パブロフの犬たち
自動車工場の警備責任者である警官のJd‐20408、通称408の毎日の業務は至って単純だ。朝は工場の工員より少し早めに出勤し見回りをする。工場が稼働したらまた巡回をし、工員が露骨にサボっていれば注意をする。それでも改善しなければ配給チケットを罰金として徴収することになっているが、ここまで行くことは滅多にない。
昼食の時間になれば各セクション毎に食堂に連れていき、サンドイッチを食べながらこれまた滅多にない喧嘩が起こらないか監視する。しかし個人をほぼ区別できず、また区別する必要のない環境において喧嘩の原因など全くと言っていいほど存在せず、せいぜい自分の小さいオレンジを他人の大きなオレンジとすり替えるといった程度のものだ。408の覚えている限り、喧嘩と呼べるものは勤続十年で三回しか起こっていない。その何れも軽いつかみ合いといった感じで、逮捕する必要があるかどうか考慮する必要すら無い程度のものだった。そもそも408もその同僚の誰も、逮捕というものが具体的にどういうものか詳しく知らなかったし、逮捕した後どこに連行すれば良いのかも分からなかった。
そして午後からは午前と同じように見回りをし、工場が閉まったら工員より少し遅めに帰宅する。確かに拘束時間は長いが給料は悪くないし、工場の食堂で余った食材を拝借出来るといった役得もある。仕事といっても歩いているのみの楽なものだったから、408がこの仕事に愛着を持っているのも道理であった。しかし昨日も今日も明日も永遠に平坦なこの生活に、どこか物足りなさを感じているのも、また事実であった。勿論その感情はAタイプ全員が持ち合わせていたものではあったのだが。
しかしこの火曜日は最初から、その平穏な日々とは異なる滑り出しをしていた。
いつも通り朝早くに出勤し食堂に顔を出した瞬間、何かがおかしい、と頭の中で声がした。一見するといつも通りの光景である。厨房では何百人といる工員の昼食のために朝早くからAタイプが慌ただしく動いており、調理中の何とも香しい匂いが広がっている。
だが、間違いなく何かが違っている。408はその違和感の源を探すべく、五感を総動員させた。目に映る光景はいつも通りだ。普段調理中、どんな音が出ているかなど、408は一々気にしたことがなかったが、今日も妙な気配は無い、いつも通りであることだけは確かだった。しかし匂いはどうだろうか。火曜日にいつも充実感を感じさせてくれる、あの匂いは今日どこに行ってしまったのだろうか。
疑惑が確信に変わり、確かめずにはいられなくなった408は、気が付くと厨房に踏み込んでいた。厨房に積み込まれた段ボールの中には有るべきものが無く、決して有ってはならないものが有った。
「おい、オレンジはどこに行ったんだ。こんな萎びたグレープフルーツじゃあ皆怒っちまうぞ。」105の呟きは誰に言うでもなく、この世全てに問いかけるようであった。
「俺もオレンジがなくて驚いているんだよ。しかし上の連中は今日提供できるものはこれしかない、の一点張りでね。俺にはどうしようもないんだよ。どうしたらいいんだ、教えてくれよ、なぁ。」いつの間にか、一緒に段ボールを覗き込む格好になっていた厨房責任者のJd‐110450、通称0450の返答もまたこの世全てに応えるかのようだった。
「俺がやれることと言えば、与えられた材料から少しでもマシなものを作ることだよ。でもメニューは今更変えられないし、マニュアルから何か離れたことをやるわけではないけどね。そっちもいつも通り、ベストを尽くしてくれよ。そうすれば……きっと何も起こらないさ。」そうは言ったものの0450もまた、自分と同じ予感を抱いていることを、408は感じ取っていた。間違いなく何かとんでもないことが、想像を絶するような騒ぎが起こりそうだと。
最後にもう一度確かめるように、段ボールの中のグレープフルーツを一瞥して、厨房を跡にした408の額には冷や汗が浮かんでいた。これから起こることが頭をかすめるだけでも、思わず心臓が早鐘を打った。
しかし心臓はただ未知の出来事に対する恐怖に焦っているわけではない。408自身も気が付いていなかったが、人生で初めて遭遇すると言っても過言ではない、そんな予想できない未来に興奮して滾っていたことも、また事実なのであった。
0607の仕事はJd‐583333、通称43との二人組で、数分に一回ベルトコンベアに乗って流れてくる変に曲がった大きな金属に、レンチ等を使って部品を四つ取り付ける、という単純なものだった。二人ともこれが具体的に自動車のどこの部品なのか、何という車を作っているのかを全く知らなかったが、特に深く調べようと思ったことは一度もなかった。
この世界では仕事は大きなヘマさえしなければ貰える配給チケットが変わらない。あいkai自分の仕事に興味がないのは、この二人に限った話ではない。このコンビはもう二年間一緒に同じ作業をしていたが、二年という歳月によって仲が深まるということは一切無かった。これも当然の話であり、娯楽といえば国営放送の三つのチャンネル、国営のちゃちなカジノ、グレイテストビール、グレイテストウィスキーと言った酒、そしてオレンジくらいなのだから自分と全く同じ経験しかせず、自分と同じ思考回路を持っている相手との話が弾むはずがない。これもこの二人に限らずこの社会全体の傾向であった。
しかし作業に関してだけは、お互い同じ遺伝子を持っていることもあってか、まさに阿吽の呼吸というのに相応しい連携であった。重ねて言うが、これもこの社会全体では珍しいことではない。三日もあれば、相方が次に息を吸うタイミングまで分かるものだ。
昨日も今日も明日も、この世界が続く限り昼の休憩は十二時からということになっている。しかしラインの後ろの方の工員でも十二時すぐ過ぎには食事に行けるように、ラインの前の方の工員が十一時半ごろには作業を止めるのが、特にオレンジの出る火曜日と木曜日には暗黙の了解であった。
0607と43がこの退屈な仕事を初めてから三時間半が経ったころ、誘導もまだ無いのにラインの前方からぞろぞろとAタイプが食堂に向かって行くのが見えた。
「どうも午前は、これが最後の仕事のようだな。」そう0607が心の中で呟いたのと全く同じタイミングで、43も同じように呟いた。最後の部品を取り付けた瞬間、二人は何も言わずに全く同じタイミングで、油に塗れた手袋を外しながら立ち上がると、食堂に向かっていった。それはさながら鏡合わせのようで、ある種芸術的ですらあった。
工場の食堂のメニューは二種類しかない。そして質素かつ工業的なものではあったが、結局のところただ一つの舌に合うものを提供しさえすればよいのだ。作る側もそれは分かっているのだから、提供されるメニューは料理人の舌に合っていればよい。そうであるから、味について文句や苦情の類が出ることはただの一度もなかった。
食堂の席に着くAタイプはまばらで、列もそう長くなく、混雑するのはまだ当分先の様子だった。しかし0607が食堂に足を踏み入れた瞬間に分かる程、張り詰めた雰囲気が漂っている。だがそれがどこから来ているのかは、ランチが乗っているトレーを見るまで0607には見当もつかなかった。
アのトレーには固めの黒いパン、具が少し入っているクリームスープに大豆で出来た人工肉、それに皺が目立つ黄色いグレープフルーツが一つ載せてあった。そしてイのトレーには具の無いカレーライスにサラダ、そしてやはりこちらにも皺くちゃのグレープフルーツが一つ載せてある。
0607は初めこそ何も気づかずアのトレーを取ったが、異常事態に気が付くと慌てて差し戻した。それを後ろで見ていた43は怪訝そうな顔をしてそれを見ていたが、直ぐに自分も全く同じことをする羽目になった。そしてイのトレーを取ってはみたが、やはり異常事態がそこには乗っていた。
「おい、今日はオレンジの日じゃなかったか。」ここにあるものはオレンジだ。自分の見ているこの黄色い果物は幻覚なのだ。そう太鼓判を押してほしそうな震える声で、目の前にいる0450に尋ねてはみたものの、グレープフルーツはグレープフルーツであり、断じてオレンジでは無い。
「いや本当はその予定だったんだけどな。」今日何度もその質問をされている0450はもうその質問に完全にうんざりしていた。当初こそは真摯に答えていたが、既に何十回も同じことを聞かれ、これから文字通り後何百回も、この質問をされることも内定しているのである。
「オレンジを積んだトラックが事故にあった。悪いが木曜日まで我慢してくれ。なにグレープフルーツも悪いものじゃないよ。」そう機械的に言うと、次がつかえているんだから早くしろよ、と言わんばかりに顎で席に着くように促した。そして次に全くおなじ質問をしてくる同じ顔に備えたのである。
0450の理屈に納得したわけでは全くなかったが、暴れたところでオレンジが出てくることがないことは0501にも解りきっていた。結局のところ、もう一度大人しくアのトレーを受け取って席に座る以外に選択肢はなかったのである。席につく間にもオレンジについての質問が飛び交い、その度に0450のうんざりした返事が響き渡っていたが、最後には全員0607と同じように0450からお茶を濁されると、不服そうな顔を一様に浮かべて席に退散していったのである。
0607が固いパンをスープに浸したところで丁度時計の針が十二時を指し、けたたましいファンファーレが鳴り響いた。すると食堂の隅にある巨大なTVが点灯し、真理省が提供する昼の生放送のニュースが流れ始めた。昼食時おなじみの光景である。全員の不平不満に応えるかのように、全国トップニュースは今日のオレンジの件から始まった。
「本日発生した脱線事故により、J大管区d地区では物流に於いて一時的な障害が発生しております。これにより同地区でオレンジの配給が昼のランチに間に合わないという痛ましい事件がおこり……。」この第一声を聞きTVを見た瞬間に、0607はまた真理省がお得意の偽りと欺瞞に満ちたプロパガンダを始めたのだ、と看破した。
このアナウンサーは確かに自分たちと全く同じ顔をしている。しかしこの一日だけ、彼は区別可能な存在だった。頬に小さな、だが一度気づけば目について離れない髭のそり残しがある、今朝見たアナウンサーだったのである。
このAタイプは今朝0607らの住むJd地区の細かい天気予報を読み上げていた。それを考えると中央の放送局ではなくこの地区に所属するアナウンサーなのだろう、と推測できる。その地区アナウンサーが全国トップニュースを読み上げているということは、これは本物の全国ニュースではなく、地区ごとにニュースを改竄し、全国ニュースとして放送していることに疑いの余地は無かった。
「オレンジがないのは貴方の地区だけであって一時的なものだ。またすぐに入荷するから心配するな。」そのようにしてAタイプを言いくるめる狙いがあるのは明白だったのである。他にこの嘘に気づいている仲間がいるか探そうと、ニヤつきながら周囲を見渡すと、他に何人ものAタイプが同じくニヤつきながら周囲を見渡しているのを見て0607は満足した。そうでないAタイプも殆どは、いつも通りこの雑なプロパガンダを全貌は分からないながらも胡散臭い目線で眺めていた。
ただ、0607はこの嘘を見破りはしたが、別段自分たちを騙そうとした彼らに怒っているわけではなかった。そしてこうも簡単に綻びを見せるプロパガンダ製作者の無能さに呆れているわけでもなかった。職業籤によっては自分がこのプロパガンダを制作するか、あるいはこのTVの中で読み上げていたのかもしれないのだ。
この世界特有の倫理観ではあるが、皆能力が同じであり、職業も数年に一度の籤によって決まる以上、自分がそうなったかもしれない。あるいはどうせ同じミスをしたであろう職業の他人を憎んだり蔑んだりすることは、自分を憎むこととほぼ同義であり、タブーだった。またそれ以上にとても虚しいことだとして、皆極力考えないようにしているのだ。
天気予報が終わり尺が余ると、いつも通りお決まりのプロパガンダが始まった。世界はより良い方向に向かっている。地球の生物多様性は産業革命以前にまで回復した。我々は完全に、そして永続的に平等な社会を築き上げることが出来た。そういった文句が淡々と読み上げられている。
しかしそんな口上は、いつも以上に誰からも相手にされなかった。0607の、そしてこの食堂にいる全員の注意はある一点のみに絞られていた。
「あんな見え見えの嘘をつくとは、どうも木曜にも俺たちはオレンジにはありつけそうにない。」そんなどうしようもない現実だけが、彼らの頭を支配していた。
その一方、食堂で暴動が起こるのではないか、と気が気ではなかった408は、一先ず峠を乗り越えたことで一息ついていた。
「あのバカどもはあんな雑なプロパガンダを作りやがって暴動を煽りたいのか!」と胡散臭いプロパガンダが流れた時は憤慨していたが、工員の反応は予想以上に大人しいものだった。考えてみれば当たり前の話だが、オレンジの供給が止まってしまうという、世界規模、空前絶後の異常事態が起きているのが現状なのだ。そこで厨房担当にオレンジをよこせと詰め寄ったところで、仕事を放り出して暴れたところでオレンジが出てくれば苦労はしないのだ。
結局殆ど全員が驚くほどの物分かりのよさを見せ、文句をぶつぶつ言いながらもグレープフルーツをオレンジの代わりに食べ、持ち場へ戻っていった。全員が昼食を終えて、後片づけと明日への軽い仕込みのために何人か調理人が残っているという光景は、いつもと全く同じだった。しかし皆が昼食を摂りながら、心の奥底で蓄えた怒りや憤りといったエネルギーが溢れ出る瞬間は、直ぐそこまで迫っていた。
昼食後に暴動がJ大管区内のどこでも起こらなかった、という知らせを聞いて喜んだのは105も同じであった。しかし彼がこの報告を受けた状況は、十二分にその解釈に影響を歪んだ影響を与えるものだったのだ。
彼は食品衛生庁のビルの頂上にある個人用のオフィスでその報告を受けていた。このビルの、いやAタイプの街にある部屋の殆どは、無機質なコンクリートの打ちっぱなしの壁に、クリーム色のビニル床が敷き詰められている味気ない部屋だった。
しかしこの部屋は違う。壁は鮮やかに光沢を放つ木材で出来ており、床には本物のウールのカーペットが敷かれていて、部屋に入った瞬間にその沈み込むほどの柔らかさが実感出来るほどだ。更には専用の冷蔵庫に流し場、コーヒーメーカーまで揃っており、保養施設さながらであった。そしてこの一人には余る程の広さと清潔さを誇る部屋には、寝そべれることが出来るほどの巨大なデスクがこれ見よがしに鎮座している。
そんな部屋でゆったりとした椅子に腰かけて、電話越しに受けた報告が如何に正確だったとしても、彼の頭の中に正しく情景が浮かぶはずがない。暴動こそ発生しなかったが、Aタイプは皆一様に、二度とオレンジを口に出来ないのでは、という不安を抱えていた。しかし105も彼らと全く同じDNAを持っているにも関わらず、そのことに考えは及ばない。彼の頭の中に浮かんだのは、Aタイプ全員が文句も言わず粛々と列に並び、グレープフルーツの皮をいそいそと剥いて口に押し込んでいる様子だった。
先ほどまで心の中ですくすくと育っていた不安の種は、あっという間に枯れ果てた。そしてこのことは、彼にある種の啓示を与えたようだった。
「結局のところ、あいつらのおやつはオレンジでなくても果物なら何でもいいんじゃないのか?もっと言うなら、果物である必要すらないのかもしれないぞ。貯蔵庫の奥で眠っている穀物を、うまく加工して流通させれば数か月は時間が稼げるかもしれない。これが軌道に乗って正規ルートでの果物の消費量を減らすことが可能になれば、余った果物は闇市で売り込んで荒稼ぎすることが出来そうだな……。」そう105が思考を巡らせていると、ふと二週間ほど前に農薬検査のためと称して回収したオレンジが、まだ段ボール一箱分残っていることを思い出した。そのうちの幾つかは冷蔵庫に入れてキンキンに冷えている。105は冷蔵庫を開けると、雑に押し込まれているオレンジを一つ取り出した。
「まだ値は上がるだろうけれども、所詮は生ものだ。腐ってしまったら何にもならない。今のうちに換金するほうが、得策だろうな。」105はそう呟くと、昨日Gコロニーまで運転してもらったJd‐375046に再び連絡を取った。
408は午後の巡回を始めるとすぐに、食堂での異様な雰囲気がそのまま残っていることに、そしてさらに煮詰まっていることに気が付いた。皆頭では一応納得したために食堂では大人しく引き下がったが、心から納得してオレンジを諦めた者は一人もいない。必然的に午後の勤務では、全員オレンジのことで頭がいっぱいで仕事が手につかず、工場は三時過ぎにはその機能を喪失していた。
全員が一刻でも早くここから抜け出して、市場か闇市に誰よりも早く行こうと、機を伺いはじめていた。一人、また一人と工場から抜け出していく。サボタージュと職務放棄が工場全体に蔓延している状況にも関わらず、408を始めとする警官は誰一人自分の仕事をしなかった。これは警官らもオレンジに気を取られていたというわけではない。彼らがオレンジを配給されるのは、月曜日と金曜日であった。昨日食べたのだから現時点でオレンジへの渇望はそこまででもないのだ。しかし同じ遺伝子を持つ仲間として、貰えるはずの日にオレンジを貰えないことがどれだけ辛いのかは理解できる。
自分も同じ立場であるなら仕事が手につかないだろう。抜け出して市場に行ってしまっていただろう、と思うと彼らを注意することは出来ないのだ。定刻では五時に退社のはずではあるが、408が四時に巡回をした時には工場は完全にもぬけの空になってしまっていた。
「参ったな……。」空っぽの工場と、組み立てられずにベルトコンベアの上を漂っていく部品を見つめた408はとりあえずオフィスに戻ると、自動車公社のJ大管区支社に電話をし、状況報告をしようとした。しかし何度かけても繋がらない。J大管区の何百とある組み立て工場の全てが、ここと同じ様に稼働停止してしまったため、報告の電話で回線はパンクしてしまっていたのだ。408は自分の退社時間の六時まで粘ったが、いくら待っても状況は同じだった。
「どうせ報告が遅れたことを咎められることは無いさ。上役も自分が408のような立場ならもう帰ってるだろうよ。俺はどのAタイプよりも粘ったさ……。」と自分に言い訳をすると、いつまでも繋がらない受話器をゆっくりと戻した。そしていつも通り、工場に誰も残っていないことを確認するため、定例通り今日最後の巡回に向かっていった。
0607が工場から抜け出したのは三時半くらいであった。工場からのシャトルバスは退勤時間の五時まで来ないので、彼は市場区画まで久しぶりに歩いていくことに決めた。ふと見渡すと、自分と同じく他の工場から抜け出してきたのだろう、お仲間のAタイプがちらほら見えた。進む方向からも、皆の目的の場所は0607と同じなのは明らかだった。
「この分だとスーパーにオレンジがあったとしても、間違いなく今頃売り切れているだろうな……。」0607は悲嘆に暮れたが、市場区画に向かう歩みは弱まるどころか、益々駆け足になっていった。この目で見て確かめないと諦められないのだ。
市場区画には主に食料品を売っているスーパーマーケット、酒を売っている店、部屋用の電化製品を売っている店等が立ち並んでいる。しかしどの店も商品のバリエーションは非常に乏しい。商品棚の上下左右全て同じ商品が並んでいることも珍しくない。しかしながら唯一の顧客であるAタイプの好みのパターンは実質一通りしかないため、これでも最低限の商品は揃っていることになっており、この点が問題になることは殆ど無かった。商品が不足するということもこれまで無かった。商品の生産計画を立てる官僚は同じ遺伝子を持つ大衆が何を、どれだけ必要としているかは自分のことでもあるから当然、ほぼ完璧に把握していた。急な需要の増減も殆ど起こることはないため、この緩やかに衰退していく社会にあっても、何とか供給を満たすことが出来ていたのだ。
0607が市場区画に辿り着くと、まだ日の高いうちだというのに、普段の夕暮れと同じくらいの混雑であった。いつも行っている生鮮食品店に向かってはみたものの、普段とは違う尋常ではない長さの行列が出来ているのを目にすると、思わず足が止まってしまう。
自分が買う番が回ってくるころに、まだオレンジが残っているという望みは全く残されていない。そう理性は呟いている。しかしその声に従ってそのまま家に帰ろうと引き返そうとした足は、結局前に向かって踏み出した。
オレンジが置いていなかったとしても、どの闇売人ならオレンジを持っているのかを店員から聞き出す必要はある。そしてひょっとしたら、まだ店にオレンジが残っているかどうかは自分の番になるまで分からないのだ。結局0607は、そんな諦めの悪い欲望の声に突き動かされ、他のAタイプの皆と同じように列に並びなおした。
列は普段以上に、頑なと言って良いほどに進まなかった。普段は商品と配給チケットを交換したらそれで終わりであるが、今日ばかりは勝手が違う。全てのレジで客と店員が同じ顔を突き付けて長い時間話し合い、時には怒鳴り合っていた。殆どの客は商品籠に商品を僅かしか入れていない、いや商品籠を持ってすらいない客も多い。何かを買いに店を訪れたわけではなく、賄賂を贈って闇ルートからオレンジを手に入れた売人がどこにいるのかを聞き出しに訪れているのだ。
長い列に並んでいる客達は苛立ってはいたが、店員達の苛立ちも同様にピークに達しつつあった。何せ来る客来る客全員が殆どが同じ無茶な要求をしてくるのだ。オレンジを出せと言われても出しようがない。確かに店員は僅かに残った、闇に消えた幾つかのオレンジの行き先を知ってはいる。だが誰も彼もその情報を無料で、それが叶わないと分かれば無理にでも安く聞き出そうとしてくるのだ。最初から素直に相場相応の額を払えばよいのに、どれだけ時間がかかろうとも、一枚でも配給チケットを多く払うまいと試みる。中途半端なAタイプの卑しい守銭奴具合が、店員を苛立たせていた。
そして0607が並んで二時間くらい経過し、漸くレジに辿り着いたところで皆の苛立ちが沸点に達した。
「いらっしゃい。」店員がうんざりした口調で、蝿が飛ぶような小さな声で言った。
「オレンジを出してくれ!奥にまだ隠してあるのは知っているんだぞ!」余りにも長すぎる行列に完全に参っていた0607は興奮しながら怒鳴り散らした。勿論オレンジが隠されているという確証など全くない。一方、今日何度も聞かされた要求にますます気を苛立たせた店員も怒鳴り返した。
「何度も言っているが、無いものは無いんだよ!商品は棚に並んでいる物で全部だ!大体お前は籠すら持っていないのにレジに並んでいやがるんだ!何か買いやがれ!」怒鳴られた0607は一瞬面食らってしまったが、直ぐに反撃に転じた。この社会では喧嘩が起こりにくいというのは以前にも述べた通りであるが、些細な行き違いからの口論程度ならたまにはある。しかし今回の口論は普段のそれとは異なっている。お互いに苛立っており、そしてこの怒りを誰かにぶつける機会を伺っていたのだ。
「俺はそんなこと初めて聞いたぞ!それに…それに…オレンジも無いのによくも果物屋を名乗れたもんだな!こんな店なんて閉めちまえ!」0607も苛立ちに任せて、売り言葉に買い言葉で反撃したが、その瞬間に後悔に襲われた。オレンジがこの店のどこにも既に残っていないことは彼にも解っているのだ。仮にオレンジが残っていたとしても、店側も公定価格で売ろうとはせずに、売人どもに横流しするだろうというのは誰にでも想像できる。
「その売人が誰なのかを聞き出すのがそもそもここに来た目的だったのに……。」この険悪な状況からどう友好的にその話に繋げようか。0607は頭を一生懸命巡らしたが、残念ながらそれは手遅れだった。
「何てことを言いやがるんだ……。お前みたいなAタイプに売るもんは無いぞ、さっさと帰りやがれ!」店員は更にヒートアップして怒鳴ったが、0607と同じく彼もこの口論を口に出した瞬間に後悔していた。この一日の騒動で彼が得た賄賂は既に普段の給料の十日分の五万チケットに達しており、まだまだこれからが稼ぎ時のはずだったのだ。何とか客を繋ぎ止めておかなくては、と思い直したが、続けて出てきた言葉は彼のその思いとは正反対のものだった。
「おい、お前ら!もうこの店には一房のオレンジだって残っちゃいねぇぞ…どうせお前らも何も買うつもりは無いんだろ!ついでに言っておくが今頃闇のオレンジもとっくの昔に売り切れちまってるだろうよ!ざまあみろだ!用がないんならお前らも帰りやがれ!今日はもう閉店だ!」こう大声で啖呵を切り、勝手に閉店を制限すると一種の催眠状態が起こったのか他の店員もこれに続いた。
「帰れ!帰れ!」
「二度と来るもんか、こんな店!」客と店員で怒号が飛び交う中、0607は一足先に店から抜け出した。彼は久しぶりに大声で自分の主張を叫んだことで、一瞬少し晴れやかな心地であった。しかしその気分も二時間も貴重な時間を浪費したという事実を思い出すとあっという間に消し飛んでしまい、結局は鉛を飲み込んだような重たい気分に落ち込んでいた。
こんな陰鬱な気分になった時に、Aタイプの行くところは決まっている。一瞬だけだとしても、例えそれが偽りのものであっても、間違いのない夢を提供してくれる場所だ。0607だけでなく、店を出たAタイプの足は皆一様に、そして自然と国営カジノに向いていた。
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