04.足

 彼女が目の前にいることに驚いて、私は「何故彼女がここに来たのか」なんて思うことができなかった。ただ、それこそ夢でしか会えないような人物が自分を訪ねてきて、十数秒の恐怖に似た状態の後、やっと夢ではないと気付いてじわじわと嬉しくなったけれども、実際の表情は歪んだものになった。そしてまず私がしたのは、腰に巻いて尾を隠している布をひっぱり、簡単に尾が出ないよう、より隠すことだった。醜い自分を見られてしまったら、きっと蔑まれる。悪夢になる。

 そんな私の恥ずかしがるような行動を、王女は特に不思議に思わなかったようで、先程と何一つ変わらずにこちらを覗き込んでいた。改めて私が顔を上げると、青い瞳と目が合う。宝石のよう、なんてありふれた言葉では、その瞳に失礼だ。

 王女はそっと、部屋に入ってくる。この幽霊や怪物が出そうな沈没船に――魔女はいるけれども――天使のような王女がいるのは明らかに異様だった。彼女の周りだけ、水が違う、温度が違う、世界が違う。

「あなたが、何でもお願いを叶えられる、魔女さん?」

 再び尋ねられ、その優しく触れてくるような声に、改めて我に返る。まっすぐに見つめてしまっていた彼女から、顔を逸らして、部屋の隅へと視線を投げた。

「一体、何の用……」

 不思議なことに、私自身の声の方が聞き慣れない。話す相手はいないから、声を発することなんて滅多になかったのだ。低く、冷たい声は意地悪そうで、魔女らしい声と言えるだろう――まさに沈没船の闇に住み着く怪物の声、といった具合。それもあまり喋り慣れていない、なんとか真似をして喋ろうとしているかのような歪さを感じる。自分の声で、自分の言葉なのに。

 喋るのは嫌いだ。黙っていれば透明で、醜い自分がそこに存在していないように思えるけれども、喋ると自分が存在していることがわかってしまう。

 それでも、人魚が来た際に、馬鹿にされないよう、蔑まされないよう、弱い自分を必死に隠して強気で喋ろうとするのだけれども、

「……」

 王女相手には、うまくできなかった。もう何も言わず、黙って王女を見つめた。いつもなら、用がないなら帰ってくれと、ぴしゃりと言えるのに。

 王女はしばらくの間、何も答えなかった。部屋に入ってすぐのところで止まったまま、何かが違う、といった様子で、少し呆けた顔をして、私を見ていた。だからとっさに尾を身に寄せた。気になるのだろうか。

 それよりも、本当に何故、彼女がここへ来たのか。彼女はまだ答えない。そもそも彼女は王女で、まだ幼い末の子だ。魔女のところへ行くなんて、誰かしらが止めると思うのだけれども、誰にも言わずに来たのだろうか。

 と、ふわり、と王女が近づいてきた。反射的に私は身を退いたけれども。

「本当に、あなたが魔女さん? 普通の人魚に見えるけど……」

 醜い尾が見えなければ、普通の人魚に見えるだろう。王女は疑うように私の目をのぞき込んでくる。あんなに遠くにいた王女が、こんなに近くに。

「……用が、ないなら、できることも、しないわよ」

 そして、会話した。彼女に話しかけられ、私は応じた。王女と、話をしている。変な感覚だ、あれほど遠くにいた彼女と話しているのだ。あの美しい声と会話しているのだ。

 王女は何がおもしろいのか、くすくすと笑い出した。地上で小鳥達が歌うのに似ていた。

「あなた、本当に魔女さんなのね! 噂話だととっても怖い人だって聞いてたから……なんだか安心しちゃった!」

 空からゆっくり落ちてくる羽毛のように、ふわふわとその場に浮く。本当に天使のようだった。この沈没船にある無念を浄化しに来たような天使。しかし彼女は困った顔をして、

「魔女さん、あのね、聞いてほしいことがあるの……他の人魚に言ったら、騒ぎになりそうだし、お父様やお姉さまに話したらきっとお城からだしてもらえなくなるし……誰に話したところで、どうにかできるものでもないから……そこで魔女さんに会いに来たの。魔女さんなら、お願いを何でも叶えられるって、聞いたから……他の人魚には内緒よ?」

 一体何の話を、何の頼みをするというのだろうか。他の人魚には内緒――自分だけに、抱えているものを話に来た。あの彼女が。魔女である私に。魔女だから、私に。

 彼女は私に助けを求めてきた。

 ちらりと彼女を見る。直視はできない。こんな私が直視していいわけがない。けれども、彼女が何を願っても、その全てを、叶えてあげようと思った。あれほどに歌を歌ってくれたのだから。私に幸福をくれたのだから。彼女は知らないだろうけど。

 だが王女の口から出た言葉は、信じられないものだった。

 彼女は何か話そうとしたけれども、どこから話していいのか分からない様子で、果てにその絵に描いたような整った顔を赤く染めたのだ。

「人間の足があれば、人間の人と一緒になれるわよね……?」


 * * *


 先日の嵐の日。難破した船から放り出された人間一人を、王女は助けたのだと言う。そしてその人間に、恋をした、と――相手は、この海から近い場所にある国の王子だった。

「素敵な人だった……私、やっと海の外を見てもいい歳になったから、あの日、夕日を見に海上へ向かったの。そしたら、大きな船が浮いていて、そこに彼がいたの」

 そう話す王女は、幸せな夢を思い出すような様子だった。頬を赤く染めた幸せそうな表情で、少し恥ずかしがるように視線を落とす。けれども、遠くにある海上を見つめるかのように顔を上げた。

「ずっと見ていたわ……夕日に輝いていたの。それはとてもきれいで……優しい顔で海を見ていたわ。海、だったのかしら。まるで平和な世界を優しく見つめているようだった……だから私、もっと近くで王子様を見たい、お話してみたいって、思ったの! でも、そう望んだせいかもしれないわね。夜が近づいてくるにつれ、嵐が迫ってきて……本当に私がそう望んだせいだとしたら、私は悪い子ね」

 王女は申し訳なさそうな顔をしたが、両手を胸の前で握り、溜息を吐いた。それは憂いのものではなく、緊張がほぐれたようなものだった。

「でも……そのおかげで、確かに王子様はすぐ近くに来てくれた。彼、船から海に放り出されちゃったの。気を失ってたわ。このままじゃ溺れ死んじゃうと思って、とりあえず目が覚めるまで身体を支えていたのだけれど、なかなか目を覚まさなくて。それで近くの浜辺まで運んであげたの。慣れないから、時間がかかっちゃったけど……」

 ふと、目に入って気になったのだろう。彼女は棚へと近づいて、そこに並ぶいくつもの瓶を眺める。少し落ち着かない様子だ、まるでじわじわと焦り始めたかのようだ。

「人魚は、あまり人間の前に姿を現すべきじゃない……みんなが言うわ。でも私、王子様とどうしてもお話してみたくて、浜辺で彼が目を覚ますのをずっと待ってたの。ちゃんと起きてくれるか心配だったこともあるわ。けれども、王子様は朝になっても起きてくれなかったの。そこへ、陸地の方から人影がやってきて、私は慌てて海の中へ逃げたの」

 瓶の一つを王女は指でつついた、中に入っていた白い粉がふわりと舞って、幻が消え去るかのように瓶底へ落ちていく。

「王子様は……大丈夫だったみたい。浜辺から離れた海で、その後を見守ったわ……王子様のところへ、女の人が一人やってきたの。後は全部その人に任せたわ……でも私、王子様とお話できなかったわ……隣まで来られたけど、遠くから見ているのと、何も変わらなかった……」

 話ができない。遠くから見ているだけ。

 つと、王女はこちらへと、その神秘的なまなざしを向けた。

「私、あの人とお話がしてみたいの。それに……忘れられないの、あの人のこと。ずっと考えちゃう……あのね、あの人と、目が合ったの。嵐が来る前、海から彼を見つめていると、ふいに彼がこっちを向いたの。びっくりしちゃって海の中に潜ったけど……確かに目が合ったの。彼、人魚の私に気付いたに違いないわ! その後、少しの間、私を捜してくれたもの、海の中を見つめていたもの……その時私は……この人と一緒になりたいって、強く思ったの。それが……運命なんじゃないかなって」

 人間と人魚が一緒になるのが、運命?

「でも人魚じゃ、人間と結ばれることはできないわ。人間と結ばれるには、人間でないと」

 王女は自身の七色に輝く尾を撫でた。私にはない、それ。

「だから、足が欲しいの。人間の足が」

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