05.尾
王女の願いなら、何でも叶えてあげようと思った。それができない話でも、できるようにしてまで。彼女に対して、私は善人でいたかった――神の願いを聞き入れることは、人々にとっての義務と言え、また喜びと言える。
でも私は。
「その願いを、叶える気はないわ」
彼女は間違っている。
私の声は震えてはいなかった。あの美しい声で歌うように願った彼女に対して。
「できないことはないわ……そんなくだらないこと……」
喜びが一気に絶望へと変わった。彼女が私に会いに来てくれた。あの彼女が。けれどもそれは。そんな願いは。
――つまりそれは、彼女がこの海からいなくなるということ。
それに、人間に恋をしたなんて。
腰に巻いた布を、無意識に握りしめた。
人間の足を欲しがるなんて。
王女を見れば、驚いたような顔をしていた。その尾は、この暗い沈没船の中でも空にかかる虹のように鮮やかに、温かく、輝いている。
尾を足に変える魔法の薬は、作れる。自分の尾を正すための研究の副産物だ。でも、彼女の願いを叶えるわけにはいかない。
「……少し落ち着いたらどうなの?」
私は絶望に叫びそうになるのを抑えながら、彼女に言う。
「いまあなたの言ったこと、改めてちゃんと考えて」
それは彼女に言ったのか、自分に言ったのか。
でも、本当に冷静に考えてほしい。目の前にいる彼女は、まるでやっと冷たい海域にいることに気付いたかのように、ゆっくりと落ちて、その尾を床に着けた。
「人間と人魚……例え人魚が人間の足を手に入れても、それであなたの真の願いが叶うとは限らないわ。そうまでして陸に上がったとしても、あなたが運命を感じたと言っても……失恋をしたら?」
彼女は勢いで物事を進めようとしている。酔っている。人間の王子に、酔わされてしまったのだ。時に人間が、人魚に酔うように。
それに。
――あなたがこの海からいなくなるなんて。
言葉を飲み込んで彼女から目を背けた。見下ろしたのは、きれいな織物で隠した醜い尾。
彼女は私の希望だった。その彼女が外へ出て行きたいと言っている。だから手伝ってほしいと、私に言っている。
あまりにも、残酷だった。
それでも彼女は、再びふわりと浮かぶと、また鱗を剥がすかのような言葉を口にした。
「でも私は、王子様にもう一度会いたいの。運命を感じたのよ……」
あの透き通った声で。その声は、いまはこのおぞましい沈没船の邪悪な気配に潰されてしまいそうだった。
運命を感じたなんて。そんなもの、存在するのだろうか。そんな、世界から決められた道というべきものなんて。こうあるべきだと、誰かに決められたものなんて。
運命。それはまるで私の醜い尾のようだった。
彼女はきっと、いや間違いなく勘違いをしているのだ。人間と人魚。一緒になれるはずがないし、別の種族だ、運命が交わることなんてない。過去にもない、これからもない。関わらない、それが運命だ。王女は一時の熱にうなされてそう言っているのだ。
「……帰ってちょうだい」
こんな冷たい場所にいたら、その熱は悪化してしまうだろう。一度、家族のところへ戻るべきだ。私は彼女のためを思って、そう言い放った。王女は突然日が陰ったかのように戸惑い、それでもこちらを見ている。だから私はもう一度「帰って」と突き放せば、王女は俯いてしまった。そんな顔をさせたくはなかった。あなたを悲しませたくはなかった。でもあなたの願いは聞き入れられない。あなたのためにも――私のためにも。
「……また来るわ、魔女さん」
王女はくるりと背を向けた。けれども、まだそう言っていた。
「私は諦めない。あの人と一緒になることが、私の運命だから……」
そうして部屋から出て行ってしまった。扉を丁寧に閉めて。沈没船の冷たい気配が、王女がここにいたことをかき消すかのように渦巻いて、やがて沈む。全てが元通りになったと言わんばかりに、優しく、時を戻すかのように。
「――また、来る?」
けれども私は、ようやく彼女の言葉を理解した。
彼女が、また来る? ここに? 私に会いに?
扉を見つめる。いまは閉まった、外への扉。
彼女は確かに言っていた。また来ると。この扉を開けると。また話をしてくれると。
王子のことを諦めないから。だから、私に会いに来ると。
* * *
王女は言葉通り、以来、度々私のもとを訪れるようになった。今日こそお願いを叶えてほしい、と。最初はまだ少し怯えながら沈没船に来ていた。しかし彼女は不思議なことに、私を見つけるとぱっと顔を輝かせるのだ。そして「こんにちは、魔女さん」と愛らしい声で挨拶をしてくる。本当に、この沈没船には似合わない存在だ。私にも、似合わない存在。
やがて彼女は、私がいる部屋以外にも興味を持ち、勝手に入り込んでは探険をするようになった。そして不思議なものを見つけては「これは何?」と聞いてくる。それはまるで――親しい友人の家に来ているかのようで、私を友達だと思っているかの様子だった。本当にそう思っているのかはわからない。そうだとしても、私には、彼女を友達だと思う資格はないだろう。醜い私と、天使の彼女。
私がこの沈没船でずっと一人で過ごしていると気付いたのか、彼女は時に、人魚の国のことを話してくれた。今日の国の様子のこと、はやっているもの、噂話――。
「ねえ魔女さん、聞いて」
そう始まる彼女の話は、まるでおとぎ話のようだった。夜、大人が子供に聞かせるような優しい物語。子守歌のように心地がいい。彼女は笑ったり、たまに怒った様子で、まれに悲しそうな顔で話をしてくれる。彼女が一緒にいると、世界が変わる。彼女のいる世界に引き込まれる。
でも、彼女の話の最後は、あの王子の話になる。
それでも、この部屋に彼女の声が響いている間は、幸福に満ちていた。最初の頃、あたかも一人で演劇を行うように語る彼女を前に、私はどうしていいのかわからなかったけれども、だんだんと話せるようになってきた。彼女の話すことについて、詳しく聞いてみたり、感想を言ってみたり。言葉は短いけれども、確かに話せるようになった。楽しいお話の時間。魔女としてではなく、ただ彼女に憧れを抱く存在として。自然と自分が微笑んでいることに気付いた時、遠くにいたはずの彼女が、本当に目の前にいるのだと実感した。私の希望。私の光。
だからこそ、言葉を交わすほどに、仲良くなるほどに、胸が締めつけられた。
彼女は確かに私に親しくしてくれているけれども、その心には常に王子のことを抱えていた。海から離れた場所にいる、人間の王子。日に日に彼女の話は、海から陸へと変わっていった。耳にした最近の人間達のこと、地上の暮らし方、王子のいる国の話。そして必ず最後に頼むのだ。
「魔女さん、今日こそ、私のお願いを叶えてくれる?」
訪ねてきて、聞かなかったことはない。愛らしくも――憎らしいお願い。
悲しいことに、私と彼女を繋いでいるのは、彼女の「遠くにいる王子に会いに行きたい」という願いだった。
遠くに行ってほしくないのに。私はこうして、あなたを近くで見ていたいのに。その声に、その話に、耳を傾けていたいのに。
光を手放したくなかった。もちろんそんなことを、彼女本人に伝えることなんてできないし、表情にも出さなかったけれども。醜い魔女である私に憧れられているなんて、知られたくないだろう。それに私は、本当はそんなこと、思ってはいけない存在なのだ。
でも、そばにいてほしかった。あの優しい歌声で、私を慰めてほしかった。
彼女は、私の目の前で歌ってくれることはなかった。しかし変わらず、国から離れたあの場所で一人歌っていることがあり、私も変わらずその様子をこっそり眺め、歌に聴き入っていた。その歌を聴けば聴くほど、彼女が愛らしく思えた。だからこそ願いを叶えてあげたいと思ったけれども、同時に去ってほしくないという気持ちも滲んだのだ。
ただ一つ言えることは、このままではいけない、ということ。
いまは不安定な関係だ。いまは王子の存在で、私と彼女は繋がっている。私としては、早く彼女に「人間と一緒になる」なんて子供でも考えないおとぎ話を捨て去ってほしいのだけれども、もし本当に彼女が王子に興味をなくしたら、もう私に会いに来てはくれなくなるだろう。私は確かに魔法で願いを叶えられる魔女だ。沈没船に住む、醜く意地悪な魔女。皆に蔑まれる存在。彼女は聞いたことがないのだろうか。この醜い尾について。呪いだ、病気だ、うつる、と言われていることを。
いままでの王女の様子から、彼女はきっと、私の尾について、誰からも詳しくは聞いていないのだろう。それも仕方がないかもしれない、話すことも避けられるほど、私の尾は醜い。だからなのか、彼女はここに通うようになってしばらくして「いつも布を巻いているのね」と、ある日から気にかけ始めた。その日以来、私はより布でうまく尾を隠すようになった。でも、いつまでも隠せるとは思えない。ただの布一枚で隠しているのだから。
この尾を見られてしまったら、王女も嫌悪に顔を歪めるだろう。そんな日が、いつか必ず来るのだ。王女との関係は、どうやっても、悪い方向にしか進まないのだ。だから私にできることは、現状を保つこと。でも簡単ではない。
そしてついに、その日が来てしまった。
その日、私は尾の鱗の手入れをしていた。取れかけているものは、何かの弾みで変に取れてしまう前に、自分で剥がす。ゆっくりと、痛みが最小限になるように。剥がれた鱗はより汚く見える。それでも、せめて次の鱗は丈夫できれいでありますように、と剥き出た肌に薬を塗る。いままで様々な魔法の薬を作っては試してみたけれども、効果が出たものはなかった。だから、今度こそは、と。
決して楽しい作業ではない。しかしその日は無意識のうちに、歌を口ずさみながら手入れをしていた。そう、王女が歌っている歌だ。まるで尾を慰めるかのように、歌っていた。何度も聞いていたので、もうすっかり覚えていて、無意識に歌ってしまうまでだった。
まさかそのタイミングで、彼女がここに来るなんて思ってもいなかった。
扉の開く音がして、わずかな悲鳴が聞こえた。それはふわりとした水の流れのように弱々しく柔らかなものだったけれども、瞬間、槍のように私を貫いた。
扉を見れば、王女がそこにいた。
あの空と海の青さを濃縮したような瞳は、他の人魚と同じ、醜い私を見る目となって大きく見開かれていた。その青さにうつるのは、汚水から生まれたような人魚、否、人魚もどきの怪物の尾。
見られてしまった。
傍らにある布に、手を伸ばすこともできなかった。冷たい海水が、私を縛る。沈没船に潜む闇が笑った。
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