熟れすぎたオレンジ
周りを見渡せば同じ顔ばかり。昨日も今日も、そして明日も永遠に変わり映えなく、味気ない日々が続いていく陰鬱なこの社会に於いて、国営カジノは唯一賑やかと表現できる場所であった。ちらほらと消えかけてはいるものの、鮮やかなネオンはAタイプを誘い、そこら中からスロットの機械音が鳴り響き、テーブルからは結果に一喜一憂する声が湧き上がってくる。
明日の生活が今日と全く変わりないことに関しては、疑う余地すらない。しかし博打の出目だけは、出てくる瞬間まで誰にも分からないのだ。
国営カジノは普段以上にごった返していた。0607は売店に寄りビールを買うと、飲みながらうろつき、人混みの中ある人物を探していた。
「簡単に見つかってくれちゃあ正直困るんだが……。結果的に無駄足だったとは言え、あの爺がどの賭場にいるかを知りたくて何時間も並んでいた訳だから……。」そうしてかれこれ二十分近く探し歩いていたが見つからない。例え皆の顔が違っている世界でも、この混雑の中である一人の人物を見つけることは相当の幸運が必要だ。
「こりゃ、ちょっとやそっとの幸運では見つかりそうにないな……。」そう諦めてスロット台に腰を下ろし、配給チケットを入れ、別の運試しをしようとしたその瞬間であった。お目当ての老人がトイレから出てくるのが、0607の目に飛び込んできたのである。
「おい、爺さん!」0607は弾けるように立ち上がり初老の、といっても自分の顔に皺を足し、髪の毛を白髪交じりにしただけの男の元に駆け寄った。
「結局ダラダラ並んでいた意味は無かったってわけだな。」そう愚痴るように呟いたものの、結果的にあの時に時間を無駄にしたからこそ、この瞬間に遭遇出来たのである。そういった意味では、とても幸運であったと言えるだろう。
爺さん、と呼ばれたそのAタイプはいきなり声をかけられて、警戒するような目線でその声の主うぃジッと見つめた。
「どちらさんかな…。おぉ!0607か!」しかし0607がIDを見せると、老人は嬉しそうに近寄ってきた。
この老人は様々な物を取り扱っている、所謂密売人だ。この社会では全ての生産手段、流通、そして販売は政府が取り扱っていることになっている。しかし戦前の商品、幹部連中専用の嗜好品の横流しといった禁制品や、政府の指定した価格と需要のミスマッチを来している商品を取り扱うこういった存在は、この社会でも必要であった。
定年の六十五才まで生き残っているAタイプは珍しかったが、彼らはこの社会の成立時を生き延びた特別な経験と、様々な職業を転々としていく際に培っていったコネを武器にこうした密売人となり、足りない年金の足しにしていた。取り締まるはずの警察も彼らが必要であったし、自分たちが引退した後は結局これで生計を立てるしかない以上黙認しており、あまつさえ将来に備えてノウハウを聞き出そうとし、一番のお得意様になる有様であった。
「最近何か面白いものは手に入ったかい?」0607は慎重に話を切り出した。いきなりオレンジから入ってしまうのは、弱みを晒すようなものだ。足元を見られて、一体全体どれだけの高額をふっかけられるのか分かったものではない。核心の議題から離れたところから初めて、徐々に旋回しながら本丸に近付いていく。一見遠回りに見えるこの道こそが、一番効率的であるはずだった。
しかし今日だけで、オレンジを求めてきたAタイプを既に五人も相手にしていたこの老人にはそんな0607の小細工もすっかり御見通しだった。
「お前さん、博打の調子はどうだい。」本題をはぐらかした0607の切り出しに老人もはぐらかして返事をした。例え雑談であっても話のペースはこちらが握る、という明確な意思がそこにはあった。
「丁度ここには今来たばかりでしてね。運試しはこれから、といった感じですよ。」
「何も今日に限った話をしているわけじゃないよ。それに深い意味があるわけでもない。ここ最近どうだい、だけのって意味さ。革命の前は、相手の体調とか血縁者の動向とかを聞いていたそうだが、今はそんなことを聞いたってしょうがないだろう?だから、博打の調子について聞いたわけだよ。何せ、これくらいしか共通の話題はないんだからな。」この老人の勿体ぶった話し方も、自分にはわからない昔話をよくする点も、0607は好きではなかった。しかし、後者はともかく、勿体ぶった話し方は大なり小なり自分達もしている。この傾向は年を取ればAタイプ全員に増大してくるものなのか。それとも彼ら年寄りが自慢するように、革命前後を生き延びたという特殊な経験によるものなのかは、分からなかった。
「皆と同じですよ。勝つ日もあれば、負ける日もある。そりゃ政府が吸い取るんだから全体では負けてるんでしょうが、一々数えちゃいませんからね。」
「そうそう。博打ってのは、勝ったり負けたりっていうのが丁度いいんだよ。この前も馬鹿な、いやああいうのは可哀想なって言うのがいいんだろうが……。養成所を出て初めて賭場に来たんだろう、賭け方もロクに知らねぇ若造がルーレットの一点賭けに大きく張って大勝ちしちまったんだよ……。ちょっと物を知っていれば有り金一切をそんな風に賭けたりしないだろう?可哀想に、俺も引退してからここに入り浸っているがあんな酷い目にあうやつはそうはいない。あぁなったら運の尽きだね。」老人は薄気味の悪いせせら笑いを浮かべながら話した。
「言っていることの意味が分からないんですが、それの何が悪いんですか?大勝ちだなんて、大いに結構。皆それを望んでここにいるんじゃないですか?」0607は困惑しながら尋ねた。
「ははは……。この恐ろしさがわからんとはお前さんもまだまだ青いね。そりゃその最初はこの世の春って感じだったよ。しかしお前さん、博打の金は長続きしないもんだと、昔から決まっているんだよ。せっかく手に入れた大金を何に使うかと思えば、俺たちから禁制品を値引きもしないで買ったり、仕事をサボって一日中飲んだりといった具合さ。あれだけあった金も、酔いが冷めると一緒に、サーって引いていっちまったんだ。」
「そりゃ確かに可哀想と言えばそうですけど……。いいじゃないですか、一瞬は夢を見ることが出来たんですから。」
「恐ろしいのはこれからだよ、あの若造すっかりあの生活が忘れられなくなっちまったんだね。面白い光景だったよ。仕事が終わると真っ先にこの賭場に来て、ルーレットの一点賭けをするんだ。まるで憑りつかれたみたいだったよ。でも全然勝てっこねぇ、当たり前だ。するとどうだ、今度は俺から馬鹿みたいな金で買った禁制品を持ってきて、二束三文でいいから買い戻してくれって頭を下げてくるんだよ。長年生きてきたがこんな旨い商売は後にも先にもこれっきりだろうよ!何せ俺は商品を一つも手放していないのに、金だけはそっくり貰えたんだからな。」この成功体験は何回話しても物足りん、といった具合の表情を浮かべながら、老人はゲラゲラと大笑いしていた。
0607はこの老人の強欲に恐怖すら感じた。なにせ仮にも自分と同じ血の流れる相手から、全てを奪っていったことに対して何ら罪悪感を感じることなく、そのことを喜々として語っているのだ。
しかし0607がこの話に引き込まれていったのも、また事実であった。
「で、そいつは一体どうなっちまったんですか?」
「しまいには売るものがなくなってしまってね。自分のIDとナンバーが書いてある仕事用の制服まで俺に担保で持ってきて金を借りたんだ。洒落の聞いた言い方をすれば、自分という存在そのものを売っちまったんだよ!尤も、その金も五分と経たずにスッちまったがね!これが最近手に入った一番面白い品物だよ。あいつは職場にも行けなくなって、今頃どこかで野垂れ死にして、骨も残っていないかもしれないな。それか運が良ければ警察に捕まって再教育施設に放り込まれているだろうよ。お前さん、何でこいつはこんなことになっちまったんだと思う?」老人は目をぎらつかせながら0607の顔を覗き込んできた。
「そりゃぁ…博打で勝ったからでしょうに。今言ってくれたじゃないですか。」
「表面的にはそれだけの話なんだがね、本質的には違うんだよ。博打で信じられない大勝ちをするっていう、強烈な体験がそいつの全てを変えちまったんだよ!お前らみたいな若造は学校で、いや今は養成所って言うんだったか。皆同じ遺伝子なんだから同じ存在だ!仲間だ!とか習うんだろ?」
「それと行動は周りの環境に起因するってね、だから誰がどういう行動をするかはその人本人の責任じゃないって感じだったと思いますよ。」この目の前の老人の行動は、養成所で教わった通り、全て周りの環境から入力されたことを結果として、反映しているだけなのだろうか。仮に彼と同じ人生を送っていれば自分もこのようなことを、何の罪悪感もなく行えるのか。頭ではそうに決まっている、としか思えなかったが0607はどうしてもそれを信じたくはなかった。
「そこからの、皆同じ存在だ、っていう結論がおかしいんだよ。同じ遺伝子を持っていても、殆ど同じ生活を行っていても少しずつ皆違う経験をしていくもんだ。俺はこの話を今日だけでお前も入れて六人にしたが、これを聞いたお前らはもう他の何十億人というAタイプとは全然違う存在なんだ。お前らがこれから何をするにしろこの俺の話の経験から逃れることは出来ないんだよ!」
「爺さん、確かに今のは面白い話ですけど、それは自分を買い被りすぎってもんですよ。賭けてもいいけど来週には爺さんの話はすっかり忘れてますね。その大勝ちした哀れな奴ほどの大きな経験なら影響はあるかもしれないですが……。それも再教育を受ければ矯正されますよ。」
「ふん!」老人は鼻を鳴らしたが、気を取り直すとまたすぐに口を開いた。先ほどの成功体験を話したとき以上に、これから話すことの結論を言いたくてたまらない、と言った表情だ。
「どんな再教育を受けても治らないよ……。」老人は今までと打って変わって、とても小さい声で話し始めた。0607もこの話が核心に近づいたことを老人のただならぬ表情から読み取り、老人に近づいた。今やこの二人の低い鼻と鼻がくっつかんばかりだった。
「あの男はね、博打で大勝ちした瞬間に自分は他のAタイプとは違う存在だと確信しちまったんだ。養成所で皆同じ遺伝子で同じ存在と洗脳されてきたが自分だけは違う!選ばれた存在だ、とね。この稲妻のような確信は一生消えない。何度博打で身を崩して再教育施設に放り込まれても消えやしない。例え全てのきっかけだった大勝ちを、綺麗さっぱり忘れちまったとしても自分が特別な存在だ、という確信だけは永遠に残り続けるんだ。Aタイプの皆が博打好きなのは何でだと思う?遺伝子レベルで好きってのは勿論あるんだろうが、俺はね、完全に運任せの博打を通じて自分が特別な存在なんだって、Aタイプ誰しもが信じたいからだと思うんだよ!」老人はそう満足そうに言い切ると、返事を待つかのように0607の顔を見つめた。
「しかし……。そうなるとやっぱりその若造は、可哀想じゃなくて寧ろ幸せなんじゃないんですかね。例え一生を棒に振ったとしても他の誰もが内心求めてやまないその、何でしたっけ……自分が特別だ、っていう確信を手に入れられたんですから。」0607は自分の考えを絞り出すようにゆっくりとそう答えた。
「驚いたな……。そう返事してきたのはお前が初めてだよ……。他の五人はそれでもAタイプは皆同じだ!とか同じように否定して言い返してきたもんだが……。」老人は相変わらず食い入るように0607を見つめていたがその視線はこれまでのそれとはどこか異なっていた。
人生で初めて聞いた新しい考えについて反芻している0607の頭に、ふと今朝見た夢が浮かんできた。
「もしかして、もしもあの光景は嘗て俺が見たものであったとしたら……、あの経験が俺の……俺だけのものだったら……。」しかし悲しいかな、その思い付きも老人の言葉で再び吹き飛んでしまった。
「自分で言うのもなんだが、考えさせる話だっただろ。まぁいい、この話はここまでだ。0607、お前もどうせオレンジが欲しいんだろ?話を聞いてくれたお礼だ、少し値引きしてやるよ。」オレンジ、と老人の口から発せられた瞬間に、居眠りから目が覚めた時のように、0607は飛び上がった。
「そうです!オレンジですよ!」思わず大きな声で0607は叫んだが、賭場特有の周りの騒がしい音で幸い老人以外誰も気づかなかった。
「大きい声を出すなよ……。俺は構わんが、そっちは誰かに感づかれたら困るだろう?一つ五万のところを、四万で売ってやるよ。サービス価格さ。」0607は言葉を失った。一日の給料は五千、オレンジの公定価格は五百だ。殆ど二週間分の給料、公定価格の百倍の値段である。明らかに吹っ掛けてはいるが、手を出すこと自体は不可能ではない。そんな絶妙な価格であった。
「わかった、買うよ、ただし一個三万二千だ。ヘタまで込みでな。これ以上は出せない、それはそっちも分かっているだろう?」0607は価格交渉を始めた。こういった密売人との売買では値引き交渉は常である。これまでの経験から、向こうが四万とくれば最終的には三万七千、いや三万六千くらいで買えるだろう、というのが0607の予想だった。
「おいおい……何か勘違いしているな。一個四万で売るわけがないだろ!何せもうこの町にある恐らく最後のオレンジなんだぞ!小分けに下一房で四万だよ!お前には小さい房のおまけもつけてやるよ。もしまるまる買い取るなら……五十万、いや四十五万はないと売れないね。俺がこいつを幾らで仕入れたと思ってるんだ!」と老人は語気を強めた。
0607は言葉を失っていた。冗談にしか思えない価格であったが、老人の目を見れば、それが真実であるのは明白であった。
「何だ、もしかして果物屋から聞いていないのか?まさかあのくだらないプロパガンダを信じているんじゃないだろうな。北米かどこかにあるオレンジのプランテーション農場が吹っ飛んじまったとかで当分は、ひょっとしたら永久にオレンジが作れないらしいぞ。ひょっとするとこれはお前が一生の間に手にする最後のオレンジかもしれないんだぜ、なら例え百万でも高いってことは無い、良心的な価格ってもんだ。」
「いや、知らなかったよ、まさかそこまで大事になっていたとは……。しかし爺さん、あんた本当にオレンジ一個丸々持っているんだよな?」0607は俯きながら尋ねた。
「それと房を数個な、変な気はおこすなよ。全部しっかり隠してあるからな。あんな丸々としたでかいものなんて持ち歩いてないよ。一房だけ買っていくか?それなら何とか工面できる金額だろう?」顔に刻まれた皺を更に深くしながら、老人はまた0607の顔を覗き込んだ。
「金を持ってないって言うなら……お前確か戦前の銀細工の懐中時計持っていたよな?取引している幹部にβ共の作った時計を集めるのが好きな変わったやつがいるんだよ。全く幹部連中には変わった趣味を持ってるやつが多いよ。あいつはお前の時計に四十万くらいならポンと出すはずだ。大サービスでその時計と一房交換でもいいぜ。」老人は意地悪な笑みを浮かべながら続けた。
「ひょっとして最初からそれが狙いじゃないでしょうね?あれは売りもんじゃないって前も言ったじゃないですか。噂じゃ幹部連中はβ共と好きに会えるんでしょう?そうだったら時計なんて、注文して作ってもらえばいいのに。」
「まぁそうだが、今じゃβ共の住んでるコロニーも、俺達Aタイプの住んでる町と大して変わらないつまらないところらしいからな、新しい時計だってそうそう作れないのだろうよ。」
「爺さん、あんたいつもまるで見てきたように話しますね。どこからどこまで本当なんだか……。さっき幹部はβに会っているとか言いましたが、個人的にはβなんてもうとっくの昔に皆殺しになったんだと思いますよ。βの存在を公式には伏せておいて、まだレジスタンスが活動している、敵はまだいるらしい。そんな噂を流して俺たちAタイプの結束を固める。そんな回りくどい方法を真理省は取っているのかもしれないですよ。」
「そんなくだらないことを思いつくなんてお前はやっぱり面白いやつだな!で、結局オレンジを買うのか?」
「買いますよ!おい、配給チケットをチップに変えてくれ!」0607はルーレット台に近づくと四万配給チケット、つまるところ手持ちのほぼ全てをディーラーに手渡した。闇取引は黙認されてはいる。しかし警官達の心変わりといった不測の事態に備えて番号がついており足のつきやすいチケットよりも、カジノのチップに変えてから渡されるのを好む密売人は多かった。
「毎度あり……っておいおい、本気か?」しかしチップは、受け取ろうと差し出されていた老人の手には乗らず、本来のあるべき場所へと置かれた。0607は身を乗り出すと、受け取ったチップを全てルーレット台の目の上に置いたのである。途端にルーレットを取り囲む同じ顔から一斉に好奇な視線が送られた。
「三目賭けってことは当たれば十二倍で四十八万…。そこまでしてオレンジ一個丸々欲しいとはお前も随分欲深いな!もしかして俺の話を聞いて自分も特別な存在になりたくなったのか?」老人が喚いたが0607の耳には届かなかった。今や彼の全てはゆっくり回るルーレット台と、そこに凄まじい勢いで放り込まれた透明なボールにあった。
「ノーモア、ベッツ!」ディーラーが下手な英語で叫ぶと、今や0607だけでなく全員の目線がルーレット台に向き、固唾を飲んで見守った。ボールの回転が次第にゆっくりになり、0607の高鳴る動悸とリズムを合わせるかのように、そしてまるで生命を吹き込まれたかのようにボールは激しく跳ね上がり始めた。永遠に続くかと思われたその躍動も数秒後には落ち着き、飛び跳ねる高さも低くなり、ボールはいよいよどこの穴に入ろうか見定め始めた。
「こいつはたまげた!大当たりだ!緑の000に入るとは!知ってるかお前さん達、昔は緑の枠は0と00しかなかったんだよ!いい時代だった!しかし今日ばかりは……。革命万歳!中心政府万歳!」
翌日の水曜日の早朝、408は前日の顛末を電話口で簡潔に報告した。案の定上からは怒られもしなければ、嫌味を言われることもなかった。やはりどの工場でも似たような騒ぎが起こっていたのだ。408が心配していたのはそちらではなく、前日に蒸発してしまった工員達が戻ってきてくれるかどうかであったが、これもまた杞憂であった。
「こいつらよく何事も無かったような顔をして戻って来れるな……。」まるで昨日の出来事の顛末が夢であったかのように、工員達は悪びれることなく普段通り出勤してきた。しかし工場の稼働が始まると、前日の遅れを取り戻すかのように熱心に働く工員達を見ると彼らを批判する気持ちも薄れていった。
昨日誰しも街中オレンジを探し回ったものの、オレンジはどこにも無かったのだ。そうなると諦めて働く以外、自分達のやることはないのだ。昨日一日かけて探し回ったからこそ、後に引かず今日を迎えることが出来た。そう解釈すれば、寧ろ傷が浅く済んだと言えなくもなかった。
408にとっては予想外であったが、Aタイプ皆この瞬間だけはオレンジのことを忘れているようであった。普段通り、いや寧ろ普段以上に熱心に仕事に取り組んでいるといっても過言では無い。
その様子を満足そうに眺めながら408はいつも通り巡回していた。長く続くライン上で、全員が仕事に黙々と取り込んでいる。しかしその中に一組だけ、妙に動きの悪い組があった。Jd‐930607とJd‐583333の組だ。二人の動き一つ一つに問題があるわけではない。ただ、少しずつタイミングがずれているのだ。新しくコンビを組んだ時のように息が合っていないのだ。あたかも二人が思考を共有しているような、一つの生き物のように行動するAタイプ特有の動きが出来ていない。
「珍しいこともあるものだな、二年間も共同で作業しているペアの息があっていないなんて。まぁ大方どこか軽く痛めたんだろう。明日になれば、きっと戻っているさ。」こう判断し、408は立ち去った。後日408はこのことを思い出し、あの時声をかけるべきだったかもしれないと後悔することになったが、この水曜日にそれをしなかったのは、仕方のない話であった。
前日の騒ぎが無かったかのように振る舞っているのはこの工場に限った話ではなかった。オレンジ一つを求めて右往左往していたAタイプは、皆オレンジなど永久に忘れてしまったようにも見えた。グレープフルーツ、バナナ、リンゴ、カキ……当たり前の話であるがオレンジ以外にも果物はある。あれだけ罵声が飛び交っていた生鮮食品店も繁盛しており、客も店員も怒鳴り合ったことに一抹の居心地の悪さを感じながらも普段通りを装っている。
「全く馬鹿な連中だ。昨日オレンジ一つにあれだけ右往左往しておきながら、今日はすっかり大人しくなっているんだから。どうせなら、昨日から大人しくしていてくれれば良かったのに。尤もあのバカ騒ぎのお陰で、こっちは大儲けすることが出来たわけだが。オレンジ一つがあの値段で売れるなんて、こんなチャンスはもう二度と巡ってこないだろう。
三百万チケットくらいにはなったんじゃないのか。」105は自分のオフィスの窓から下界を、見下ろしながらほくそ笑んでいた。
一夜限りの祭りは終った。
最早幹部も一般のAタイプも、オレンジがあれば食べたいと思ってはいたが、異常に強く執着している者は誰もいなかった。下級工員でありながら前日運よく丸々一つのオレンジにありついたJd‐930607を除いては。
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