トラウマティックな木曜日
佐賀瀬 智
いつもと違う光景
一日一回、エクササイズを兼ねて、馬のチェックとフィールドのゲートのチェックをしに私はフィールドに行きます。今日は木曜日だったので、時間に余裕をもってフィールドに行きました。
2020年3月末に外出禁止令が発令されたイギリスでは木曜日夜8時になると、新型コロナウイルスと戦う医療関係者やキーワーカーを称える拍手が起こります。そしてイギリス全土でクラクションやアラームを鳴らしたり打ち上げ花火があがります。
先週はその音に馬たちがびっくりして走りだし、にわかカントリーウオーカーが開けっ放しにしたゲートから運悪く、一頭だけ馬が出てしまって大変でした。なので、8時の打ち上げ花火の前にフィールドのゲートをチェックをしたいのです。
遊歩道からもフィールドには行けますが、私はいつも、それを逸れて
しかし、今日はそのフィールドでいつもとは違う光景を目にしました。若い男女が新緑の茂みでいちゃいちゃしているのです。外出禁止令が発令された直後にフィールドで見かけたあのいちゃいちゃしていたカップルと同じ二人でしょうか。こんなご時世、こんな時間、それにもう初夏なのにこんなに冷たい小雨もパラパラ降っているというのに。
向こうに気が付かれたら気まずいので、気が付いていないふりをして私は馬の名前を大声で呼びました。
「ハッテイ、ベイビー、カムカムッ!カムヒア!カムカム! ハッテイ、ベイビー、こっちにおいでーっ」
馬たちの群れは遥か向こうにいて、私の声は馬たちに届くかどうか分からないけど、それでいいのです。馬に聞こえるより、そのカップルに聞こえて欲しかったからです。
案の定、私に気が付いた若い二人はそそくさとその場を去って行きます。私は見て見ぬふりをしていましたが、事態はそうはいかなくなりました。なぜなら、その二人はあの問題の人々が開けっ放しにするゲートに向かっているからです。もしあの二人がゲートを閉めずに行ってしまったなら、また馬がゲートの外に出てしまうかもしれません。幸いにも今日は馬たちはそのゲートの近くには居ませんでしたが、もし開けっ放しにしたら、閉めなければなりません。
なので、私はそおっとその二人の後を追って行きました。
まるでヤバい人です。傍から見るとストーカーです。
でも、そんなことを考えている時ではありません。茂みに身を隠し二人がゲートをちゃんと閉めるかどうか確認しなければなりません。
ふと背後に気配を感じました。
――誰?!
振り向くとそこには馬のハッテイがいました。
ああ、びっくりした。ハッテイ、あんなに遠くに居たのに私の声が聞こえたのね。
私はハッテイの首を撫でました。けれどハッテイはそれよりも、
『おやつちょーだい』
と言っているようで私のバッグをハムハムし始め、ビニール袋がバリバリと音を立てました。
「ハッテイ、ちょっと待って。シー、静かに」
それでも、鼻をグイグイと私の腕にくっつけてきます。
『おやつー、おやつ欲しいー、おーやーつー』
「今、忙しいの。タンポポでも食べていて」と、そばに咲いていたタンポポをちぎってハッテイにあげました。
そうこうしていると、若いカップルはちゃんとゲートを閉めてロープをフックして、いちゃいちゃしながら去っていきました。
「ああ、良かった。ちゃんとゲートを閉めてくれたわ」
と、そんな当たり前の事に喜んでしまいました。
私が彼らの後を付けている事を気付かれなくて良かったし、ちゃんとゲートも閉めてくれたし、ハッテイもお利口さんでおやつを待ってタンポポを食べてくれたし、すべてがハッピーエンドです。
「さあ、りんごをあげるよ。お食べ」
ハッテイはおやつのりんごを美味しそうに食べました。
そして8時の打ち上げ花火が上がりました。今週は一発だけで、車のクラクションも鳴らず先週とは比べ物にならないくらい静かでした。
それでも、ハッテイはビクっとして、おやつのりんごにも目もくれず、一目散に群れの方に走って行きました。危険を感じたら群れのみんなと一緒に居るのが一番安心するよね。
じゃあね。バイバイ、また明日。
パラパラと降っていた冷たい雨はいつの間にか止んでいて、西の空がなんとも不思議なほんわかピンク色に染まったイブニングでした。
おしまい
トラウマティックな木曜日 佐賀瀬 智 @tomo-s
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