理想郷

桜枝 巧

理想郷(上)

 鳥居とは、神と人の住む世界を区切る結界なのだと、ムウ兄に教わった。

『だから僕たちは、こうして神社に集まるんだ。他の奴らが入って来れやしない、僕たちだけの場所だ』 


 ムウ兄がおどけて適当なことを言う人だということは、随分と前から分かっていた。


『神社は、ボクたちのものじゃなくて、神様のものですよ。その言い方じゃ、ボクたちが神様みたいじゃないですか』


 ボクはそんな風に返したと思う。

 すると彼は、『そうかもしれないな』と笑った。


『でもさ、この神社だって、ここは神様の場所だ、って語られてきたから、神社になったんじゃあないか? だとすれば、これから毎日、ここが僕らの居場所だって語れば、きっとそれが本当になるさ』

『何言ってるんですか……』


 だがそれ以上、ボクがムウ兄に反論することはなかった。反論したところで、ボクたちが他に集まれるような場所はなかった。街には沢山知り合いがいたし、誰かの家で遊ぶほどの仲ではなかったからだ。


 だから不定期の「薬が丘中天文部OB会」が開催されるのは、決まってそれぞれの学校から離れた閑静な神社の境内だった。


 ムウ兄は、律儀に参道の端を通りながら近づいてきた。近くに電燈はない。ムウ兄とボクの持つ懐中電灯だけが、お互いを照らしあっている。


「もうすぐそっちも卒業かあ、天文部は来年日の目を見れるんだか」

 季節は二月中頃。最近ムウ兄はボクの顔を見てそんなことを言うようになった。

 「まあ、僕たちが見るのは太陽じゃなくて星だけどな」と、さほど面白くもない冗談を飛ばすところまでがセットだ。


 今日の月齢は二十六。南東に、細長い月がぼんやりと浮かんでいる。

天体観測にはうってつけの日だ。

 ムウ兄は、ジーンズに灰色の分厚いコートを着ている。中のセーターも暖かそうだ。

 既に階段の上で座り込んでいたボクは、ムウ兄に愛想笑いを返す。寒さで尻の感覚がなくなりかけていた。

 それが分かっていたのだろうか、「ほれ」と彼は何かを放り投げてきた。


「ちょっと早めの卒業祝い。クス高天文部でも宜しくな」


 慌ててキャッチすると、それは三百ミリリットルのペットボトルだった。

 二月未明は凍えるほど寒い。手袋越しにココアの温かさが伝わってきた。指先がむず痒い。

「それ、去年からずっと聞いてます」

 そっけなく返すと、ムウ兄は「そうだっけ?」とけらけら笑った。

 薬が丘中学は小学校から高校までエスカレーター式で、中学生のほとんどがそのまま高校へと上がる。ボクもその一人だ。


「じゃあ、一旦天文部部長お疲れ様ってことで」

「……どうも」

 ひとつ息を吐きだすと、それは白く染まってムウ兄の笑い声と一緒に夜空へ溶ける。


「しかし、君も家を抜け出すのがうまくなったなあ。見つかれば怒られるどころの騒ぎじゃなかろうに」

「母が過保護なのがいけないんです。別に、やましいことは一つもしてません」

 つんとそっぽを向く。

 三年前、クス中の生徒が夜出歩いていて、車との衝突事故にあったらしい。詳細は知らないが、その頃からボクは夜の出歩きを止められていた。


「それに、天体観測を教えてくれたのは、ムウに……いえ、政岡先輩です。いざとなったら、先輩が何とかしてくれるでしょ?」

「他人任せは良くないなあ」

 ムウ兄は頬を掻きながら、ボクの隣に腰を下ろす。


 ボクは入学と同時に、当時中三だったムウ兄に誘われて、天文部に入った。

入部してから、何故彼がボクを誘ったのかわかった。人がいなかったのだ。天文部に入ってから一年間、まともに活動をしていたのは、ボクとムウ兄だけだった。


 ムウ兄の学年にはまだいくらか部員が居たらしいけれど、そのほとんどが幽霊部員だった。二年生はそもそもいなかったし、ボクの学年で天文部に入った者は、ボクだけだった。


 ムウ兄たちが卒業していった次の年(必然的にボクは部長になった)、新入部員がいくらか入ってくれたおかげで、クス中天文部は廃部を逃れた。今も細々と続いている。


「ボクが抜けたところで、ちゃんと部員は八人もいる。こっちの天文部はまだしばらく大丈夫だよ」

 そう言ったところで、敬語が抜けてしまったことに気が付く。


 ムウ兄がチェシャ猫も引きそうなほどの笑みを浮かべる。細くて長い腕が持ち上がった。

 彼はこちらの子どもっぽいところを見ると、頭をガシガシ撫でてくる癖がある。

 ボクとムウ兄は、同じ町内で生まれた仲だ。ムウ兄は、中学に上がって以降、後輩として敬語で話すボクのことが気に入らないらしい。


 逃げようと腰を浮かしたところで、「……何やってんだ」と鳥居の方から声がした。

 ムウ兄よりもやや高いテノール。ボクらの中では一番背が高い。背中に大きなアルミケースを背負っているのが見えた。ペンライトの小さな光が揺れる。


 シンプルな灰色のTシャツに、黒いスキニーパンツ。上からはダウンジャケットを羽織っている。外から見る限りではやや寒そうな格好だが、本人はなんとも無さそうだ。顔色だけが優れないのは、いつもの事だった。


新島先輩は、にこりともせず、「……先に始めてくれて良かったんだが」と言う。


 すると、ムウ兄は口を尖らせた。

「哲司しか望遠鏡持ってないじゃないか、君が来なきゃ始まらない」

「あっそ」

 新島先輩の返事は冷たい。


 天体観測に必要なものは、各自が持っているものを持ち寄るのが、この会でのルールだ。OB会はボクらがそう称して勝手にやっているものだから、学校の備品を借りるわけにはいかない。


 双眼鏡は各自で用意。

 記録用のノートと筆記用具を持ってくるのがボク。

 星図や星座早見盤、この季節だとひざ掛けと言った、細かなものを持ってくるのがムウ兄。

 そして、望遠鏡を持ってくるのが、新島先輩だ。


 新島先輩は、三万もする天体望遠鏡を持っている。レンズを複数枚使う屈折式のものだ。小型で軽量なのが売りだと、どこかのサイトで見たことがある。


 ボクが入部した時、新島先輩はすでに幽霊部員と化していた。しかも彼は卒業後、何故かクス高に上がらず、隣県の私立高校に入学した。彼の存在を知ったのは、一年前、ムウ兄の声掛けで、三人だけのOB会が開設された時だ。


 ムウ兄も新島先輩も、ボクが入学する前の天文部について、何も話してくれない。尋ねようとすると、ピリッとした電気のようなものが空気を流れる。ムウ兄は冗談を言いながら話題をそらし、新島先輩は黙り込む。そうなるとボクは、何も言えなくなってしまう。


 元々、この不定期の天体観測も、ムウ兄と新島先輩の二人で始めたものだという。だからだろうか、二人の間には、何かボクの立ち入れないものが詰まっていた。


 新島先輩は、手慣れた様子で天体望遠鏡を組み立て始めた。

ファインダーを取り付け、接眼部にはフリップミラーを差し込む。三脚を開き、鏡筒を取り付けたら、向きとバランスを調整。


接眼レンズを覗き込みながらピントを合わせる新島先輩を、ボクらはぼんやりと眺める。


「火星、まだ暗いでしょうね」

「最接近は十月六日だろ? 今から観察するから面白いんだって」

「わかってますよ」


 ムウ兄にひらひらと手を振りながら、反対の手で頬杖をつく。電灯を消して、まだ太陽の眠る空を見上げる。薄い月の近くで、赤い光が微かに見えた。


 ボクらの狙いは、火星だ。

 かつては、いや、ひょっとしたら今も、生命が存在しているかもしれない星。

 今年の十月六日、火星は地球に大接近するという。

 月日を追うごとに明るくなっていく赤い星を観察しようじゃないか、というのが、ボクらの目的だった。


「土星も見れたらいいけど、どうかなあ」

 ムウ兄がぼやいた。


 すると新島先輩が振り向き、「土星は肉眼じゃ厳しいだろうな」と言った。どうやら調整が終わったようだ。

「日の出は六時半くらいだ。土星と月が並ぶのは五時半頃だろ? 何にしても、ちと明るすぎる」

 新島先輩の声は、本当に残念そうだ。


 今日は月と土星が斜めに並ぶ日でもあるのだが、条件が悪い。そもそも撤収の時間も考えると、五時半まで神社にいることも難しそうだ。あまり長引くと、学校に遅刻してしまう。


 ムウ兄が懐中電灯を点け、新島先輩の方を照らす。眩しそうに眉をひそめた彼に、ムウ兄は「変な顔」とからから笑った。


 ボクはそんな二人を、やっぱり頬杖をつきながら眺めていた。

 こちらの視線に気がついたのか、新島先輩がボクの方を見る。

 訝しげに短く、「何だ?」とこちらを睨む。本人は睨んでいるつもりなどないのだろうが、いつもしかめっ面をしているせいか、そう見えてしまうのだ。


「いえ、新島先輩は星を見るのがお好きなのだな、と思っただけです」

 ボクの返答に、彼はさらに苦虫を噛みつぶしたような表情になる。

 新島先輩は数秒上を見上げ、頬を搔いた。


 それからぼそりと、

「……好きじゃなきゃ、こんな朝っぱらから古びた神社に来ねえよ」

と呟いた。


 心なしか、耳が赤いように見える。


「そうだよな!」

 いきなり、ムウ兄が立ち上がった。一つ、白い息を大きく吐き出す。目を見開き、一直線に新島先輩を見つめていた。


 満面の笑みを浮かべたムウ兄は、ガッと、新島先輩の首に、後ろから勢いよく腕を回す。


新島先輩はいやそうな顔をした。

「やめろ、政岡。痛い」

「なあに言ってんの哲司、照れんなって。好きなことやらなきゃ、楽しくないだろう? それを恥じる必要がどこにあるんだよ。僕たちは楽しくやらなくちゃいけない。違うか?」


 ムウ兄は、ボクにするように、新島先輩の髪を掻きまわした。新島先輩が見せた本音を、心から喜んでいるようだった。


 ……ボクは、膝についていた頬杖を解いた。

 ムウ兄は、確かに嬉しそうだった。

 けれども――けれども。ムウ兄の言葉に、一瞬、棘を見たような、そんな気がしたのだ。


 ムウ兄の視界に、ボクは入っていないようだった。ムウ兄と、新島先輩だけに通じる何かが、そこにあった。


 新島先輩が、ムウ兄の腕を振り払う。先輩の表情は、懐中電灯の光から逃れ、見えなくなった。

「……やるぞ。準備はできている」

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