オレンジの木

@captainhijiki

平等な社会

        

 彼は何度も、数えきれないほど同じ夢を見てきた。それも至極変わった、奇妙な夢である。その夢に出てくる風景は、彼の住む無機質で均質な集合住宅や工場とは違い、緑色に囲まれている。今まで飽きるほど見てきた、あのいつもの顔は一つも出てこない。そして夢の中で出てくる顔も、そして躰も彼の知っているそれと全く異なっている。目はこの世の全てを見通すかのように大きく、鼻は全てを見下ろすように高い。躰は針金細工のようにか細いが、それでいて大地に根ざしているがごとく揺らぎない。その躰の延長線上にあるように長く伸びた黒い髪は、こちらの視線すら弾くほど瑞々しい。あたかもそれ自体に生命が宿っているかのようだ。だがその顔も髪も躰も指の先もはっきりと目の前に見えているはずなのに、まるで水面に沈んでいるかのようにおぼろげなのだ。しかしそれでも、普段見慣れている彼らとは全てが違っていることだけははっきりとしている。そしてそれは、彼に何とも言えない安心感を与えるのであった。

 7時を告げるアラームが鳴り、彼は夢の世界から帰還した。正確にはいつも通りアラームが鳴るほんの少し前に目が覚めたのであるが。起きた直後に彼は夢を思い起こし、それがどんなものであったか、あの光景はなんであったのかをぼんやりと思い返そうとした。しかしそうすればするほど、砂で作った塔のように夢の世界は崩れていった。 

結局最後に残ったのは以前にもこの夢を見たことがあるという確信、そしてこれだけ何度も現れるこの夢は自分にとって何か特別な意味合いがあるのではという疑念、いつも通りこの二つだけだった。この二つも顔を洗って着替え、食パンを齧るという朝のルーチンをこなしていく間に頭の隅に追いやられていったのだが、これもまた数えきれないほど繰り返してきたことであった。

今日の天気を確認しようとTVをつけたころには、夢のことなど完全に記憶の奥底に沈んでしまっていた。

「このアナウンサー頬の髭を剃り損ねているな……。」アナウンサーの顔がアップされたその一瞬だけ、画面に映ったみっともない剃り残しが、彼の心に引っかかった。さして気に留めるほどのものではないが、彼は自分の見たものが間違いでないか確かめたい、という妙な好奇心に突き動かされた。本日の一日の気象予測を示した表に画面が変わり、明日の夜間にかけて訪れる嵐についての解説、そして向こう一週間の予想天気が移されるに至っても、彼の脳はその画面を情報としては認識せず、ただひたすら次にアナウンサーの顔がアップされる瞬間に備えていた。しかし結局のところそれは徒労に終わった。遂にその髭をもう一度見ることなく、TVの画面は政府広報のCMに移り変わっていた。ぼんやりと口を開けて画面を眺めていた彼がそのことに気が付いたのは、その広報が始まってから四十秒は経ってからだった。ここ数年お決まりとなっている、我々が行っていることは万事上手くいっており、我々の文明を永遠に繁栄させる準備は確実に進んでいる、といった十分以上に渡る勇ましいプロパガンダを垂れ流すディスプレイを、うんざりした表情を隠そうともせず彼は暗転させた。あの髭は再確認出来ず終いであったが、それ故に仮にもう一度見ていたよりも、遥かに印象に残る結果となった。時計を見ると七時四十分、丁度家を出る時間になっていた。

 彼の住居は無数に並んでいる均質な、L字型をしたビルの中の一つにあった。そのどれも全く同じ設計であったから、仮に誰かを自らの部屋に招待する機会があれば、その相手が部屋に辿り着くのは極めて困難であっただろう。尤も、そんな機会など訪れる可能性は全く持って皆無なのであるが。

出勤するためにドアを開けると、先ほどまでディスプレイの中で必死にもう一度見ようとしていたのと、殆ど変わらない顔がそこにいた。こちらの髭は無造作に伸び放題であるのは大きな違いはあったが。しかしいくら瓜二つであっても、その顔に何の関心も彼は抱かなかった。工場に行くまでの間だけでも、これから嫌と言うほど遭遇する顔なのだから当然だ。

「これから出勤か、ご苦労なことだ。」入れ替わりに帰宅した様子の隣人は、自分に言い聞かせるように話しかけてきた。隣人の着ている緑の制服には、背中に大きく0935と書いてある。

「あぁ。そっちは夜勤だったのか?」無関心さを誤魔化すように返答すると、隣人の0935はわざとらしく欠伸をした。

「あぁ。お偉方が何を考えているのかはわからんでもないが、十二時間ごとの交代勤務なんてものは、自分の発想の中に留めておくべきだね。暗い中の収穫業務だなんて、体が持たないよ。少なくとも言い出した連中で試してみてから導入すべきじゃないか?上の連中は口を開けば持続可能で永遠な社会だのほざいているけれども、少なくとも十二時間の交代勤務は俺の体には持続可能とは言い難いね。こんなくだらないアイデアを出すのは、俺もあいつらと同じくらい得意なはずなんだから、仕事をそっくり入れ替わってもらいたいもんだ。まぁ俺も、奴らと同じ様な立場になれば、こんな案を何の疑問にも思わず口に出すんだろうけどな。」0935のこぼす愚痴を、彼は適当にあいずちを合わせながら話半分に聞いていた。このままずっと続くようであれば仕事に遅れてしまうが、彼の愚痴を聞くこともまた大事な仕事であった。どんなにくだらないことであっても、他人の悩みは自分の悩みでもあるのだから。

「0607の勤めている工場は夜勤がないんだろう?羨ましい限りだ。もしよければ職業交換所に一緒に申請に行ってくれないかな。」0607と呼ばれた彼は、この会話の上でどうも自分が一方的な受け身ではいられないことに気が付いたが、うんざりとした表情は露骨には表さなかった。0935も、自分が流石にそろそろ仕事に行かなくてはいけないことを分かっているに決まっているのだから、あと少し付き合うだけなのだ。

「太陽が沈んじまっている以上、電気が来ない工場突っ立っていてもやることなんて何一つないからな。それに自動車みたいな化石燃料でしか動かない、幹部の連中が乗り回すためだけに存在するような前時代の遺物だなんて、例え昼にだって作る価値なんて無いだろうさ。それにベルトコンベアで流れてくる部品をくっつけるだけの、創造性の欠片もない糞みたいに退屈な仕事だよ。三年限りと解っていなければ全員気が狂っちまうね。だからこそ三年限りだって、決まっているんだろうが…。」

「ふん、仕事が気に入らないのはお互い様のようだな。じゃあ一緒に職業交換所に行ってくれるね。」

「いやね。これも仕事に慣れてくると、頭を使わずに作業ができるようになるから、退屈極まりなくても楽なことは救いなのさ。話を聞く限り、そっちは退屈に加えて大変そうな仕事じゃないか。悪いけど断るよ、次の職業籤でそっちが楽な仕事につけるように祈っているよ。」

「そう来ると思ったよ、やっぱり遺伝子レベルで嫌な性格だな。」隣人の0935はそう冗談を吐き捨てると、自分の部屋に戻った。ドアは強く閉められ、その音は誰もいない廊下にこだました。

 

0607が廊下を抜けてエレベーターに乗ると、同じく朝八時からの勤務であろう自分と同じ顔がズラリと並んでいるのを目にした。いつも通り挨拶もせず誰とも目を合わせず乗り込んだが、それは途中の階から乗ってくる住人も同じだった。エレベーターには十何人と乗っているにも関わらず、誰もそこにいないように全員が振る舞っているのは奇妙な光景であったが、それを誰一人疑問に感じることはない。そして一階で止まると、全員が集合住宅のエントランスに待機しているシャトルバス、そしてこれまた同じ顔で一杯になっているそれに乗り込んだ。

0607もこの集合住宅に五年も住んでいると、区別のつかない同じ顔の中でも誰がどういった仕事をしているかは何となくわかるようになってきていた。勿論緑の制服を着ている人間は農業生産の仕事であるし、自分のように青い制服を着ている人間は工場関係の仕事、黒い制服を着ている人間は省庁での事務方だ。しかし緑の制服を着ていても、0935のように少し筋肉質な人間は収穫等を行っているのだろうし、スプリンクラーの管理等を行う人間は0935のように筋肉質ではないのだろう、といった具合だ。しかし0607は彼ら一人一人に違いがあることには気が付いていても、別段個人的に興味を惹かれることは無かった。付けられているタグが違うだけで、結局中身は自分と同じなのだから。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、十分ほどでバスは0607の勤めている自動車工場に着いた。彼は家とこの工場との近さも気に入っていた。前の仕事は三十分も通勤にかかっていたのだからなおさらだ。朝いつまで床まで離れる必要が無いかは、この社会に住むもの全員の関心事であった。

 IDを守衛に見せて、汗とオイルの仕事の臭いが立ち込める工場に0607は入って行った。

「また今日もここに缶詰めか…。」何度嗅いでも慣れない、むせるような臭いに囲まれると思わず憂鬱な気分になったが、それは0607だけではなかった。工場に入るや否や、皆が鼻をしかめ、0607のように声に出して愚痴っていた。しかし臭いというものはすぐ感じなくなるものである。0607も鼻が慣れると頭は他のことで覆いつくされていった。

今日は火曜日、ランチにオレンジが出る日なのである。そのことを考えれば0607、正確にはJd-930607は今日もまた、誰かが近づくことを拒絶するかのように、けたたましい咆哮を上げるベルトコンベアにも向かっていくことが出来たのである。




その前日の月曜日の早朝、105は四時間にも及ぶ、結局何の解決にもならない高官TV会議を終え、疲労困憊であった。

「そもそも同じ頭脳しか持っていない人間が雁首を揃えていくら話し合いをしたところで名案が浮かぶわけが無いんだ。状況報告だけなら二時間で終わるじゃないか。」と愚痴ったが、同じく会議に列席していた他の幹部達も同じことを考えていたのは確実だった。

「こんな会議しても何にもならない!酒でも飲んで現実を忘れたほうがましだ!」と勇敢で有意義な提案をしてくれる者を誰もが待ち望んでいたが、誰もその役割を買って出ようとはしなかった。それにこの会議の重要性と自分達に掛っている責任の重大さを考慮すれば、自分たちがこの問題を投げ出すわけにはいかなかったのである。

 そうなると、怒りの矛先はこの問題を解決できない自分達への無能さではなく、そもそもの問題を起こした連中に向かっていった。

「北米の細菌研究部は何がやりたくて、俺達Aタイプを皆殺しにするために最適な細菌の研究なんてしていたんだ?βがバイオテロを起こしてきた時のためのワクチンを作る必要があるなんて言っていたが、βのレジスタンスは三十年も前に壊滅していて、今では代替可能クラスの噂話の中にしか存在しないんだぞ。どこにも居やしない敵に備えた結果、その細菌が流出しただなんて冗談だとしても質が悪すぎる。そもそも細菌研究班のような階級の連中なら、その程度の情報開示は受けていたんじゃないか?起こってしまったことだから今更あれこれ言っても仕方がないが、一つ救いがあるとすればその馬鹿どもが皆苦しんで死んだってことくらいだろうな。」105には彼らの行動理由が全く理解出来なかったが、確かなことは一つだけあった。105にとってそれを認めるくらいなら毒杯を仰ぐ方を選ぶだろうが、もし自分が細菌研究部の一員であったなら間違いなくその計画に加わっていた、ということである。

「どうせ研究班のメンバーは背中に書かれた番号以外では区別しようがない、金太郎飴みたいな連中ばかりだったんだろうな。同じ遺伝子ってだけじゃなくて、同じ教育を受けているんだから当たり前の話だ。外から見ていたらすぐに疑問に思うようなことでも、一人が気が付かなければ全員が気が付かない。小さい落とし穴でも、一人が落ちれば後から続いた連中が皆落ちる。今回の事故なんて、俺達Aタイプの膿が凝縮されたようなものさ。誰一人疑問に思わず危険な研究を黙々と続けて、いつしか研究自体が自己目的化して、結局この有様だ。」105は誰もいないオフィスに戻っても暫く毒づくのをやめなかった。勿論それで現状存在する問題が解決するわけでは無いし、自分の苛立ちが解決するわけでもなかった。寧ろ自分がこのどうしようもないミスを犯したような気さえして、余計に怒りは湧き上がってくるのだった。


「とりあえず発電所には最優先で配給するんだ!あそこが止まったら終わりなんだからな!」105は苛立ちを隠そうともせず電話で部下に怒鳴り散らした。直接自分と同じ顔に八つ当たりよりも、顔の見えない電話越しに八つ当たりをする方がはるかに精神衛生上都合がいいのは、このポジションについて最初に気が付いたことの一つだった。

「105だ、Gコロニーに向かうから至急来てくれ。」八つ当たりが一通り終わった最後に運転手にもう一つ電話をかけると、105は趣味の悪い金色のスーツに袖を通してオフィスを出た。

 下級職員が出勤前のこの時間、食品衛生庁は人気もまばらなのが常であるが、ここ数週間は違う。何せ一大食糧生産拠点である北米からの供給が感染症拡大阻止のために完全に停止したのだ。備蓄の放出計画の作成や食料の節約啓蒙のプロパガンダの作成等やることが無限に生じている。北米のパンデミックは機密事項であるためそれを踏まえた上での情報操作もしなくてはならない。しかしそんな山のように積まれた問題すら、全て些末に思える爆弾を、105は処理しなくてはいけなかった。

「情報操作は本来真理省の仕事のはずだがあいつらこれ幸いと仕事を押し付けやがって…。」そう苛立ちながら105は黒い服を着た下級職員でごった返している廊下を歩いていく。金の服を着た長官が通過しても下級職員は会釈一つ寄越さない。これは職員が忙しいからではなく、単純に105を始めとした金色の服を着た幹部連中に敬意が払われていないからだ。遺伝子は同じであり、105が長官の職についているのは産まれたときのエリート籤の結果とその後の教育によるものでしかない。にもかかわらず広いオフィスを構えて広い官舎に住み、良い食事を提供され、車で通勤するために皮下脂肪を蓄えている幹部に敵意を隠そうとしない、いや軽蔑の視線を向ける下級職員も少なくない。

105も彼らから見下されているのは当然気づいている。そして逆に下級職員を見下し返している。

「確かに俺がこのポジションにいるのは籤のお蔭かもしれないが、俺たちの今抱えている重圧や責任はあいつらとは比べものにならない。あいつらはこの世界を、自分と同じ顔のクローンで埋め尽くされた気色の悪い世界程度にしか考えていないがこの世界はそんなに生易しいものではないんだ。戦争前の旧時代の機械の耐用年数は殆ど限界だし、新しく開発した機械は悉く性能が劣化している。プロパガンダでは、均質な社会を作り上げた我々Aタイプは、戦争前の社会と違って地球を食いつぶすような無限の発展を遂げようとするような愚かしい過ちは繰り返さない。地球と共存した持続可能で永遠に続く社会を築き上げることが出来る、なんてぶちまけているが実際はただひたすら衰退しているだけだ。

あんな嘘塗れのプロパガンダで安心して生きていけるなんて、無知とは何て幸せなんだ。

我々幹部連中は自分たちがこの惑星の支配者の座に相応しくないことを幼いころから毎日嫌と言うほど突きつけられている、この苦痛に比べたら広いオフィスや旨い食事も当然の権利だ。おまけにβの管理までしなくてはいけない!何だって俺達を絶滅させようとした連中を保護してやらないといけないんだよ。」もう既に何百回と繰り返してきた思考をもう一巡りさせて、更に怒りを押し上げながら歩いている105を、下級職員が呼び止めた。

「代替果実の備蓄量と一日当たりの生産量、輸入量をまとめました。当座は何とかしのげそうです。ご一読を。」そこに纏められた情報が極めて重要なことを知っての行動かは定かではなかったが、ファイルを雑に押し付けると、その下級職員は足早にさっさと歩き去っていった。


105は食品衛生庁の駐車スペースのベンチに腰掛けるとファイルを読み始めた。車を呼んでから十分は経っているがどうせもう後十五分は来ないだろう。

「手書きか……。これだけ重要な書類が手書きだなんてうちの役所のプリンターは全部いかれちまったのか?それともインク切れか……?」ファイルを開くなり、とてつもなく読みにくい文字と、ところどころ線が震えている幼稚なグラフが目に飛び込んできて105は呻いた。旧時代のものですらプリンターは故障しやすかったのに新開発のプリンターの劣悪さは筆舌に尽くしがいものがある。職員の誰もが使いたがらないのも無理はない。しかしAタイプは皆悪筆揃いでありどのみち近い将来の事務処理の効率の著しい低下は、来る未来に置ける最大の懸念事項になることは確実であった。

「三年後には一桁会議も手書きの資料を使ってそうだな。しかしこの数字は6か8かどっちだ……。」105が資料に悪戦苦闘をしばらく続けていると、ガタガタと不安な音を立てて公用車のスプリーマシーがやってきた。

「どうぞ 乗ってください。」結局呼んでから来るまでに、三十分近い時間をかけたことを、悪びれるふりすらも運転手Jd‐375046は示さなかったが105はそれについては特に怒ることはなかった。

「いつも通り、Gコロニーまで連れて行ってくれ。」

「わかりました。今日はエンジンの調子も良いですから、Gコロニーまでは二時間くらいで着くと思いますよ。」と言うと、運転手はアクセルを踏み、スプリーマシーは先ほどより一層ガタガタ言いながら進みだした。


 街を抜け郊外に出ると、車の揺れは更に深刻になっていた。かつてはコンクリートで一面平らに舗装されていた道路も、今やあちこちにヒビが入り、草木が顔を出している。

「コロニーまでの道中は相変わらず酷いな。いや、ここだけじゃない。どの道も年々酷くなっている。考えてみればこの道を自動車が通ることなんて、そうそうないんだから、予算が削られるのも当然か。」スプリーマシーのタイヤの質が年々悪くなっているのもあるが、それ以上に道が酷くなっているのは疑う余地も無かった。例え幹部が通る道であっても、地方の道路や小さな橋といった、細かいインフラを維持するための予算の確保が、ますます難しくなっている。こうなることを予期して設計しているのか定かではないが、スプリーマシーの天井は高めに作られているため、頭をぶつけることだけは無い。しかしこの揺れの中でファイルを読むことは、耐えがたい車酔いと同義であった。諦めてファイルを仕舞うと、105は濁ったガラスから外を眺めることにした。

鉛のような色の曇り空の下には、赤黄緑と様々な色に染まった山々が広がっている。そして手前に目を向けると、既に今年の役目を終えた農場が、じっと次の春に備えて眠りについている様子がどこまでも広がっていた。しかし街から離れれば離れるほど、彼らが眠りに入ってから経過した時間は一年、二年と長くなり、生い茂る雑草にも年季が入っていき混沌としていく。農場としての役目を永遠に終えて、人間の侵入を拒む存在へと移り変わった自然に囲まれて、肩身が狭そうにスプリーマシーは走って行く。105がこの道を通ってコロニーに行くことは何度もあったが、徐々に耕作放棄地が広がって行くことに、最初こそ危機感を感じていた。しかし自分では最早どうにでもならないことを知っている今では、寧ろその変化を楽しむようになっていた。

「今の時期にこの道を通るのは、そういえば随分と久しぶりだな。何年ぶりだっただろうか……。あの銀杏並木は、前通った時よりも随分と背を高くした気がするぞ。」時間とともに流れ去って行く車窓を眺めるこの瞬間が、105は嫌いではなかった。自分達の文明が衰退していていく歴史を突き付けられているのも同然の光景にも関わらず、世界がかつてそうあった姿に戻って行く様子は、心の奥底に眠っている何かを呼び起こすものでもあった。

ふと、誰かと目があった。こんな街からもコロニーからも離れているところで人間と出会うはずがない。あっという間に遠ざかって行く、自分を見つめるその目が何者だったのかを確かめようと、窓から顔を出すと一匹の真っ白な狼がこちらを見つめていた。文明が消え去った後の世界では、自分達こそが支配者なのだという自信に満ちている様子だ。

かつては彼らがこの世界の食物連鎖の頂点に君臨し、文字通りの支配者だった。しかしどれだけ栄華を誇っていようとも、時の試練には耐えられない。結局の所彼らは、人類という新しい支配者を前にして消え去った。だがその人類もAタイプというある意味新しい種に取って代わられた。そしてまた今、狼はそのあるべき地位に戻りつつある。

この地域から一度絶滅した彼らが復活したのは、元はと言えばAタイプの気紛れによるものだった。Aタイプが世界の支配者になるにあたって、前任の支配者の治世を否定する必要があるのは歴史の常だ。その象徴のプロパガンダとして選ばれたのが、人類によって追いやられた狼の再導入だったのである。

自然に溢れたあるべき世界を取り戻す。Aタイプの掲げるお題目としては珍しく、これは確かに達成されつつあった。それにはAタイプが意図して実行した計画も大なり小なり寄与している。しかしそれ以上に、彼らに現代文明を維持する力が無い、という事実の寄与するところが大きかった。今や農地は次々と耕作放棄地に変わり、工場は徐々に閉鎖されて行き、さながら現代文明が店じまいを始めているようであった。

そんな事情を知ってか知らずか、取り戻された王国で狼たちは今や我が物顔で振る舞っている。そしてその流れは今や決定的となりつつあった。

いつかは分からないが、そう遠くない未来に自分達Aタイプはいずれ滅びる。こういった考えは、105のようにこの社会で中心的な役割をしているAタイプにとって自然と共有されていた。

「おい、少し止めてくれ。」運転席のJd‐375046にそう声をかけて振り向いた瞬間、狼は消えていた。



 車が急に停まり105が目を覚ますと、丁度Gコロニーのゲートの目の前にいた。無機質なビルと煙を吐く工場の塊であるAタイプが生活する都市と異なり、βの住むコロニーは基本的に木や土といった原始的な物質から作られた家と小規模な田畑からなっている。

Aタイプと異なり、全員違う顔と遺伝情報を持っているβは、培養器で育てられるのではなく昔ながらのやり方で繁殖を行う。多様な調理や宗教といった旧時代の文化を残しつつコロニー内で自給自足の生活を送っている。Aタイプのプロパガンダのままの持続可能な生活は、彼らが実践していると言っても過言ではなかった。


戦争後すぐ、Aタイプの政府は自分たちの硬直した単一の頭脳が多様な意見を産み出すことが、殆ど不可能であることに気が付いた。屈辱的なことではあるが、文明社会を形にするためには自分達が滅ぼした連中が必要だったのである。

そこで街から遠く離れた場所に千人程度の小規模な集落を作らせて、そこでβ達を保護することにしたのである。彼らは原始的な生活を送りつつも、科学的な生活を送るAタイプに対してアドバイスを送れるだけの科学知識は受けがれている。そんな異様なバランスを維持するために費やされている労力は並大抵のものではなかった。

しかしそんな投資の恩恵に預かるべく彼らのコロニーを訪れて、実際にアドバイスを求めることが出来るのは105のような幹部のみだ。代替可能と呼ばれる下位のAタイプの耳には、旧人類のβは前の戦争で完全に根絶やしにされたが、レジスタンスを結成して常に政府の転覆を狙っているのだ、という矛盾していたプロパガンダが延々と届けられている。

どんな嘘でも百回吐けば真実になるというが、それが千回、一万回になると一周回って嘘くさく感じられるようになる。βに関して政府の公式見解を信じているAタイプは誰一人いなかった。しかし現実がこのように奇妙奇天烈であることを知っているものもまた誰一人いない。そういった意味ではプロパガンダは成功していると解釈できるのかもしれない。

車を降りて運転手を待たせておくと、今回も105はある問題に対する答えを求めて、コロニーの管理センターに入って行った。


結論から言うと、105が求めていた答えはGコロニーでは得られなかった。Aタイプの文化が退廃しているのと同様に、僅か千人のコロニーに押し込められているβの文化も退廃しているように105には思えてならなかった。

「何が長老だ。何だってβ共はあいつを崇めているんだか……。萎縮しすぎて脳みそが残っていないんじゃないのか。」老婆の住居から出るなり、105は周りにいるβの耳に届くことも気にせず悪態をついていた。車に乗り込んでからもそれは止むことは無かった

「旧時代には料理人をしていたと言うからオレンジに似た味になる食材の組み合わせの一つや二つは知っていそうなものだと思って期待していたら……。オレンジがないならグレープフルーツを食べればよいだと?オレンジとグレープフルーツは全く違うぞ、誰が騙されるものか。そもそも旧時代の調理師って肩書も怪しいもんだ、戦争が終わったころあの婆さんはせいぜい五、六歳くらいだったんじゃないのか?おい!車出してくれ!」車が出るとガタガタ揺れるのも構わず、ファイルを取り出し読み始めた。オレンジが食べられなくなる。この問題はAタイプにとっては極めて重要だった。嗜好品すら乏しくなっていくこの社会では、僅かに残ったその一つであるこの果物はAタイプにとって欠かせないものだ。しかしオレンジが永遠に食べられなくなったと分かった時、どんな反応を示すのかは、自分達ですら予想出来ないことだったのである。


「オレンジの備蓄が後わずかで切れてしまうし、カリフォルニアからの輸入の目途が全く立たない以上、結局はあの老婆の言う通りにするしかないだろうな。ファイルの数字が正しければ、グレープフルーツならジュースに使うようなクズを転用することで、J地区の全ての工場に七回分は提供することが出来る。グレープフルーツで連中が我慢するとは思えないが、今はこうするしかない……。少しでも早く善後策を講じなければ……。」105はガタガタ揺れる車内で考えを巡らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る