私は三種類の復讐方法で迷っている

田原木

第1話

 2020年の夏、私は久しぶりに外出をした。

 久しぶりの理由は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出自粛――だけではなく、私がニートの引きこもりで、自宅から出られない期間が長かったからだ。

 いや。

 ニートの引きこもり「だった」からで、と言ってよいだろう。私は本日の外出をもって、運命を切り開くのだから。




 以前の私はごく普通の会社員だった。

 2019年の秋。軽度の潔癖性である私は、私の肩を叩こうとした同期入社の女性社員の手を、激しく振り払ってしまったのだ。

「すみません・・・・・・実は私、」

「うん、気にしないで」

 謝る私の言葉を遮り、彼女は私に払われ赤くなった手を摩りながらにこやかに言った。

 翌日から彼女は私を徹底的に無視した。業務連絡すらくれないのだ。

 更に、私に割り振られる仕事は過酷なものばかりになった。予想の範囲内だった。だって彼女の夫は、私の上司なのだから。

 2019年の冬、私は突然ベッドから起き上がれなくなった。過労及び精神的な病だった。仕事は、辞めた。




「外出自粛か。引きこもりの私には苦でもない」

 2020年の春、私は食卓で夕食を口に運びながら、テレビに映るニュース番組を見て自虐した。

「あなたは休養中なんだから、今はゆっくり休んで心身を整えなさい」

 母が自分の茶碗を持ち、食卓につきながら言った。

 想定外の返答にびくりとした。独り言のつもりだったが、母に聞かれてしまったようだ。

 私は無言で、小さくうなずく。

「そうそう、来週からお父さんもお母さんも、テレワークになったから」

 ずっと家にいるけど部屋で仕事してるからね、と母は続けた。

 なんだって!

-


 翌週、金曜日。

 これは。思っていた以上に。

「つらい日々だ」

 私はベッドに寝転んだまま小さく呟いた。

 私を害する者などいない自宅なのに、清潔で何を触っても大丈夫な自室なのに、酷く居心地が悪い。理由は明確。

 私以外の家族が、平日に、自宅にいて、仕事をしている。私は、仕事をしていない。

「罪悪感で死にそう」

 コロナ自粛の前から、私は平日の日中が嫌いだった。働くべき日に休んでいるという事実が、私が社会の歯車から零れ落ちた不良品であると突きつけてくるようで、辛かった。

『遅くまでお疲れ様ぁ。大変だね? もしかして、仕事するスピードが遅いからだったり?』

 深夜残業を繰り返す私をせせら笑った彼女の言葉は、未だ私の頭にこびりついて離れない。

 体が動かない。焦燥感だけが積もってゆく。

-


 ゴールデンウィークが過ぎて尚、両親はテレワークだった。心の重圧は増してゆく。汚れた港湾の海底に蓄積してゆくヘドロ層のように、腐臭を放ちながら私の心を埋め尽くす。

「彼女に、復讐をしたい」

 ぽろりと私の口から零れ落ちた言葉に驚愕した。だが、不思議なほど腑におちた。

 今度は、強い意志を持って言葉を発した。

「彼女に復讐をしよう」

 何故今まで気づかなかったのか。これが私の救われる道ではないか!

 どうする。殺すのか? 無理だろう。では社会的に死んでもらうか? どうやって?

 あまりの非現実さに、少しだけ挫けた。

 ・・・・・・現実的にも道徳的にも、私が社会復帰をして幸せになる事が、人間として一番の復讐なのではなかろうか。

 いや、しかし。

 その夜は様々な考えが巡り、一睡もできなかった。




 どのように復讐をするのか。決意が固まり、実行できる程に体調も回復したのは夏だった。

 うだるような暑さの2020年の夏。

 私は黒いリクルートスーツを着、帽子を深く被って髪を覆い隠し、伊達メガネを着用、白いマスクに手袋で身を固めて歩く。

 コロナの所為で潔癖症が悪化したのかもしれない。流石にやりすぎな気もしたが、今のご時世、これくらいは普通だろうと思うことにした。今のところ私に不審な目を向ける人もいない。

 汗が額を伝った。スーツは暑い。だが、これも過去と決別して再就職するためだ。久しぶりに持つリクルートバッグは重いが、書類ファイルを置いていく訳にはいかない。


 到着してから随分と長く待たされたように感じていたが、ついにこの時がきた。

 私は酷く緊張しながら、スーツ姿の女性について歩く。慎重に、二メートル以上距離をとった。注意するに越したことはない。

 ――懐かしい。同じシチュエーションだ。

 辞めてしまった会社に就職する際も、グループ面接があった。

 あの日、面接予定の就活生は全員大部屋で待機していた。私の名が呼ばれ、同時に呼ばれた人達と共に、誰ともなしに一列に並んで部屋を出た。

 私の前を歩く女性が、彼女だった。私が手を酷く払いのけてしまった――私を無視し、せせら笑った彼女だった。同期で入社した当初は「面接で一緒だったよね」と和気あいあいと声をかけてくれた彼女だった。


 そんなことを思い出している場合ではない。今現在に集中しなくては。

 私の前を歩いていた女性が、扉の前で止まった。私は、この女性を蹴落として先へ進まねばならない。のだが。


 だめだ、つい思い出してしまう。

 あの日の集団面接も、彼女が面接室の扉を開けたのだった。彼女は就活マナー通りに扉の前で止まり、ノックし、面接官の返事を待ってから「失礼します」と扉を開けた。私は内心、先頭でなくてよかった、と安心したことを覚えている。


 だから、そんなことを思い出している場合ではない!

 既に前の女性が扉を潜ろうとしていた。私は慌てて速足で距離を詰め、彼女に続いて扉を潜った。距離を詰めすぎただろうか? 一瞬後悔したが、直ぐに意識の外へと消えた。ついに本番である。

 動機は。自分を変えたいと思って。退職理由は。会社には療養の為と伝えましたが。違うよね。ええ、パワハラで。過労と精神衰弱で酷い有様。私情を挟むだなんて最低ですよ。今後の抱負は。全てリセットして、就職して真っ当に生きたいです! あぁ……うん、聞きたかった事があったけど、もういいや。

 終わった。私は扉を開けて飛び出した。

 喋り過ぎた気はするが、私は頑張った。

 結果が出るまでしばらく緊張の日々だろうが、現時点では十分な手ごたえがあった。心臓は未だにばくばくと大きく速く脈を打つ。だが、私はやり遂げたのだ。大きな一歩だ。

 

 がくがくと笑う膝を叱咤し、私は自宅へ帰り着いた。

 家の玄関先には、私が出発前に準備していたごみ袋。無論家に入ったら先ず手洗いシャワーを済ませるつもりだが、飛沫が付いているかもしれない手袋で自宅のドアノブに触れるのは嫌だ。

 頬に触れないよう慎重に耳紐に指をかけてマスクを外し、ゴミ袋へ。手袋も、伊達メガネも、帽子もゴミ袋へ。

 そして自宅へ入った。

 玄関先でリクルートスーツを脱ぎ、それも迷わずゴミ袋へ放り込んだ。飛沫が付着している可能性があるからだ。

 潔癖すぎるだろうか? いや、用心するに越したことはない。だって、手洗いうがいを徹底していたがコロナに感染した、というニュース記事を読んだことがある。飛沫は予想を越えて付着していると考えた方が良い。

 ゴミ袋の口をしっかりと縛った。明日は燃えるゴミの回収日だ。さっさと捨ててしまおう。


 洗面所へ直行。石鹸を泡立てる。手のひら、手の甲、指、爪と指の間、手首。何度も何度も洗った。

「ここまでする必要はない」

 頭では分かってる。分かっているのだが、手洗いを止められない。あの日、差し出された彼女の手が怖かった。本当に無意識だったのだが、汚れが恐ろしかった。ああ、今の私の手の方がよっぽど汚れているのだろう。

 ハンドソープを使い切って、ようやく手洗いを止めた。次はコップになみなみと注いだ水全てをうがいに費やした。


 そのまま風呂場へと入った。

 熱いシャワーを頭から被った。温水が髪を、肩を、背を伝って流れ落ちる。痛い程に熱い湯が私の汚れを洗い流し、心に安寧を与えてゆく。

 長い間、シャワーを浴びていた。

 ようやく息が整って、私は大きく安堵のため息をついた。

「あっさりと殺せてしまった」

 思い切って、彼女を殺す選択肢を選んで正解だった!




 飲み会の後に送り届けたことがあったから、彼女の自宅を知っていた。植木で玄関先が死角になる戸建てだった。

 リクルートスーツは、楽しかった新人時代の思い出だった。彼女に関する物を全て捨ててしまいたかった。怪しくないよう、凶器は書類ファイルに入れ、リクルートバッグで持ち歩いた。

 顔の特徴は可能な限り隠したし、髪や指紋も対策したから現場には残っていないと思う。

 血の飛沫が付いた可能性があるものは全てゴミ袋の中。

 

 彼女の家付近で待ち伏せし、一人で帰宅する彼女を確認して後をつけた。彼女が自宅の扉の前で、鍵を取り出すために止まった。扉を開けて家の中に入った瞬間、扉が閉まり切る前に、私は扉を力いっぱい開けた。

 扉を閉める体勢からよろけた彼女。即座に刺して扉を閉め、逃げられないよう鍵をかけた。息も切れ切れに、思いの丈を呟きながら、複数回刺した。当時の事を彼女がどう思っていたのが聞こうとした時には、彼女は既に事切れていた。

 私は凶器を玄関に捨てて、彼女の家から飛び出した。



「ニュース番組は欠かさず見なくては」

 私の犯行と暴かれるか緊張の日々だろうが、何はともあれ大きな一歩を踏み出せたと自負している。

 期待していた以上に心も晴れやかだ。

 明日は就職情報サイトを眺めながら、再就職に向けて履歴書を書こうではないか。再就職を考える度にパワハラのトラウマが蘇り、手付かずとなっていたのが嘘のようだ!

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私は三種類の復讐方法で迷っている 田原木 @taharaki

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