理想郷(中)


「新島先輩って、ほんとにクス中の人だったんですか」


 ある日の放課後、ボクは思い切って、ムウ兄に訊いてみた。


 中高合同の部会の後、ボクらは理科室で道具を片付けていた。他の部員はもういない。高校側の部長は体調不良で休みらしく、ムウ兄が閉会後の手伝いを買って出てくれたのだ。


 ボクの質問に、隣で星図の数を数えていたムウ兄は手を止めた。

 やや首をかしげる。


「……哲司? うん、前も話したと思うけど、彼は元クス中生だよ。卒アルは家にあると思うけど、見る?」

「ああ、いえ、そういうわけじゃなくて。あんなに星が好きなのに、天文部で幽霊部員やってたっていうのが、不思議なんです」


 そう、よく考えてみれば、おかしな話だ。

 個人であれだけ立派な天体望遠鏡を持っている人が、部会に全く顔を出さない幽霊部員だなんて、信じられない。


 ムウ兄は星図から手を放し、「ふむ」と、人差し指と親指で顎をつまむ。

「個人でやりたかったんじゃないか? 学校でわざわざ道具を借りなくったって、彼は一人でできるだろう」

「だとすれば、そもそも天文部に入る意味がありません」


 ボクの反論に、ムウ兄は「……確かに、そうだな」と頷いた。それから、しばらく黙り込んだ。


 理科室が静まり返る。

ぴり、と電気が流れるような感覚に陥る。


 ムウ兄は、どこか、ここではない場所を見ていた。


 ああ、まただ、とボクは思う。

 これは、ボクと、ムウ兄たちとの境界線だ。

 ボクが立ち入れないそこに触れると、なんだか二人に置いて行かれてしまったように感じる。今まで仲間だと思っていたのに、突き放されてしまったような、そんな気分になる。


 でも、ボクはムウ兄の横顔を見つめ続けた。負けるわけにはいかなかった。何にかは分からない。ただ、ボクが彼らの中に入るには、ムウ兄の口を割らせるしかないと、そう思ったのだ。


 数分は、経っただろうか。


 ムウ兄の唇が、動いた。


「まだ、時効じゃないけど」。そう見えた。

 それから、こちらを試すように、口端を持ち上げた。

 いつものムウ兄のようだった。


「じゃあ、君は何だと思う? 君が入学した時にはもう、哲司は天文部に顔を出さなくなってた。あいつは根っからの天文バカで、今もそれは続いてる。それは君も知ってるだろ。じゃあ、何で彼は天文部で幽霊部員なんかやってたんだろうな?」


 ムウ兄は、歌うように投げかけてくる。その指はすでに、星図のカウントを再開していた。まるで、何でもないことを訊いているようだった。


 ボクは考える。いや、既に答えは出ていたようなものだった。詳細が、わからないだけなのだ。

 ぽつりと呟いて見せる。

「人間関係」

「正解」

 ムウ兄は、ゆっくりと言った。その表情は、何故か安堵しているようにも、見えた。




「貴明は、何と言うか、変なやつだった」

 タカアキ、という、ボクにとっては聞き慣れない音を、ムウ兄は発した。

 懐かしむような、忌避するような、そんな口調だった。


「ほら、三年前、クス中の生徒が死んだだろ。そいつだよ。大川貴明」

「ああ……」


 ボクは頷いた。

 確かに、クス中の生徒が、昔、事故死したことは知っている。でもボクはまだ当時小学生だったし、実名は公表されなかったように思う。だから、曖昧に相槌を打つしかなかった。


 こちらの反応に、ムウ兄は「まあ、知らないだろうな」とおどけた調子で歯を見せる。


 タカアキ、という人は、ムウ兄のクラスメイトだったらしい。「あんまり周囲に馴染んでいるようなやつじゃなかったな」と、ムウ兄は語った。


「あいつは哲司と仲が良かった。いや、貴明のあれは、仲が良かったってレベルを超えていた。心酔だ。哲司は当時から、他人の目も気にせず、黙々と努力を続けるタイプでさ。要領も良かった。貴明は、そんな哲司に心底嫉妬していた。嫉妬していたし、憧れていた。そんな没頭だった」


 ムウ兄は、中二の頃、たまたまタカアキと席が近くなり、仲良くなったのだという。

 当時ムウ兄は、新島先輩とは面識がなかった。クス中は人数が多く、一度も同じクラスにならず卒業する者も多い。しかしタカアキは、ムウ兄にひたすら新島先輩のことを語っていたらしい。


「『何であいつがモテないんだ』だの、『またテストの点数で負けた、あいつは何だってできるんだ』だの。何で僕は知りもしないやつの話を聞かされているんだろう、と思ったよ。まるで、見たこともないおもちゃを見せびらかされているみたいだった」


 そう言ってムウ兄は、星図をひとまとめにし、元の棚に戻した。焦げ茶の短髪を左手で掻き上げ、行儀悪く理科室の机に腰掛ける。

 彼の見上げる視線の先には、タカアキのイメージが浮かんでいるに違いなかった。


「貴明も天文バカでね、どうやら哲司と貴明はその縁で知り合ったらしかった。僕は貴明に誘われて、天文部に入った。哲司と話したのも、その時が初めてだった。……その年は、丁度火星と地球が最接近する頃でね。かの赤い星に三人で惚れ込んだのが、その初夏の話さ」


 ムウ兄が、校庭側の窓を開けた。

 冷たく、しん、とした空気が、理科室に溜め込まれていた二酸化炭素を追い出していく。西日はボクらの目を突き刺した。


 その空に、火星は見えない。


「ところで、哲司と僕はとことん相性が悪かった。分かるだろ? 彼は僕と会話する気がないんだ。どころか、貴明に対しても、あのいつもの調子でな。コミュニケーションを取りたい僕は、イライラしっぱなしだった」


 もう諦めたけどね、とでも言いたげに、ムウ兄は首をゆっくりと横に振った。

 ボクは眉をひそめた。


「……ボクは、そうは思いませんが。政岡先輩と新島先輩の会話は、ちゃんと成り立っていると思うし」

「そう見えたなら、それは僕たちの努力の賜物だろうね。哲司にも伝えておこう」

「…………」


 わざとらしく軽い声を乗せるムウ兄の表情に、ボクは黙り込んだ。

 違うのに、とボクは思う。

 新島先輩は、確かにムウ兄を見ている。会話している。そのはずなのだ。


 ああ、でも、それはボクがそう見ているだけなのかもしれない。

 やっとムウ兄や新島先輩に近づけた、と思ったのに、寧ろどんどん突き放されているみたいだ。口の中がざらつく。


「僕と哲司は喧嘩ばかりしていた。いや、あれは喧嘩じゃないな。僕が突っかかって、哲司がいなしていた。それを、貴明はいつも悔しそうに見ていた。『君たち二人の仲が良くないのは、自分の努力不足だ』なんて言うんだ」


 風が冷たい。

 ボクは、ムウ兄の言葉を聞き流すふりをしながら、窓を閉じた。

 ムウ兄は、それをただ見ているだけだった。語りをやめることもなく、次の台詞を吐き出す。


「……貴明は、よくわからない男でね。僕らに『仲良くしてほしい』って、しきりに言うんだ。誰がどう見ても合わない人間同士に、だ。可笑しいだろ?」


 ムウ兄は、「そこで僕は気がついたのさ」と指を鳴らした。乾いた音だった。


「貴明は僕らに仲良くしてほしいんじゃない、貴明が仲良くしている人間ものたちに、仲良くしてほしかったんだよ。…‥いつの間にか、僕も貴明のおもちゃになってたのさ」


 ボクはもう、何も言わなかった。何も言えやしなかった。彼は、ただこちらに語り聞かせているだけだった。ボクは、傍聴人でしかなかった。


 ムウ兄は、濁流のごとく話し始めた。


「そう! あいつはきっとそういうやつだった! 自身の所有するものを、大事に大事にしていた! 貴明自身ではなく、貴明が僕と哲司の友人であることに、誇りを持っていた! あいつにとっての僕は、ただそれだけでしかなかった、だから、僕は!」


 そこで一度、ムウ兄は言葉を切った。こちらの反応を窺っているようだった。

 断罪を待っているかのような、そんな目だった。


 ボクは無言だった。


 ムウ兄は、唇を噛み締めた。視線を落とし、その先にある言葉を飲み込んだ。

 それから、静かに笑った。


「……だから……だから、貴明は、死んだんだろう」

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