03.王女
初めて王女を見たのは、魔法の材料を集めている時だった。
美しい人魚の姿を、諦めきれなかった。あの魔術書に私の願いを叶える術はなかったけれども、研究を続ければいつか叶うのではないか。そう考えて、私は日々、魔法を研究し、またそのための材料を手当たり次第集めていた。
腰に色鮮やかな織物を巻いて、尾を隠す。この尾はあまり見られたくないし、自分でも嫌いだ。そしてゆっくりと泳いでいく。速く泳ごうとすると、鱗が剥がれて痛い。
集めるものは、海草や貝殻をはじめとした、海で手に入るもの。人間が落とした地上のものも時々あって、これはとても貴重なものだ。けれども本当に希だ。それにこの手のものは、他の人魚も欲しがるために、先に見つけられてしまえば持っていかれてしまう。それでも、取られずに何かいいものがあればいいのだけれども、と考えつつ、泳ぐ。
人魚の国から離れた場所。明るいけれども、他の人魚がほとんど来ない場所。海底の砂の上で、きらりと何かが輝いていた。日の光を凝縮したようなそれ。このあたりの魚の鱗だ、何かの弾みで剥がれ落ちたのだろう。いい材料になりそうだ。
しかし、どうして自分はこうではないのだろうか。剥がれ落ちた魚の鱗は、いまでもきらきらと輝いているのに――もしかすると、私はこの海で一番醜い生き物なのではないだろうか、そう思ってしまう。そしてどうして私なのだろうか、とも。この魚の鱗でさえ美しいのに。一体誰が私の容姿を、私の生き方を決めたのだ――。
瞬間、手にしていた鱗に、ぴしりとひびが入った。いけない、力んでしまった。
けれども、その鱗が割れてはらはら散るのを見て、耐えきれなくなってしまった。何故私なのだろう。私である必要があったのか。顔を歪め、目を閉じる。涙は出ない。もう枯れた。しかし痛みは治まらない。これからもずっと続いていくのだろう、この絶望と共に。
――歌が聞こえてきたのは、その時だった。
それはまるで、花咲く地上から流れてくるそよ風のように、優しく透き通った、歌声。
世界が変わったような感覚になって、私はぴたりとその場で動きを止めた。突然、夢の中に迷い込んでしまったかのような。
しばらくして我に返り、慌ててあたりを見回した。誰かがいる。
誰かに自分の姿を見られるのは嫌だった。だからいつもならば、誰かいると気付いた時点で、その場から去ることを選んだだろう。
しかしその時は、天使の歌声に心を奪われてしまったのだ。まるで日が射すように聞こえてきた、美しい歌声に。
耳を澄ませば、歌声は先の方から聞こえてくる。誘われるように、そちらへ泳いでいく。
そして彼女を見つけた。
桃色の岩。そこに、一人の人魚が腰掛けて歌っていた。海上を、見上げながら。
淡い色の宝石、水面を撫でるそよ風、水中に差し込みゆらゆらと揺れる日差し――そんな、美しく優しいものが溶けたかのような声で、彼女は歌っていた。まるで海中に花を咲かせるかのように。金色の柔らかそうな髪は、光を受けて天使の翼のように輝いていた。まだ幼さの残る顔立ちは、人間達が想像し描いた少女の人魚そのもの。大きな瞳は、海中から太陽を見た時のような、透き通った青色だった。
美しい人魚がそこにいた。聞いた者全員が幸福に満たされるような声で、歌っていた。
彼女が誰であるのかは、すぐにわかった。人魚の王の、娘の一人、末の王女だ。噂は耳にしたことがある、どの人魚よりも美しく可憐で、人魚の中の人魚である、と。その王女で間違いないだろう、そこにいたのは、完璧な美しさを備えた人魚だったのだから。
その美しさ以上に、歌声は美しかった。どんな歌よりも、どんな音楽よりも、優しく染みこんでくるような甘い声、心地の良さ。
彼女の周りには、小さな魚が集まってきていた。彼らも歌を聴いているのだろう。王女は手を差し出せば、歌いながら指で魚達と戯れる。王女も魚達も、私には気付いていない。
私はそれ以上近づかず、近くの岩に身を隠して、王女を眺めていた。歌声に耳を澄ませていた。王女がふわりと泳ぎだし、いなくなった後でも、私はまだ夢の中にいるような気がした。あの美しい声の余韻が場に残っている。幸福が海水に溶けて、漂っている。
後から知ったのだけれども、どうやら王女は、度々ここへ来ては歌っているようだった。独り言や、魚達への話から、彼女は歌うことは好きだけれども、誰かの前で歌うのは苦手らしい。だから国から離れたここまで出てきて、歌っているようだった。
王女の美しい歌声。そして美しい王女自身に惹かれて、以来私は毎日そこへ通うようになった。毎日彼女がそこにいるわけではない。けれども歌声が聞こえてくれば、私はそっと身を隠し、彼女の歌声に耳を澄ませるのだ。彼女の歌声は、他の人魚から迫害され、一人暗く静かな場所へ追いやられた私にとって、慰めだった。私を慰める、薬。
本当は、もっと近くで彼女の歌を聴きたかった。彼女の前に出て、その歌を褒めたかった。彼女の歌は、本当に素晴らしかったから。けれどもそんなことはできない。もし私が現れたら、彼女は驚いてしまうだろう、もうここへ来なくなるに違いない。
それでも、少しだけ、彼女と話してみたい気持ちがあって。
彼女のあの美しい声で、話しかけてもらいたかった。彼女のあの柔らかな笑みを、こちらに向けてほしかった。
私はいつも一人だったから。
いつからか私は、彼女と友達になりたいと、願っていた。
友達になれたのなら、きっと彼女は、素敵な友達。
でも今以上に望んではいけない。そう自分に言い聞かせた。今でも十分幸せじゃないか、と。時折ここに来る彼女を、遠くから見ていられる。その歌声に静かに聞き入られる。
だから、このまま終わるのだろう。そう思った。
いつの日か、彼女はここへ来なくなるだろう。ずっとここで歌い続けるとは思えないし、期待したくない。絶望したくない。あるいは、私がここへ来なくなって。そうして何も始まることなく、終わるのだ。私は彼女に存在を知られず、言葉を交わすこともなく、友達になることもなく、終わる。夢が終わるように、終わる。
そう思っていた。
激しい嵐が過ぎ去り、数日が経つまでは。
* * *
ひどい嵐がやってきた。その日、夕方になると、それまで澄み渡っていた空は、誰かが不純物を混ぜたかのように灰色に濁り始め、厚い雲が全てを覆った。そして嵐となり、世界を揺さぶるように乱した。けれども、海上が荒れる中、海の中はそう荒れることはなかった。海の中は、外とは別の世界だ。
問題は嵐の後で、たくさんのものが海底へ沈んでくること。それらは大抵人間のもので、船の残骸やどこかの街から飛ばされてきたものが多い。つまり、ごみが多いのだ。海の中は、嵐の後が荒れる。
でも宝物もあるのは確かだ。人間のもの、地上のものは、人魚にとっては珍しいもの。しかしやはりごみが多い。嵐は様々なものをもたらしてくれる。いいものも、悪いものも。
そして、嵐は私にも、二つのものをもたらした。
それは、幸福と、絶望だった。
生活する場所として使っている沈没船の一室。私はそこで何をすることなく、過ごしていた。だからすぐに船内の海水の流れがわずかに変わったことに気がついた。壁に必死に張り付いていた泡のいくつかが、私の鱗のように剥がれて、蛆虫のようにうねうねと昇る。
誰かが来た。顔を上げる。また頼み事をしに、ろくでもない人魚が来たか。
やがて、誰かがこの部屋の扉の前まで来たのを感じた。誰かが向こうにいる、魔女がいるのはこの部屋だと聞いてきたのだろう。泡が怯えるように震えた。
扉はすぐには開かなかった。多くの人魚がそうだ。ここに本当に魔女がいるのか。恐ろしくて開けられない。そのまま去ることもある。けれども、その人魚は去ることはなく、扉を開けることもなく、
「そこに……誰かいますか?」
――その声は、まるでこの冷たい海を切り裂くかのような日差しだった。
震えた声。しかし、よく聞く声に、間違いはなかった。
「……魔女さん、いますか?」
私は凍りついて、声を失った。
返事ができないままでいると、やがて、ぎぃ、と扉を開けられた。開いた隙間から、温かい海水が流れてくるようで、部屋中の泡が震えて天へ逃げる。天井にぶつかれば、身を寄せ合うように他の泡と一緒になって、そしてなんとか隙間を見つけて部屋から出ていく。
扉の隙間から、青い瞳がこちらを覗く。金色の髪が、幸福を連れてきたと言わんばかりにふわりと漂う。
「あなたが……魔女、さん?」
その声は、間違いなく、私に向けられたものだった。向けられることなく、ただ遠くで聞いているだけで終わると思っていた、彼女の声。
現れたのは、末の王女、彼女だった。
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