僕があの夏を思い返すとき。

ウメ

僕があの夏を思い返すとき。

 ここだけの話な……

 俺、記憶を売ったんだぜ。


 と、急に友だちが言ってきたら、皆はどんな反応をするだろうか?

 最寄りの精神科はどこだっけと思いを馳せたり、これは新手のネズミ講だなと疑ったりするかもしれない――いや、しないかもしれない。

 少なくとも、そのときの僕の反応は違った。


「詳しく聞かせてくれ! 一生のお願いだッ!!」


 後で聞いた話だと、僕の声は社員食堂の端から端まで行き届いたらしい。

 同期入社の友だちは一瞬びくりとした後、続きを語ってくれた。なんでも、記憶を買い取ってくれる店が人知れずあり、指定した期間の記憶を査定してくれるとのこと。

 彼は最後にこう言った。


「……だが気をつけな。売るってことは手放すってことだ。記憶を売った瞬間、お前はその記憶の所有権を失うぞ」


 つまり、売った記憶は忘れるということだ。


 ありがたい話じゃないか。

 ……僕には、むしろ金を払ってでも消し去りたい過去があるのだから。


    ☆


「……本当にここなんだろうな?」


 僕は同期の彼から貰った住所を頼りに、古びたテナントビルを訪れた。まるで時代に取り残されたみたいな色褪せ具合だ。

 今更ながら騙されてないだろうか……。

 昼間はテンションが上がってしまったけど、記憶を売れるだなんてインチキ臭いにも程がある――そう思っていたが。


「中村様、記憶の売却へようこそ」


 僕が部屋に入るなり、まるで待ち構えていたかのように一人の女性がお辞儀をしたのだった。

 黒のパンツスーツに身を包んだ生真面目そうな女性で、眼鏡の奥の笑わない瞳からは冷ややかな印象を受けた。年は僕と近そうだ。なんてことを気にしてしまうのは彼女が美人で、しかも僕のタイプだからだろう――が、これは話が逸れた。


「……どうして僕の名前を?」

「弊社――『goggle』のアカウントをお持ちですよね。他の用事でこの部屋に立ち寄る人はいませんので」


 僕は、口を塞ぐのを忘れてしまった。

 まさか記憶の売買に、誰もが知る巨大IT企業のgoggleが関わっているだなんて。なんとなくだけど、記憶は巨大なデータなのだし、事業に活かすつもりかもしれない……と思っていると、その通りの説明をされた。

 また、彼女は御冷みひえと名乗った。

 応接間で僕は御冷さんから、記憶を売るうえでの注意事項等を聞かされた。契約書にありがちな文言ばかりだったが、僕が覚えておくべきは、以下の一項目だけで十分だろう。


『記憶の価値は、現在の自分にどれだけ影響を与えているかで変動する』


「……こう言ってはなんですが、記憶って金融商品みたいですね」


 そうですよ、と御冷さんはあっけらかんと言ってのけ、


「ビッグデータ等を活かしたビジネスが盛んな昨今、情報=お金です。そして、私たち人間も莫大な生体情報を持っており、記憶もまた、その一つになります。ですから、情報=お金、お金=記憶、なんです。記憶は、積み立て式の金融商品ですよ」


 暴論だ、とは言えない。事実、こうして記憶の売却でリターンを得ようとしているのだから。


「中村様、どの期間の記憶を売却なさいますか?」


「――2020年7月から8月で」


「かしこまりました。では、お手元のヘッドギアを被ってください。記憶の読み込みを開始致します。また、できる範囲で結構ですので、なるべく当時を思い出しながらお待ちください」


 言われた通り、僕は思い返した。あの忌々しい2020年の夏を――


 1年前、当時の僕は就職活動に励む大学四年生だった。しかし、就活の戦績は酷く無惨だった。

 それはひとえに、2020年に起きたウイルスのパンデミックで、新卒採用枠が例年になく減らされたからだ。

 書類選考で何度も落ちると、精神が削られる。おまけに一週間で合否連絡をするという企業の一部は、落選メールに限って一ヶ月後に返事を寄越す。僕が不合格を知るのは大抵、就活掲示板で次の選考に進めた優秀な学生の書き込みを見るときで、悔しくて泣きたくなった。

 友だちが早々に内定を勝ち取り、卒業旅行の話で盛り上がる光景に僕は堪えられなかった。

 結局、僕は当初まったく希望してなかった企業に就職した。……全部、2020年夏に流行ったウイルスのせいだ!


「――さま? 中村様?」


 ハッと我に返ると、すぐ目の前に御冷さんのきれいな顔があった。


「……大丈夫ですか? 治験は万全ですが、お体の具合が優れないなら」

「いえ、ぜんぜん大丈夫です。……それで、査定結果は」

「はい、滞りなく。中村様、あなたの2020年7月から8月の査定価格は――」


 御冷さんはパソコン画面を一瞥し、直後、その細い眉が哀れむように八の字になった。


「査定価格は、500円です」

「……はいぃ?」


 Q. 5万ではなく? ――A. はい、500円です。


 そんな会話を繰り広げてしまうくらいには耳を疑ったが、まあ値段なんて二の次だ。

 ……使い道は考えていたのにな。

 

「ハァ……いいですよ、買い取ってくれて。なんだ、もうちょっとすると思ったのに」


 それだけ無価値な記憶なのだろう。悩んでいたのがバカみたいだ、早く忘れたい。

 が、どうしたことか、御冷さんはパソコン画面を睨んだまま動かない。


「僭越ながら、あなたはこの記憶を売るべきではないかと」

「それは、どういう……」

「売却した記憶は忘れます」

「はい」

「そして忘れるとは、その2ヶ月を生きた自分を殺すということです。……500円は、安すぎますよ」

「妥当な価格だと僕は考えてますが」


 御冷さんは鼻で一つ息を吐くと、ノートパソコンを閉じた。引き下がるつもりはないようだ。


「……中村様、その2ヶ月を消したいのは、就職活動で失敗した自分を忘れるためですね?」

「筒抜けですか……ええ、その通りですよ。あのパンデミックさえなかったらね、僕は希望する業界に行けて、今頃はもっと活躍できていたはずなんです。全部ウイルスが悪いんですよ……言ったところでどうにもなりませんが」


「本当に、

 

 なんだって?


「記憶の価値は、現在の自分にどれだけ影響を与えているかで変わります。もし、今の中村様があるのはウイルスのせいなら、2020年夏が、たかが500円であるはずがありません」

「……じゃあ、なんですか。僕が、今の僕がこんな状況なのは、自分のせいってことですか!」


 思わず立ち上がって睨む僕に、御冷さんも柳眉りゅうびを逆立て、厳しい眼差しを返した。


「あなたは、今の自分に満足できない言い訳として、過去を持ち出しているだけです」

「……世界有数の大手に入社できたあんたに何がわかる! どうせ僕みたいな奴を内心ではバカにしてるんだろ!?」


 御冷さんが辛そうな顔で首を横に振るのを見て、しまった、と後悔した。もう遅い。


「すみません、八つ当たりでした……完全に」

「私こそ差し出がましいことを……。でも、ゆっくり考えてみてもいい気がします……。私、もう見たくないんです、安易に記憶を捨てて虚しさで悲しむ人を……」


 御冷さんに説得され、僕は自分と見つめ合うことにし、帰宅した。

 僕は怠惰な人間で、これまでの人生で他人の決断に流されることはあっても、自分で何かを決めたことは少なかったように思う。思い出そうとしても出てこないのだから、そうなのだろう。

 実際、記憶を売るか悩むべきな僕は、スマホで動画を観ながら安い缶チューハイを呷ってゲップしていた。また決断から逃げて、楽しようとしている。

 就活だって、もっと早い段階から自分で決断して、悩んで、行動していれば、結果は違ったはずだ。パンデミックなんて、ちょうどいい怒りの矛先に過ぎなかった。

 ……本当に、御冷さんの言う通りじゃないか。

 僕に必要なのは、決断して行動することなのかもしれない。

 僕は缶を握りつぶすと、再生中の動画を止め、通販サイトにログインした。そこで買うか迷ったまま後回しにしていた参考書を、注文した。


「とりあえず行動しなきゃ、何も変えられない……そうだろう?」


    ☆


 1週間後、僕は再び御冷さんのもとを訪れた。


「……決意なさったのですね」

「はい。僕は、2020年夏を売ります」


 僕は自分の考えを打ち明けた。


「社会人大学院に行こうと思うんです」

「そうなんですね。でも、なんでまた」

「MBAを取得しようかなって。前から考えていて、結局何もしてませんでした……今の会社に長く居続けるかも決めかねていたし。でも、僕は決めましたよ。今いる環境で、行けるとこまで登ってやります」


 今はまだ、参考書で毎日勉強しながら、大学院の入学書類に目を通している段階だ。

 本当は、記憶が高く売れたら入学金に充てたかったのだが、まあ仕方ない。

 今できることをやろう、そう思った。


「……わかりました。では、念のため再び記憶の査定を致します」


 そうして前回と同じように査定を終えると、御冷さんはパソコン画面を見て黙りこんだ。どうせ安かったのだろう。

 御冷さんは、「現金を用意致しますので、しばらくお待ちください。……あっ、銀行口座は足跡が残るのでダメなんです」と、グレーなことを言い残して席を立つと、やがて戻ってきた。

 これで財布から500円玉を出して渡されたら笑ってしまうな。お小遣いかよ、と。

 ――しかし、違った。


 僕の前に置かれたのは、札束だったのだ。


「中村様、あなたの2020年7月から8月の査定価格は、50万円です」


 僕が瞬きを何度も繰り返すと、御冷さんは初めて笑顔を浮かべ、言ったのだった。


「過去を彩ることができるのは、今のあなたの行いだけなんです」


 僕は50万円を受け取って、色褪せたテナントビルから日差しの下に出た。

 もう2020年の夏に何があったのかは思い出せないが、50万円分、今の僕に影響を与えていたのだろう。

 空を見上げる。青空に積乱雲が浮かび、その上を一機の飛行機が、まるでどこまでも行こうとするかのように、一本の白い線を力強く描いていた。

 あの夏も、こんなきれいな青空だったのかもしれないな、と僕は空白に思いを馳せた。


 

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