完璧な生活
森さわ
第1話
部屋に帰ると、寝室のベッドでミカが眠っていた。
「ただいま」
目を覚まさない。
「ただいま、ミカ」
伏せられた長い睫毛が震え、口元が笑み堪えている。
薄茶色のやわらかく波打つ長い髪と、白いワンピースの裾がふわりとシーツの上に広がっている。
「あ、天使だ。こんなところに天使が眠っている」
彼女の上に影をつくり、両手で彼女の額や頬をそっと撫でる。
唇を近づけると、とうとう笑い出した。
「おかえり……」
花のような笑顔を見せ、温かい両腕を私の首に巻きつけた。
自分の心が躍るのは、同性の可愛らしい女の子に対してばかりだと気づいたのは遅く、三十を過ぎていた。
気づいたからといって、悩んだり苦しんだりしたわけでもなく、同性のパートナーを探すような積極的な行動に打って出た、わけでもなく……、とにかく何も変わりなかった。
父を幼い頃に亡くし、教師をしていた母に女手一つで育てられた。
一人娘である私は、このまま母と二人で暮らし、いずれは母を看取り、静かに一人で枯れていくのだと、それでいいと、それで満足だと考えていた。
今思えば、怠けていただけなのかもしれない。
自分の人生をつくる、ということに。
誰もが恋愛できるわけでも、しなければならないものでもないだろう、と高を括り、あきらめたふりをし、自分をどこまでも冷やしていった。
そしてミカと出会った。
私の所属する部署に、派遣会社から派遣され、ミカが入社してきたのだ。
派手な美人というのではなく、野薔薇のような愛らしさがあった。
手脚がすらりとしてたおやかで、いつも初々しく微笑んでいる。
ふんわりと明るい雰囲気があって人目を引き、人を振り返らせた。
部署の男どもはあきれる程わかりやすく、一様に高揚した。
が、ちやほやされて浮つくわけでもなく、ミカの仕事は私の業務のアシストであったため、いつも大人しく私のそばにいた。
まわりから煙たがられている私のそばに一日中いたのでは息も詰まるだろうと、昼休みは、若い子たちと、他部署の同じ派遣会社の子たちなんかと過ごしたら?……としつこく勧めたが、ハイ、と、微笑んでうなずきながらも私のそばから離れない。
可愛かった。
いつも目の端で彼女を追っていた。
ある昼休み、食事を終え二人で社食を出たところ、待ち伏せしていた営業部の男の子に、いきなり彼女が腕をつかまれそうになったことがあった。
彼女は驚いて小さく悲鳴を上げ、私の背後に隠れた。
「何、突然、びっくりするじゃない!」
私が声を張ると、彼は気不味そうな顔をしてすぐに退散した。
「……大丈夫?」
「すみません……。あの人、一度食事断ったらしつこくて」
「何かあったら言って!営業の同期にガツンと締めてもらうから」
彼女は、ハイ、と可笑しそうに笑窪を見せて笑った。
こういった出来事も、彼女に対する私の執着心を増長させていった。
自分がおかしい……と気づいたときにはもう遅く、彼女に対する気持ちのコントロールが効かなくなっていた。
彼女に仕事の指示を出していても、途中から彼女の雰囲気に酔わされ、話が支離滅裂になってしまう。
彼女が困っていてもわざと気づかないふりをしたり、他の社員と楽しそうに会話をした彼女をイライラと遠ざけたりもした。
これじゃ、まるで、好きな子に意地悪してしまう小学生男子じゃないか、と自嘲した。
私の不安定な気分に振りまわされて、途方にくれている彼女が可哀想で申し訳なくて、愛おしかった。
そんなくだらない理由で業務が滞り、週末につけがまわってきて、金曜に予想外の残業となってしまった。
何度帰っていいと言っても、彼女は残ると言い張った。
結局、彼女をつき合わせてしまい、仕事をしながら何度も彼女に謝った。
こんな私に彼女は、少しでも先輩のお役に立てたらうれしいです、と、どこまでも可愛いことを言い、美味しいコーヒーまで淹れてくれ、私は泣きそうになった。
仕事がかたづいたのは夜十一時をまわっていた。
私服に着替えるため、地下のロッカールームに二人で下りた。
社員と派遣ではロッカーの位置が離れている。
ため息をつきながら、ロッカーの鍵を開ける。
「先輩」
ミカの声が聞こえた。
ふりむくと、波立つ髪に華やかに縁取られた彼女の薔薇のような顔が、息がかかるほど近くにあった。
私は驚いて距離をとろうとからだを引くと、どういうわけか、彼女の唇と自分の唇がぶつかった。
「ご、ごめん!変なところがぶつかっちゃって……」
私は手で口を覆い、混乱しながらも冗談めかして言った。
すると彼女は私の手をつかんで下ろし、再度顔を近づけ、その唇を私の唇の上でやわらかく弾ませた。
「ぶつけたんじゃありません。先輩、これはキスです」
薔薇色の頬をして微笑んだ顔が何度も近づき、私の唇の上で、子どものように少し尖らせた唇を弾ませる。
熱を持った彼女のからだが私を押し、私は冷えたコンクリートの壁に背中をつけた。
私は呼吸も忘れて固まっていた。
「ふざけているの?……」
やっと絞り出した声は情けないほど震えていた。
「先輩の心臓、すごくドキドキしてる……」
彼女の手が私の胸に置かれていて、私はその手を乱暴につかんだ。
「ふざけてなんかいない。いいの、先輩、いいんです……」
彼女の薄く開いた唇の間から濡れて光る歯と舌先が見えた。
私は弾力のある彼女のからだをかき抱いた。
その夜、私は彼女の部屋に泊まった。
翼が大きく開いた。
これが自分の欲しかったもの!……
これが欲しかったのだ……
欲しかったものが、こんなに美しい姿形で目の前にあるのが信じられなかった。
泣きながら何度も彼女を抱きしめた。
彼女はからだ中どこもかしこも夢のように甘かった。
彼女はやさしく、忍耐強く、私のからだが自由に羽ばたくのを待ってくれた。
飲み会で遅くなったから後輩の家に泊まる、と母には電話を入れた。
「あら、めずらしいこと」
母は電話口で明るく言った。
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