夢の中で羽ばたいた蝶

木曜日の朝、0607はまた例の夢を見ていた。水曜日にも同じ夢を見ていたので、これで三日連続だ。これほどまでに、連続で夢を見たのは、彼の過ごしてきたこれまでの約三十年で前代未聞のことだった。

そしてこの三日間で夢の内容も変化していた。夢の中の人間の顔が徐々に鮮明になり、そして今日はこれまでより一際はっきりと、目の前にいるように見えたのだった。

正方形に近いAタイプの顔とは一線を画した細長い顔、黒目の目立つ大きな瞳、その下にある黒子、際立つほど高い鼻、そして……。しかしこれ以上ないほど近づいたその人物の顔を見つめていると、0607の全身に電流のような衝撃が走り、目を覚ました。時計をふと確認してみると六時半。起きるにはまだ少し早い時間だった。

「勘弁してくれよ……。」0607は毒づくと、うんざりした様子で洗面所に行って汚れた下着を脱ぎ、洗った。


 普段通り朝のルーチンをこなしたが、夢の中の顔はいつもと異なり、頑として脳裏から消えない。それどころかこの夢の中の人物とは、以前にどこかで会ったに違いない、という確信は揺るがないものとなっていた。

「昨日爺さんにβなんて絶滅している、と言ったが少なくとも俺がこの人と会った頃にはまだいたんだろうな。そうでなきゃこんな夢を見るはずがない……。見たことも無い物を夢で見られるはずがないんだからな。しかしどこで会ったんだろうか。随分昔のことだから覚えていないが、養成所にいる時なのか?それともその前に……。」0607はこうあれこれ考えを巡らした。しかしこのような夢を見るのは、全世界のAタイプで自分だけなのではないか、という発想が再び頭をもたげてくることは、不思議なことになかった。

部屋を出る時間になっても、0607は上の空のままだった。関節という関節に操り糸が縫いつけられた人形のような、ぎこちない動きで扉を開けると丁度0935が夜勤を終えて帰ってきたところであった。明らかに疲労の色濃く、日光の差し込まないこの建物の廊下でも分かる程の隈が目の下に見て取れる様子だ。

「また会ったな、どうだい。この前の仕事を交換するって話は考えてくれたかい?」よほど自分の仕事に嫌気が差しているのか、本気でなくともそう言い続けることで気を保とうとしているのか。0935の表情からは彼が今非常に疲れていることしか読み取れない。ベッドに横になった瞬間に眠りに落ちそうな様子であったが、少なくとも隣人と軽い会話を交わす気力は、僅かながらに残っていた。

 しかし0607の耳には、最早何も届かなかった。0935の方には一瞥もくれずにゆっくりと部屋の扉を閉めると、俯いて何か呟きながらエレベーターの方に向かっていく。その姿を見ていると、0935の頭からは仕事を変わってもらおうという考えはゆっくりと消えていった。

「この前は強がっていただけで、あの仕事も案外大変なのかもしれないな……。」自分に対する慰めという意味では、0935は目的を果たしていた。その瞳の中に僅かに生気を戻して、0935は自分への部屋に戻って行った。

エレベーターでも、集合住宅のエントランスでも、工場行きのシャトルバスの中でも、あの夢の後ではAタイプの顔という顔を見るたびに、0607は普段とは違う感想を抱かざるを得なかった。

「同じ顔を持っている俺が言えたことじゃないが、夢の中のあれと比べると本当にひどい顔だ。同じ生き物には思えないほど違うぞ。芸術なんて俺はからっきしわからないが、あの夢の中の顔と俺達の顔の、どちらが美しいかってことくらいは分かる。しかしβも同じホモサピエンスと同じ種の生き物なのだろう?遺伝子が少し違うからって、こんな風に同じ生き物とは思えないぐらい顔が違うなんて、あるんだろうか……。」バスに揺られながら、0607はさながら白昼夢を見ているような心地だった。ずっとあのことを考えていれば、夢の続きが見られるのではないか。もう一度会えるのではないのだろうか。より鮮明に、よりはっきりと。そんな思考に頭の中は完全に捉われていた。


 鼻につくオイルの臭いで、0607は唐突に現実に引き戻された。気が付くと、0607は工場の前に立っていた。自分はいつの間にバスから降り、どうやってここまで歩いてきたのだろうか記憶に無い。通いなれた道とはいえ、全くの無意識のうちに辿ることが可能なものなのだろうか。しかしどれだけ泥酔しても、朝にはいつの間にか部屋に戻っていることが出来る。そう思えば、これくらいは良くあることかもしれない。尤も酔っているという意味では、ウィスキーを瓶一本飲み干す以上に、0607の今朝の酔いは深かった。いつも憂鬱な気分にさせる汗とオイルの悪臭も、今の0607には気にならなかった。

 工場が稼働し作業が始まると、流石に0607その夢を振り払おうとした。滅多におこることではないとはいえ、事故に巻き込まれては一巻の終わりなのだ。しかし普段は思い出そうとすればするほど消えてしまうその夢が、今日は消そうとすればするほど、頭の奥底まで沈み込んでいった。ならば逆にはっきりと形にしてしまえば、整理がつくかもしれないと、0607には思えてきた。

散々逡巡した挙句、0607は作業の合間を縫ってパートナーの43に問いかけることにした。

「お前夢を見たりするか?」普段作業中殆ど話さないため、まさか自分が話しかけられたと思わなかったのか、或いは工場の騒音で聞こえなかったからか、43は無反応だった。

「43!お前夢を見たりするか!」もう一度大きな声で尋ねた瞬間、43は飛び上がるように顔を起こすと、間の抜けた顔で0607の顔をジッと見つめた。二、三回パチクリと瞬きをすると、左右にゆっくりと首を振ってもう一度0607に向き直った。その行動はあたかも誰かに、こいつが話しかけているのはお前ではないぞ、と言われるのを待っているようであった。暫く目と目が合う状況が続き、どうも目の前のAタイプが話しかけているのは自分に相違ない、ということを確信すると43はゆっくりと作業を再開しながら、口を開いた。

「びっくりさせるなよ、さっきは俺に聞いていたのか……。夢を見たことはあるか、だって?そりゃあるに決まっているじゃないか。」43はそう答えたが、急な会話にとまどいは隠せていなかった。

「そりゃあるよな……。いや、俺が聞きたいのはお前がどんな夢を見るかって話だよ。仕事の退屈しのぎに教えてくれよ。」0607は自分が如何に妙な話をしているのかについて自覚すると、冗談めかして聞き直した。しかしその誤魔化しから醸し出そうとした親しみやすさが、却って妙な感じになっているのは全く自覚出来ていなかった。

「そうだな、昨日見た夢は……。」43が手を止めて、少し考えを纏めようとした瞬間だった。

「昨日見た夢は?」と0607が食いついてきたのである。仕事をしようとする振りすら見せず、ぐっと身を乗り出してきている。話を合わせようとした自分が馬鹿だった、と言いたげなうんざりとした表情が43の顔につい浮かび、それを隠そうともしなかった。

「仕事をしている夢だったな。いい夢だったよ。お前は無駄口を叩かないし、昨日と違って息もぴったりで最高だった。どうだ、文句なしにいい夢だろ?おい見ろ、もう次の部品が来たぞ。早く準備してくれ。」と無愛想に答えた。表情を見るまでもなく、その声色からは会話を終わらせたいという意思がはっきりと見て取れた。結局0607の煩悶は解消されるどころかますます強くなっていった。

 昼食時、本来なら火曜日と同様にオレンジが出るはずの日である。しかし一昨日と違いオレンジの代わりに皺枯れたグレープフルーツが配られていることについて、厨房責任者の0450に食って掛かるAタイプは誰もいなかった。全員この数日でオレンジが最早この世に殆ど残っていないこと、そして僅かに残る闇オレンジも常軌を逸した値段で取り引きされていることは、半日かけてみっちりと叩き込まれていたのだ。

 工場を流れるベルトコンベア以上に、食堂を流れる列は整然としており、そして滑らかだった。全員が一瞬たりとも迷うことなく、どちらかのトレーを選んで席に着く。そこにはただ一つの会話もなければ、何らかの意思が介在する余地もない。全員が殆ど反射的、本能のままに動いていたといっても良いだろう。

しかし何にも、どんなことにも例外はある。

「0450、やっぱりオレンジはどこにも無いのか?どこかに隠しているんだったらチケットは余分に払うからよこしてくれないかな?」食器同士がぶつかるといったガチャガチャした音や、スープを啜る音に混じって、小さくはあるがはっきりとした0607の呑気な声が、食堂に響く。その声が聞こえなかったAタイプにも、列が一瞬ではあっても止まったのは、はっきりと分かった。

「何を寝ぼけたことを言っているんだ、オレンジがもうどこにも無いのはお前もよく知っているだろ!列がつかえているんだ、さっさと席についてくれ。」マスクをつけていたため、はっきりとした表情は窺い知れない。しかし0450の右の眉がほんの僅かに上がっていた。

 それを見た瞬間背中の下から上まで貫くような、ゾクゾクとした感触が0607の体をゆっくりと貫いた。そしてその刃が首筋を超えて頭まで達した瞬間、口内に唾液が溢れ出した。

オレンジを丸々一つ堪能したAタイプはこの工場で、いやもしかしたらこの街で、この世界でただ一人かもしれない。そしてそれは他ならぬ自分なのだ、という背徳感と甘い思い出が0607の口の中に唾液と同時に広がってくる。まるでオレンジの味がするかのように、口の中の唾液を舐めまわしている光景は実に奇異であった。だが黙々と食事を口に運んでいるAタイプの誰一人、それを気に留めることはなかった。

 本日はさして取り上げる話題がない。そう言いたげに十二時を回って始まったニュースは駈け足で進んでいく。あっという間に天気予報まで辿り着くと、明日の天気も言わないうちにそれも終わった。そして恒例の尺余りを埋めるためのプロパガンダが始まったのだが、こちらはいつもと様相が異なっていた。

白黒と思わず勘違いしてしまうほどの味気ない絵面。どうせ嘘は直ぐにバレてしまうのだから誤魔化すだけ無駄、とばかりにやる気のない淡々とした解説。そしてただ捲られるだけの紙芝居よりも味気ない演出。この三つが、この世界での情報機関にあたる真理省の作るプロパガンダのお決まりとなっていた。

しかし今日のプロパガンダは、思わず目が留まってしまうほどのカラフルな画面であった。オレンジ以外の様々な色彩の果物が画面を賑やかに覆いつくし、それを食べる出演者のAタイプの表情も声色も、真に迫るものがある。だが結果的に、この余りに出来すぎたプロパガンダは本来の意図通りに機能しなかった。

如何に色鮮やかな果物が画面に映っていようとも、彼らの目の前にあるものは、しょぼくれたグレープフルーツなのだ。TVの画面に映るグレープフルーツが瑞々しければ瑞々しいほど、落差は大きい。

 しかしそれをわざわざ声に出すものはいなかった。意図しない感情を引き起こしてくれたとはいえ、彼らなりにベストを尽くしたのだ。

「しょぼくれたグレープフルーツだなぁ、よくもあれと同じグレープフルーツだって名乗れたもんだよ。」ただ一人0607だけが不満を呟いていた。彼が目線をTVから切ると、正面で食事を摂っていたAタイプと目が合った。彼はぼんやりと目を見開いて、口をぽかんと開けている。

「な、お前もそう思うだろう?」0607は肩を竦め、そう確かめるように問いかけると、すぐに食事に戻った。だが呆気にとられたその相手が食事を再開するのは、数秒先のことだった。

食事の締めとして0607はグレープフルーツを他のAタイプと同様皮を剥き口に放り込んだ。だが食べれば食べるほど、オレンジが彼の頭の中にちらつく。グレープフルーツの甘さも酸味も美味しいとは全く感じられない。それどころか、吐き気まで催す有様であった。皮肉なことにさっきまで幸せの象徴、栄光そのものであったあのオレンジによって、この日の昼食はどん底に叩き落とされているのだ。

皆がこの酸味も悪いものではないと感じ始め、オレンジ抜きの生活への備えを始めていた。だが0607だけが違った。

「酷い酸っぱさだ、こんなの人間の食べ物じゃないぞ。これから一生オレンジが食べられないなんて気が狂ってしまう。しかし皆も俺と同じくそう思いながら我慢しているんだろうな……。」0607はそんな具合に呪っていたが、手元のグレープフルーツがオレンジに変わるわけではない。

結局のところ大勝負をしてオレンジを手に入れたにも関わらず、満たされるどころか他の誰よりもオレンジを強く欲するようになってしまったのである。


午後の勤務が始まっても0607の心はここにあらずであった。心に纏わりつくものは例の夢だけでなく、オレンジも加わっていたのだから、状況は悪化していたと言ってもいいだろう。

「0450の野郎……ひょっとしてオレンジを隠し持っているんじゃないか。いや、隠し持っているに違いない。」固執はいつしか妄想になり、そして妄想は確信へと変貌を遂げていく。

「あのでかい冷蔵庫を見てみろ、何だって入るぞ。オレンジを隠しておくなんて簡単な話だ。それに考えてみろ。あいつの立場なら、配給の中からちょろまかすことだって簡単なはずだ!俺達同族たるAタイプの苦しみを糧にして、懐を肥やすような真似をするけしからん奴には、罰が必要だ。」そしてその根拠のない確信が、0450に対する憎悪になるまでに、それほど時間はかからなかった。

 オレンジをもう一度口にしたいという誘惑と、0450に罰を与えねばならないという義務感を何とか押さえつけていた0607であったが、それが解放されるのも時間の問題だった。午後三時半を回り、片付けと翌日の仕込みを終えた調理人が帰宅していく様子が見えると、遂に0607は席を立った。

「悪いが少しトイレに行ってくるよ。どうも昼に水分を摂りすぎたみたいだ。すぐ戻るから作業はちょっと待ってくれ。」厨房から立ち去って行く一群を目で追いながら、体も彼らに釣られていた。本人は43に話しかけているつもりではあっても、その声は限りなく独り言に近い。その小さな声を43の耳が拾い上げたのは、殆ど奇跡に近かった。

 ふらふらと立ち去って行く0607の様子は明らかに尋常でなかったが、この時間にトイレに立つという行動そのものも同様に、いやそれ以上に奇妙に43には感じられた。年を取るにつれてトイレは近くなるものであるが、同じような年齢のAタイプのトイレに行く頻度は殆ど同じだ。前回の休憩時間から三時間足らずでトイレに行くなど、五十を超えた初老のAタイプのすることなのだ。

「こんな時間にトイレに行くなんて、やっぱり今日の0607はおかしいぞ。」43そんな風に思ったのは自然なことだった。

 自分のせいでこれから止まることになるだろう、製造ラインのベルトコンベアとは平行に、そして逆走しながら0607は駆けていく。投げかけられる怪訝そうな視線を掻い潜りながら、身を屈めて殆ど這いつくばるようにゆっくりと、しかし可能な限り急いで進んでいく。

 食事時以外に食堂を訪れることは、0607にとって今日が初めてであった。食器同士がぶつかる金属音もテレビから流れるやかましい音声も存在しない、水を打ったように静かな食堂は、0607の目には随分新鮮に映った。

 0607が探りを入れるまでもなく、食堂だけでなく厨房にも誰一人いないのは明らかだった。

「しまった、全員出払った後だということは、鍵がかかっているかもしれないぞ。」勿論厨房の扉が施錠されていたとしても、それが彼の衝動を止めることは無かったであろう。ドアが開いていなければ、蹴破ればいいだけの話だ。最早オレンジを手に入れた後のことなど、0607は一顧だにしていなかった。

可能な限り音を立てない強さで、ドアを蹴破るためにはどれだけの力を加えればいいのか。見当を付けるために軽くドアノブを捻ると、大した力も加えていないうちに、扉はゆっくりと引けてきた。

鍵がかかっていないことについての一抹の違和感は、オレンジが既に眼前にあるという期待によって、0607の頭から消し飛んでいた。

ドアを勢いよく引くと同時に、何かが倒れてきた。その何かがドアにもたれているからこそ、僅かな力でドアは開いたのだ。だがそれが何かまで、0607の気は回らなかった。

床一面真っ赤に染まった厨房の中に、ポツンとオレンジが一つある。それを目ざとく見つけると、0607は一目散に駆けよって行った。

「やっぱりオレンジを隠し持っていやがったな!何か赤い液体が着いているが、こんなのは皮を剥けば良い。食べる分には支障はない。しかし床がやけにべとべとしているな、それに妙に赤いぞ……。」床に広がるその色は、ある場所から広がっていた。ゆっくりとその出処に目線を移していくと、先ほど開いた扉に何かがあることに0607は気が付いた。

その物体、いや肉体をひっくり返すと見慣れたいつもの顔、しかし恐怖が張り付き、そして生気の無い、その顔が出てきた。0607は思わず後ずさりをした。そしてその腹に目をむけると大きな果物ナイフが深々と腹に刺っており、そこから床を汚してあるのであろう赤い液体が漏れだした跡がくっきりと残っていた。



「一昨日は皆途中で蒸発したが、今日はどうも大丈夫そうだな。しかしあれだけオレンジが無ければ生きていけない、と皆息巻いていたが無いなら無いで案外なんとかなるものなのかも知れないな、それはそれで寂しい気はするが……。」ベルトコンベアに乗ってゆっくりと流れてくる部品に、それと同じくらいゆっくりと近づく。部品をいくつか取り付けて次に流し、また前から流れてくるのを待つ。そんなAタイプ達の普段と変わらぬ風景に安堵しつつも、408はそこにどこか一抹の寂しさを感じていた。

 そうであったから、いつの間にか製造ラインが停止し、0607が唐突にトイレに行ったまま帰ってこないという知らせを43から聞いた瞬間、心の奥底で燻っていた何かが燃え上がったのを自覚したのは、自然なことだった。トイレの近くに位置するAタイプから、この時間はまだ誰一人トイレに入っていない、という話から何かを確信した408はいつの間にか駆けだしていた。


 製造ラインを下流から上流までざっと確認してみたものの、結局どこにも0607の姿は無い。ただ仕事がなくなって手持無沙汰な様子でぼんやりとしているAタイプがいるだけだった。トイレの個室も全て確認はしてみたものの、どれも空振りであった。徐々に興奮も冷め、後に残ったのは疲労感だけだった。

「全く……あの野郎どこに行きやがったんだ。入れ違いになっただけで、そろそろ戻っているなんて落ちじゃないだろうな。しかし久しぶりに走ったからか喉が渇いてかなわないぞ。」息も切れ切れになり、408は一服するために食堂へと続く廊下を進んでいた。普段から恒例であった勤務中のコーヒー休憩は褒められたものではない。しかしこれは監督役である彼の好きな役得の一つだった。

呼吸も少し整い、食堂まで後は角を一つ曲がるだけだというところで、ドサッ、と何かが倒れるような音が408の耳に届いた。

「しまった、食堂はまだ確認していなかったぞ。この時間は食堂に誰もいないはずだが、物音がしたのならば0607はもしかしてここに……。」と慌てて角を曲がると、そこには背中に 0607とデカデカと書かれた作業服を羽織ったAタイプが、確かに立ち尽くしていた。

「0607!今は勤務中だぞ!何をやっている!」お目当ての相手を見つけた喜びから、気がつけば枯れ果てつつある喉を振り絞り、408は叫んでいた。Aタイプの声が大きいのは生来のものである。しかし今回のそれは一際大きく、雑音蠢く工場の中でも、端から端まで届かんばかりであった。

その迫力に気圧されたのか、408が叫ぶや否や0607は振り返りもせずに一目散に食堂の中に逃げていく。しかしその0607の手にオレンジが握られていることと、そして両手が真っ赤に染まっていることを408は見逃さなかった。

「おい、待て!」0607に釣られるように408も駆け出した。しかし数歩動き出したところで、厨房の入り口で何かが横たわっているのを見ると思わず足が止まった。

 そこにあったのは間違いなく、普段から見慣れているAタイプの、死体だった。

「死んでいるぞ。間違いなく……死んでいる。」駆け寄りはしたものの、身じろぎ一つせずに横たわる彼が、疑う余地なく彼は死んでいることが分かると、408は思わず尻込みをした。

「誰か応援を、この事態に対処できるAタイプを呼ばないと……。」危うくパニックをおこしかけたが、この緊急事態に対処せねばならないのは、408本人である。そのことに気が付き、落ち着きを取り戻すようになるのに、長い時間はかからなかった。

しかし自分が何をすべきなのかを理解したころには、何もかもが手遅れであった。厨房の通用口の扉は開け放たれており、0607はそこから逃げおおせた後だ。そして408の大声を聞いて駆け付けた押し寄せた野次馬は、最早408一人の手に負える人数ではなくなっている。

「まさかこんなことになるとは……。」死体を一目見ようと押し寄せる野次馬を必死に遠ざけながら、408は後悔の念に襲われていた。

「結局何も出来なかった。今思えば、0607はずっとシグナルを出し続けていたんだ。この毎日が同じ世界の中で、俺はずっと待っていた。心のどこかで、ずっとその準備をしてきたつもりだった。でも何かが変わったその瞬間が来ても、俺は気づくことすらできなかったんだ。実に惨めな話じゃないか。」今やすっかり固まりつつある、同族の血を踏みしめながら、そう悲嘆に暮れていたのである。

 しかしそんな自嘲めいたことを考えているのは、408ただ一人で、他のAタイプの注意はある一点に絞られていた。

今日、この社会で初めての殺人が起きたのだ。

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オレンジの木 @captainhijiki

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