06.歌
「……魔女、さん? その尾は、何?」
王女はそれ以上、近づいては来なかった。その声は、いままで聞いてきた声とは、全く違って聞こえた。
恐怖と嫌悪の声。他の人魚達と、同じ声。
「――帰って」
混乱はしなかった。吐き気を覚えるほどに、頭の中が冷えた。
彼女のその目、その声で、目が覚めてしまった。
彼女も人魚なのだ。私とは違う。そのことを、すっかり忘れていた。
「……その尾は、大丈夫なの? 怪我を、したの?」
すっかり怯えた様子の王女は、それでもこちらへと近づこうとする。とっさに私は尾で床を叩いた。脆い鱗が剥がれるのも構わずに。剥がれて舞って、そして落ちていった汚らしい鱗は、どことなくいまの私に似ていた。その鱗を、否定するように見る彼女――。
「そんな目で私を見ないで! 帰って! もう二度と来ないで!」
怒鳴れば彼女は震え、するりと部屋から出ていった。声も上げずに、あの光あふれる世界に吸い込まれるように。
時間が巻き戻ったような、あの感覚。でも、全ては確かに起こった。
我に返って見下ろせば、醜い尾がそこにあった。床には散っているのは汚い鱗。輝くことなく、まさに死体のように落ちている。死んでいる。
耐えられず声を漏らして、助けを求めるように布を掴んだ。床に落ちた鱗を、その布でばさりと払う。醜い鱗は部屋の隅に追いやられる。
見られてしまった。王女に、本当の私の姿を見られてしまった。いままで必死に隠してきたのに。こんなにも醜いと、知られてしまった。
見られたくなかった、知られたくなかった。彼女を怖がらせてしまうから。彼女がもう来てくれなくなるかもしれないから。
怪物は、世界から嫌われ、怖がられるものだ。その通りになってしまった。
彼女を傷つけたくなかったけれども、耐えられず怒鳴ってしまった。でもそのことを考える以前に、この醜い尾を見られてしまったのだ。
親しく話しかけていた魔女が、怪物だと気がついた。これで、もう、彼女は二度と、ここへは来ない。もう彼女とのおしゃべりも、おしまい。
そもそも私と彼女。全く違う生き物。関わりを持つべきではなかったのだ――私が王女と王子、関わりを持つべきではないと思ったように。
涙は出なかった。嗚咽だけ漏らして、遅れてやってきた尾の痛みに、全てが現実であると改めて感じる。そして自分が本当にどうしようもない見た目で、だからこそ「人魚もどき」としての生き方をしなければならないと、布を握りしめた。
夢だったのだ。あれは。この暗い沈没船で見た夢。
――これで、よかったのだ。
私の醜い尾を隠すためのきれいな織物。よく見ると、薄汚れていて所々が解れていた。けれどもしっかりと腰に巻く。これが私の尾だと言わんばかりに、本来の尾を隠す。
これでよかった。これで、よかったのだ。遅かれ早かれ、王女が私のもとから去ってしまうのは、予想していたこと。それがただ、今日だったという話。
しかし思い出すのは、あの怯えた王女の顔。醜い尾を目の前にした際の、正しい反応。
――ああ、あなたもそういう顔をするのね。
涙が出なかったのは、割り切ったから、こうなることを予想していたから、それだけの理由ではなかった。
誰もが私を、否定する。彼女もだった。
けれども次の日。
再び王女は、ここへやってきたのだ。あんな目で私を見て、怯えていた彼女が。
……部屋でぼんやりとしていると、突然扉を叩かれた。普段ならば、すぐに誰かが沈没船に来たと感じるのに、その日は全くわからなかった。そして耳を疑った。
「私よ! 魔女さん!」
王女の声が聞こえた。間違いない、あのきれいな声だ。
ゆっくりと顔を上げる。いまのは幻聴だろうか。彼女が戻ってくることは、ないと思うのだが。しかし扉の向こうには確かに誰かの気配があって、まるでその声が鍵であったかのように、扉はゆっくりと開いた。
私の返事を待たずに、王女は部屋へと入ってきた。いままでと同じ様子で。昨日とは違う。怯えた様子なんて、どこにもなかった。そう、何事もなかったかのように。
私が口を開く前に、王女はあたかも子供が謝るかのように、さっと頭を下げた。
「昨日はごめんなさい! 知らなかったの、私、あなたの尾のこと……」
王女の美しい尾が、暗い沈没船できらりと輝いた。私とは全く違う尾。
王女が戻ってきた。もう一度、私に会いに来た。
震えながら、漏れそうになった声を殺す。王女を直視できなかった。その輝きがうるさくて、目に痛くて、泣きたくて、目をそらした。それでも、彼女が纏う温かな気が、私へそっと触れてくるようで。
王女が戻ってきた。私に、謝りに来た。私に、ひどいことをしてしまったと思って。
「……怖いもの見たさで戻ってきたんでしょ? 馬鹿にするために戻ってきたんでしょ」
けれども私はその温かさを払う。
だって、どうしていいのかわからないから。
彼女が何を言おうと、私は結局のところ「人魚もどき」だ。と。
「あなたのこと、みんなから詳しく聞いたわ」
すっと、その温かさが、輝きが、近づいてきた。
避ける間もなかった。瞬きをした瞬間、目の前に王女の顔があった。青い瞳には、私の嫌いな自分の顔が映っている。ああ、その青さの中に自分のような汚いものを入れないでほしい。でも王女は、じっとこちらを見つめていて。
「あなたの尾は、呪われている、病気だって。うつるって」
そう言いつつも、彼女はその小さな手で、私の尾に触れた。布を巻いて隠した私の尾。彼女は直接触った訳ではないけれども、この布の下には、確かに醜い尾があるのだ。それでも、彼女は触れた。
王女の小さな手は、決して温かくはなかった。
「私、あなたとしばらく一緒にいたわ。でも、うつることなんてなかった……だからきっと、みんながそう言ってるだけなのよね?」
でも触れられたことで、彼女の手の冷たさを感じた。王女の手は滑るように、私の手を握る。
「それに、あなたは呪われてもいないわ。あなたはいい人よ。いい人が、呪われているわけないじゃない」
「……いい人って?」
いい人、なんて。彼女は簡単にそういうことを言える。夢見がちな彼女。世間知らずで、お人好しなところも見える。彼女はまだ幼いのだ。それ故に愚かしい。
でもその手を、振り払えなかった。
王女の手と、私の手。同じ温度。
「悪い人じゃないでしょう? 魔女さんは」
この薄暗さに似合わない笑みを、彼女はいともたやすく浮かべる。
「魔女さんは意地悪だって聞いたけど……いろいろ言われて、それでみんなが嫌いだから、そうなったんでしょう? それなら……魔女さんは悪くないわ。私に人間の足をくれないのも、きっと何か理由があるから。意地悪なんかじゃないわ、そうでしょう?」
彼女の声は、温かく、甘くて、まるで私を撫でるかのようだった。
この声に、私は一体何度慰められただろうか。
「それにあなた、歌が上手だったから。歌が上手な人に、悪い人なんてきっといないわ!」
「――歌?」
それは何のことだろうか。私の歌が、上手?
思い当たる節が全くなかった。そもそも私は、歌なんて歌っていただろうか。喋るのも、苦手なのに。
「私の歌、歌ってたでしょ? 私、あの歌は誰もいないところで歌ってたんだけど……魔女さんったら、聞いてたのね」
歌。彼女の歌。
やっと私は思いだした。昨日、歌ってしまっていたではないか。彼女の歌を。彼女以外に知るはずのない彼女の歌を。尾を見られたことで、すっかり忘れていたけれども。
あ、え、と、取り乱して、まっすぐに彼女の顔を見てしまった。昨日、尾を見られたときよりも、頭の中が混乱してしまった。
「あ、あれは……」
言い訳なんてできない。全て事実だ。こっそり聞いていたことが、ばれてしまう。彼女は人前で歌うのが恥ずかしいと感じているのに。
「私の歌、好き?」
しかし彼女は機嫌を悪くすることなく、少し顔を赤くして尋ねてきた。普通、こういうときは怒るものではないのだろうか。少なくとも私は、尾を見られて怒った。でも彼女には、そんな様子が全くない。
「……嫌いじゃ、ないわ」
唐突な質問に戸惑いつつも、私はなんとか最適な答えを選んで口にした。あなたの歌は、大好きだった。でもそんなことはっきり口にできない。だからといって嫌いと答えるのは間違っている。そう考えた結果、なんとか絞り出した答えだった。
すると王女はぱっと笑った。私の心理を見抜いたように。
「よかった! 恥ずかしいけど、誰かに聞いてもらいたいとも思ってたの!」
私の手を握ったまま、ぶんぶんと、万歳するかのように彼女は手を振った。それは本当に、褒めてもらって嬉しいという様子で、幼く、無邪気で、健気で。
「変な歌って、馬鹿にされちゃうかもって思ってたの……でもそう言ってもらえて嬉しいわ! それに、歌ってくれるなんて! それくらい好きってことよね? ありがとう、魔女さん!」
どうして彼女はこんなに前向きで、明るいのだろうか。私とは違って。それが不思議で、少し憎らしくて、愛らしくて、
「私なんかに歌を歌われて、あなたも不幸、よね。もっと人前で歌えばいいのに」
褒めてあげたかったけれども、私はやっぱり素直になれなくて、皮肉ってしまった。言ってからしまった、と思う。どうしても、妙な言い方になってしまう。しかし王女は、私が素直になれないのを知っているかのようで、
「……魔女さんは、自分がみんなに嫌われてると思ってるから、そう言っちゃうのね」
そして、あの天使の声で、
「魔女さん、私はあなたのこと、愛してるわ」
――愛している?
それは、どういう意味だろう。
私にとって、初めての言葉。ありふれているけれども、言われることのなかった言葉。
彼女は続ける。
「あなたはいい人。いいお友達よ」
お友達。私の欲しかったもの。
手を伸ばすことも恐れた光。その光が、いま、私の手を取っている。
愛している。お友達。美しい言葉を紡いだ美しい声が、響く。彼女は無邪気に微笑んでいた。目を細めて、光を纏っているかのように。俯けば、私の手を握る彼女の手があった。小さくて、優しい手。
目を瞑る。声は出ない。
私は。
――私は、嬉しさに微笑むことなく、わずかに顔を歪ませた。
彼女の優しい手が、私と彼女を結ぶ糸を、解いてしまったから。
――でもあなたは、地上に行きたいんでしょう?
そんなことを言っても、彼女が本当に欲しいものは、人間の足。そして王子の愛。
愛している。お友達。ありふれた言葉。
私にとって唯一の友達であるあなたは。
私に初めて愛していると言ってくれたあなたは。
――私を見捨てるように、外に行きたいと願っているんでしょう?
薬は毒になる。この冷たさで、彼女の温かさは火傷を起こすほどのものだった。
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