第2話
ミカとつき合うようになり、しばらくして、私は実家を出、彼女のアパートで暮らし始めた。
思えば、生まれてからずっと、いつどこにいても母に見張られているような感覚があった。
ミカを知って、初めて母の目を忘れられた。
母は私に男が出来たと勘違いしている様子だった。
友達と同居したいので家を出たい、と言うと、母はあっさりとそれを了承した。
母は私に面と向って結婚を促すようなことを言う人ではなかったが、一度母が電話で話しているのを聞いたことがある。
「もう出来ちゃった婚でも何でもいいから、とにかく結婚してほしい」
元教育者で真面目一本の母の投げやりな口ぶりにとても驚いたのを覚えている。
家を出る朝、玄関で私を見送る母の姿が小さく寂しく見えた。
が、実家の扉が閉まった瞬間、母の姿は忘却の彼方へ……私はミカのもとへ走った。
私たちは毎晩裸で絡み合って眠った。
髪を絡ませ、恥骨をこすり合わせ、溶け合った。
私はこの夜のためだけに生きていた。
この夜のために仕事をし、食べ、生きた。
寝室の真ん中にシンプルなダブルベッドが一台……
つねに寝室は二人で掃除をし、塵一つ残さず磨きあげた。
私にとって完璧な生活だった。
本を読むミカ、料理をするミカ、化粧をするミカ、植物の世話をするミカ……何かに集中している彼女の邪魔をするのが私の趣味になった。
いきなり背後から抱きしめたり、膝にかじりついたりした。
可愛いミカ、私のミカ……
ある朝、ミカがベッドの中で冷たくなっていた。
微笑んだまま死んでいた。
どんなに抱きしめても抱きしめても熱は戻ってこない。
体の中心から甘さの代わりに冷気が滲みだしてくる。
私も死のうと決めた。
一番よく切れる包丁をキッチンから持ち出し、今は冷たくなったミカの愛らしい小さな唇にキスをしてから、左手首をざっくりと切った。
つねに寝室をきれいにしておいてよかったとつくづく思った。
血に染まったシーツを引き上げ、二人で包まった……
血でべたついた自分の腕の不快感で……いや、血ではなく汗の不快感で目を覚ました。
病室のベッドの脇で自分の腕に突っ伏して眠っていたのだった。
ベッドサイドに置いてある時計を見た。
深夜二時を過ぎていた。
汗ばみ痺れている自分の左腕を揉みながら、目をしばたたかせ、目の前の酸素吸入のマスクをつけた危篤状態の母にピントを合わせた。
母のまぶたが小さく縮んで引っついている。
母世代の女性にしては、母は背が高く、つねに姿勢よく堂々としていた。
自分の正しさに絶対的な自信を持っている、揺るがない人であった。
そんな母を私はうまく愛せたかどうか自信がない。
ここ二年は地獄だった。
他人の世話になるのを嫌う母、ひ弱なからだに強靭な意志だけ残した母に振りまわされ、排泄物の匂いの中、ひたすらのた打ちまわった。
今は静かに死にかけている。
酸素吸入器の単調な機械音が、再び意識を麻痺させる……
まだ、からだ中に甘い夢を惜しむような、やるせない感覚がくすぶっていた。
なぜあんな夢を見たのか……
何年も思い出したことなどなかった。
カーテンを引いていない正面の黒々とした夜の窓ガラスに、疲れた中年が映っている。
もはや性別不明……
ボサボサの白髪に手櫛を通す。
頬に当てた手がヤスリのようだったので、驚いて、手を見た。
白っぽく乾燥し、細かいちりめん皴が寄って、爪は伸び放題だ。
ここ数年で年齢以上に老けた気もする。
ミカと出会った時は三十六だった。
まだ、三十六だったのだ……
生き生きとした彼女と比べ、自分をものすごく老いた人間のように感じていた。
本当に花のような女の子だった。
今頃はきっと幸せな母親にでもなっていることだろう。
現実は夢のようではなかった。
あんなに食堂前で嫌がっていたはずの営業部の男の子との結婚のため、半年ほどで簡単に会社を辞めていった。
その後、私は、本社から子会社へと転籍し、事務のおばさんとして、いまだ会社に張りついている。
同期の女子社員などもちろん一人も残っていない。
ミカが退職する前、街で偶然彼女を見かけたことがある。
仕事が早くかたづいた金曜の夜、気分転換にレイトショーの映画を観に出かけた帰りだった。
通りがかったレストランから綺麗なカップルが出てきた。
女の子は彼の腕に腕を絡め、笑いながら弾むように歩いていた。
ミカだった。
相手は営業部のあの男の子だった。
花束のようなミカを腕にして誇らしげだった。
私はミカを助けなければと思った。
あの時のように……
あんなに嫌がっていたのだから……
しばらく後をつけた。
二人は小さなホテルへ入っていった。
助けなければ、と思い、しばらくホテルの前に立ち尽くしていた……
「起きてらっしゃったんですか」
看護士が病室に静かに入ってきた。
私は目元をあわててこすりながら、ええ……と答えた。
彼女は白くしなやかな手で点滴や酸素吸入のマスクの状態を確認した。
切れ長の黒目勝ちの目が魅力的な美しい人だ。
彼女を見るといつも心が華やぐ。
ずっと忘れていた感覚……
それであんな夢を見たのだろうか。
その彼女が思い出したように、ふと微笑んだ。
「お母様、三日前かな。私にこんなことおっしゃったんですよ。私の腕をつかんで、あの子と結婚してやって……って。私の大事な一人息子なんです……って」
絶句した。
「あんなに素敵な娘さんじゃないですかって言ったんですけど、何度も、大事な一人息子なんです……って」
私は声を上げて笑った。
「……ごめんなさいね。いつまでも私が独りだから心配なのね。それともどこかに隠し子でもいるのかしら」
看護士は私につき合って少し笑い、病室を出て行った。
母の顔を見た。
「お母さん、お母さん……」
二度ほど呼ぶと、涙が出た。
母のまぶたがビクビクと動いた。
母は、明け方に静かに息を引き取った。
窓から見える空も街も、まだ綺麗な青色に沈んでいた。
(了)
完璧な生活 森さわ @morisawa
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