきた。でも私は追い払った――誰のお願いでもない、王女を助けるのは、私。私が自分の意思で彼女を助けるのだ。
魔法の短剣を持って、夜の海上へ。外の世界へ顔を出せば、天にある無数の星はこちらを見つめる目のように思えた。それでも世界は、いま、私と、目の前に浮かぶ船の縁にいる彼女だけのように思えた。
人間の足を手に入れたものの、王子の愛を得られなかった王女は、思い詰めた様子で暗い海を眺めていた。無理もないだろう。あんなに王子と一緒になることを夢見て、またその夢は現実になるのだと信じていたのだから。しかし夢は現実にならない。痛々しく思えるその姿は、言ってしまえば自業自得のものだった。
馬鹿な子だ。純粋で、世界を信じていて、だからこそ、愛おしく思えてしまう。
「――久しぶりね」
夜の海は、穏やかだった。私が声を発すると、よく通った。はっとして王女が驚き、その口を動かしたものの、彼女にもう声はない。もし声を奪わなかったら、彼女はなんて言ったのだろうか。「魔女さん」と、優しく呼んでくれただろうか。しかしいまの彼女は、悲しそうに微笑むだけだった。まるで全てがあなたの言うとおりだった、と言わんばかり。そして改めて水面を見つめるのだった。泡になるのを覚悟するかのように。
「……人魚に戻りたい? 泡になんて、なりたくない?」
まだ時間は、ある。私なら彼女を助けられる。
尋ねれば彼女は不思議そうな顔をした。だから私は手にした短剣を掲げる。短剣はふわりと浮かんで、彼女の目の前で止まった。
「方法が一つあるの。私、あなたを助けにきたの」
その短剣が、未来への鍵。私と、あなたの。
「……その短剣で、王子を殺すの」
それは残酷な方法だったけれども。
「あなたが人間になったのは、王子のため。でもその王子をあなたの手で殺してしまえば、全ては元通りになるわ。魔法が崩れるの」
彼女は王子と結ばれるために魔法の薬を飲んだ。しかしその彼女が王子を殺してしまえば「愛する人のための魔法」は歪んで、ほどけて、消え失せる。
「難しいことなのはわかってるわ。でも、私、あなたに死んでもらいたくはないから」
そう、戻ってきてもらいたいから。
王女は目の前の短剣を、呆然と見つめていた。その切っ先は未来を切り開くかのごとく、きらりと輝いた。
「……友達を見殺しになんてしないわ」
私は言う。
「それで、あなたを振った男を刺してくるのよ! 急いで! 時間がないわ!」
大切な友達へ。
ようやく王女は戸惑いながらも短剣を手に取った。目を堅く瞑ると、短剣を握る手に力が入るのが見えた。そう、他の女を選び、人間になってまで会いに来たあなたを袖にした男を刺してくるがいい。そうして縁を切るのだ。
やがて王女は、不自由な足でなんとか船内へと入っていった。賑やかな船内へとけ込んでいく。
彼女に酷なことを頼んでいるのは、十分にわかっている。けれども本当にそうしないと、彼女は戻れない。つらいことをさせる気はなかった。
――つらいことをさせる気はなかった?
――本当に?
いや、それよりも。
彼女にできるだろうか。王子を刺し殺すなんて。彼女は優しい。自分を見捨てた王子であっても、殺すなんてこと、果たしてできるかどうか。
そう思うものの、心のどこかで、できるはずだと思えて、私はただじっと待った。そう思ったのは何故だろうか――友として愛した彼女に、自分はそうできたからだろうか。
彼女が海に戻ってきたら、声を返してあげよう。一人、これからのことを考える。声を奪ってしまったことが知られてしまうと、私は本当に意地悪な魔女だと知られてしまう。彼女からの信頼を失う。だからうまい具合に治ったと言って。そうすれば、より彼女は私を信頼してくれるに違いない。私と彼女はより仲良くなれるはずだ。そしてもう一度歌を歌ってもらおう。彼女の歌が聴きたかった。
でも、私の用意した台本通りにはいかなかった。
彼女は私ではなかった。
しばらくして、彼女が戻って来た。観客の目のようなあまたの星の下、劇場のように思える船上で、彼女の真っ白な顔が暗闇に浮かんでいた。賑やかな喧噪は遠く、わんわんと響いているように聞こえる。そして彼女のきれいな手には、その白さに見合った短剣が握られていた。
血が、一滴も付いていない。彼女が何の罪も犯していないことを、証明するかのように。
私は呆然と彼女を見上げた。船の上にいる彼女は、遠かった。
王女は泣いてはいなかった。いまにも消えそうな笑みを浮かべていた。
――私にはできないわ。
王女の声が聞こえた気がした。そよ風のような囁き。彼女はもう、声を発せないはずなのに。
彼女は、私を見てはいなかった。まるで観客のような星を見上げる。それこそ、演じるかのように。
その手から短剣が滑り落ちる。白い刃は水面に触れると、砂糖菓子のように溶けて消え失せた。
――さようなら。
小さな体が傾いた。旅立ちを知らせるかのように、ドレスがなびいて音を立てる。暗闇に広がった金色の髪は傷ついた翼のよう。そして、墜落の水しぶき。
王女は海へと飛び込んだ。
天使が空から落ちるかのように。
瞬間、その身体は波に絡められ、光り輝き、ほつれるように泡となった。
――こうして彼女は、ここで幕を下ろした。
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