理想郷(下)

 ムウ兄とタカアキは、それから急速に仲良くなっていったという。


 ムウ兄はタカアキを誘い、二人で遊びに行った。教室で積極的に声をかけ、部活のない日も一緒に帰った。双眼鏡を持って、天体観測に出かけた夜もあったらしい。


「貴明は、友人としては魅力的な存在だった。こちらを称え、褒めてくれる。話も合わせてくれる。僕が知らないことは教えてくれたし、向こうが知らないことを僕が教えると、手を叩いて喜んだ」


 ムウ兄はそう言った。

 特にタカアキは、人類火星移住計画に興味を持っていたという。真実味のあるものからファンタジックなものまで多岐にわたる、夢のある話だ。


「ネタには尽きなかったな。中学生らしく、『五十年後の火星の地図』みたいなものも書いたっけ」


 ムウ兄は楽しそうに語った。

 温室効果、地下に眠る氷の層、アニメに出てきそうなコロニー、使い古された宇宙人。それらは一列に並べられ、彼の舌の上で踊った。


「僕と貴明は唯一無二の友人みたいだった。そこに哲司は要らなかった。僕が入れなかった。まあ、彼はああいうやつだから、特に気にも留めていないようだった。ただ黙々と、自分のしたいことをしていた」


 ふと気が付いたかのように、ムウ兄は「……そう言えば、哲司があの天体望遠鏡を買ったのは、その頃だったと思う」と呟く。


 ボクはやっぱり、無言だった。


 そこで、ムウ兄が一つ、息をついた。

「でも、僕は結局、哲司に勝てなかった。僕は貴明に言ったんだ、

『わかっただろう、哲司といるより、僕と遊んだほうがずっと楽しい。何であんな奴にかまうのか』

って。……今にして思えば、最低の台詞だけどな。僕は必死だった」


 ムウ兄は自嘲気味に笑った。


「貴明は、こう言った。

『確かに、そうかもしれない。でも、哲司は自分の友人だ。哲司は凄いやつだ。自分は哲司と仲良くしていくつもりだし、君と哲司が友人になれるよう、今後も努力するつもりだ』

……本当に馬鹿だよ、あいつは。あんなこと言っておきながら、その日の夜、貴明は死んだ。赤信号を無視して渡ったんだってさ。……全く、何をぼうっとしていたんだろうね、は、は……」


 乾いた笑い声が響く。

 気がつけば、蛍光灯の灯りが目立つ時刻になっていた。時期に、すっかり暗くなってしまうだろう。


 ムウ兄は、机から飛び降りた。床と上靴のゴムが擦れる音が響く。


「貴明が死んで、哲司は天文部に寄りつかなくなった。どころか、中三の春頃なんかは、学校にすら来なくなっていた。なんだかんだで、ショックだったんだろう。夜、双眼鏡抱えて歩き回ってる、なんて噂を聞いたときは、『ああ、こいつも貴明の友人だったんだな』って、笑っちゃったよ」


 その頃から、ムウ兄は新島先輩を誘い、この神社で天体観測をするようになったらしい。


 「車に撥ねられる危険性は少ないだろ? 哲司も見ていて危なっかしかったし、多分、正しい判断だったと思う」と、おどけた調子でムウ兄は言った。


 そこで、彼の声はぐっと低くなる。


「ずっと、貴明の『仲良くしてほしい』って言葉が、呪いみたいに染み付いて離れないんだよ。畜生、きっと、今この状況が、あいつにとっての理想なんだ。畜生、哲司も僕も、馬鹿だよなあ……」


 頬を掻くムウ兄を、ボクは見ていた。

 視線に気がついた彼は、「ごめん、長くなったな。……ごめん」と頭を下げた。


 ボクは、しばらくの間黙っていた。

 ムウ兄や新島先輩について聞きたがったのは、ボクの方だ。でも、その答えは、ボクが望んでいたようなものではなかった。彼らの話は彼らだけで完結していて、ボクが入り込む余地はなかった。


 ムウ兄は、ボクにこの話を語って聞かせたことを、本気で悔いているようだった。確かに、ボクが知らなくてもいい情報も、彼は語っていた。


 学生鞄を持ったムウ兄は、「帰ろうか」とボクを促す。

 のろのろと帰る支度をする。コートの袖に腕を通し、鞄のチャックを閉めた。


 ムウ兄は、ボクが教室から出たのを確認し、電気を消した。鍵を閉め、「職員室に鍵を返してくる。靴箱で待っててくれ」と手を振った。




 靴箱で彼を待つ間、ボクは考えていた。


 タカアキ、という人は、今でもムウ兄を縛っている。ムウ兄だけが、タカアキに縛られている。


 新島先輩のことは知らない。あの人は多くを語らない。それに、本当にムウ兄と仲が悪いのなら、ムウ兄のエゴなんかに付き合わないだろう。わざわざ重たい望遠鏡の道具を抱えて、ボクらの神社には来ないだろう。


 きっと、新島先輩は、ちゃんとムウ兄を見ている。友人かどうかはともかく、タカアキをどう思っているかはともかく、一人の人間として、ムウ兄と対峙している。ムウ兄を、語っている。


 靴箱は酷く冷えていた。確実に体温が奪われていく。何とかしなければ、と思う。

 理科室でムウ兄の口が開くのを待っていた時と、同じ焦燥感が、ここにあった。


 ――そうだ、と、ボクは顔を上げた。


 ムウ兄が、タカアキで自身を縛るような語り方をするから、駄目なのだ。ムウ兄と、新島先輩と、タカアキと、その三人だけでムウ兄の過去は成り立っている。

 でも、それは、単なる過去だ。


『でもさ、この神社だって、ここは神様の場所だ、って語られてきたから、神社になったんじゃあないか? だとすれば、これから毎日、ここが僕らの居場所だって語れば、きっとそれが本当になるさ』

 いつかの言葉が、脳内で再生される。


 ムウ兄が戻ってくる。

 「おまたせ」と手を挙げる彼は、寒さで一つ、肩を震わせた。


 ボクは尋ねる。いつもの彼を真似、おどけるように、何の意味もないかのように言う。


「ムウ兄、そう言えばさ、新島先輩との天体観測に、どうしてボクを誘ったの?」

「ああ、流石に男二人だけじゃあ、飽きが来そうだったからな。やっぱり、人数多い方がいいだろう? 君なら昔から知ってるし、誘ったら来てくれるだろうと踏んだんだ」


 細く長い腕が伸び、ボクの頭をぐしゃぐしゃとかき回す。ムウ兄は、「その呼び方も久しぶりだなあ」と嬉しそうに言った。


 外に出ると、空はもう夜に切り替わっていた。電燈や家の灯りが、そこら中に散らばっている。


 ボクは、「ねえムウ兄」と、もう一度彼の名前を呼んだ。


「これからさ、OB会の回数、増やそうよ。十月六日まで、沢山火星を見るんだ。ひょっとしたら、タカアキって人、火星にいるかもしれないよ。その人、火星が好きだったんでしょう? ボクらで赤い星を何度も見上げて、探してみようよ。ひょっとしたら、新しい発見もあるかもしれない。昔みたいに、今度はボクらで、火星を見ようよ!」


 ――ムウ兄は、驚いたようにボクの方を見た。


 目をしばたき、まるで新しい生物を目撃したかのような顔になる。

 それから、一瞬、上を見上げた。

 灯りが多いせいで、星は見えない。ただ、薄い月がぼんやりと浮かんでいる。


 彼がこちらを向く。その瞳には、確かに、ボクが映っていた。

 ムウ兄は、仕方なさそうに「そうだな」と笑った。

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理想郷 桜枝 巧 @ouetakumi

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