午前三時の小さな冒険ーー2020年夏における最小の冒険譚ーー

有部理生

午前三時の小さな冒険

02 : 30 よいりの田島たじまいつきも、流石さすが目蓋まぶたが重くなってきた。

今まで取り組んでいた作業を終わらせ、適当にあとを片付ける。

2020 年の夏も、近年にたがわぬ熱帯夜。眠ている間はクーラーエアコンを使わない主義のいつきは、家中の窓を開け放ち、網戸だけ閉めた。あまり涼しくはならないけれど、それでも夜風は優しく感じる。クーラーエアコンも照明も電源を落とす。そして耳栓を外耳に押し込み、タオル一枚だけ引っ掛けて床につく。耳栓でさえぎられてはいるが水音がする。布団の脇の衣装ケース、水槽アクアテラリウム代わりに使っているそこで、ペットのカシオペイア(クサガメ♂、7 歳)が暴れているのだ。人の気配がするたびに、外に出せとせがむかのごとくじたばた動くのはいつものこと。こちらが反応しなければそのうちしずまるだろうといつきは気にせず、水槽衣装ケースにそのまま背を向け眠りに落ちた。


02 : 40 カシオペイアは暴れている。

水槽衣装ケースの水の中で彼の身体からだは上下に浮いたり沈んだり。水かきのついた前肢まえあしは水面を巻き込んで上下し、ぱちゃぱちゃと激しい水音が立つ。後肢うしろあしは力いっぱい蹴られ、鋭い爪が床をかする。傍目はためには溺れそうにさえ見えるかもしれない。無論むろんそんなわけはなく、単なる興奮に基づく行為だ。カシオペイアは首を振り、時折ときおり口をかすかに開閉させる。前肢まえあしがプラスチックの壁に擦れ、キュッと音を立てた。


02 : 50 カシオペイアはまだ暴れている。

夕方貰った餌でエネルギー補給は十分。外温動物であるカメにとって、熱帯夜は倦厭けんえんすべきものではない。しかし流石さすがに 20 分近くじたばたし続けるだけも芸が無い。と小さな頭で考えたのかはわからないものの、先ほどから彼の出す音の種類が変わっている。ゴトン、ゴトン……と固いもの同士がぶつかるような音。もしもこの室内に暗視カメラがあったなら、首を目いっぱい伸ばし、水槽衣装ケースに置かれた陸地を足場に、水槽衣装ケースの壁を乗り越えようと奮闘するカシオペイアの姿が撮影されたはずだ。いつきは眠りが深まったのか、当然のように気づいていない。


03 : 00 ゴットン……と室内に大きな、しかし鈍い音が響く。

カシオペイアは脱出に成功した。

けれど、現在彼は背甲せなかを下にひっくり返った状態だ。このままでは身動きが取れないどころか、命すら危ぶまれる。

ただ、焦る必要もまた無い。比較的平べったい甲羅としっかりした四肢てあしを持つクサガメの類ヌマガメの仲間は、厚く丸い甲羅と重い体重を持つリクガメや、手が鰭になっているウミガメとは違う。自力で起き上がることが可能なのだ。

カシオペイアは外に落ちた瞬間、衝撃に備え手足と首を思いっきり引っ込めていた。床への落下の衝撃の余韻が完全に消えると、彼はまずはくびを目いっぱい伸ばす。そしてボタンホールのように鼻孔はなのあなが並んだ鼻先を床につける。そのまま力いっぱい頸くびらす。と同時に、手足も伸ばして勢い良くばたつかせる。その反動で身体からだ全体を揺すぶるのだ。何とか起き上がろうと奮闘するたびに、三本の稜線キールが目立つ甲羅と床がぶつかり、ゴロゴロと音がたつ。

結構な騒音が発生しているはずだが、いつきは一回寝返りを打っただけ。耳栓(樹脂製・高性能)の成果か目を覚ますことはない。

カシオペイアの揺れる体の勢いが増す。彼の片手片方の前肢が床につく。再びゴトン、と音がして、カシオペイアは無事起き上がった。彼は起き上がる瞬間衝撃で引っ込めたくびをまた伸ばし、目を一度パチリと閉じて開く。今までの運動で疲れたゆえか、カシオペイアは僅かに息を荒げた。そしてその場でじっとしている。その間は首を高くかかげ、周囲を見回すだけ。しかししばらくして、何かに気づいたように、鼻先をある方向に定めた。


03 : 05 カシオペイアはおもむろに歩き始める。

一つの方向目指し一心不乱に。その先には、暑さを避けるため開けはなたれたままな寝室の引き戸ドアがある。眠りこける飼い主いつきを横目に布団を踏み、意外なほどの速さで着実に進む。部屋にこもる熱に、最初は床に線を引いていた体表の水もすぐに蒸発する。引き戸の凸凹レールを超える頃には、彼は適度に乾いたはださらしていた。


03 : 10 カシオペイアは立ち止まる。

居間リビングにたどり着き、変化した景色に一息ついた。さてこれからどうしようかと、再び頭をもたげる。飼い主いつきは偶に外で遊ばせてくれるので、居間リビングの地理は既知のよく知っているもの。ゆえに、ささいな変化にはかなり敏感だ。……目的地が決まった。普段は開くことの無い扉が、わずかながら開いている。


03 : 15 カシオペイアは戸惑っている。

わずかな隙間すきまに強引に前肢うでを差し入れ、ぐぐっと押し広げて身を滑り込ませた未知の空間へや。そこには白い床と、同じく白い壁があった……。カシオペイア自身はが何であるのかはわからない。しかしもしヒトが外部から見たならば、白いマットと、ヒト一人が直立してやっと入れるくらいの、極小サイズな白いテントである、と言うだろう。好奇心と恐怖心をはかりにかけ、カシオペイアは好奇心に突き動かされて部屋の中にあゆみを進めた。


03 : 27 カシオペイアは戸惑っている。

周囲をひととおりうろつき、白い壁の中に入れるらしい隙間入り口は見つけた。いくつかの、床に置いてある凸凹ものも踏んだ。踏んでも特に何かが起こったようにはみえない。ほかにめぼしいものは何も無く、ふたたび彼は好奇心と恐怖心とをはかりにかける。やはり好奇心に突き動かされ、彼は入り口をくぐった。


03 : 29 カシオペイアは立ち止まった。

白い床。白い壁。頭の上も真っ白。良く見ると天井から何かが吊るされているようだが、高いところにあって到底とうていカシオペイアの届くものではない。首を高くかかげ、また下げ、ここをも既知知っている場所にすべくカシオペイアは床の中央へと歩む。


その瞬間、音と光がはじけた。


03 : 30 カシオペイアはびっくりしている。

何かのロゴ、カシオペイアには理解できない光の文様が白い壁に浮かんだかと思うと、周囲に影がおどる。あまりのことにカシオペイアは立ちすくむ。そして一瞬の虚脱きょだつの後、彼はめちゃくちゃに走り回った。狂乱するパニックにおちいったカシオペイアの後ろを、影たちは追従ついしょうする。


03 : 32 カシオペイアは落ち着いた。

影たちが自分に何もしてこないことがわかると、彼の歩みはだんだんと遅くなる。影たちは色鮮やかで現れたり消えたりもするが、ただそれだけだ。音楽も流れているが、そちらは彼ははなから相手にしていない。

そしてやがて立ち止まり、首をもたげた。彼が止まると、影たちも止まる。ただそこにじっとしているだけの影に、カシオペイアは興味を失う。もうこの場所が何であるのかも、彼なりに確かめた。好奇心が満たされたので、カシオペイアは外に出るため再び歩き始める。すると、影たちはまた彼を追って動き出した。止まる。影たちも止まる。動く。影たちも動く。彼は正確な因果関係を理解したわけではなかったが、影たちの動きはカシオペイアの好奇心を刺激するには十分だった。


03 : 43  カシオペイアは動き回っている。

床の上を縦横無尽。がさごそごそと適度にすべらかな床の上をい歩く。時おり止まり、止まった影に鼻先を近づける。そのままにおいを嗅ぐように頭を動かし、しばらくしてから飽きたようにそっぽを向く。そんなことを彼は何回か繰り返している。


03 : 44 カシオペイアはあくびをした。

床の中央にじっと止まり、頸を最大限伸ばす。頭の部分だけくっとくの字に曲げる。頭の平らな部分を床と平行にして、そのままカシオペイアはくわっと口を開いた。灰色のまぶたがせりあがり、白いくちばしを枠にして鮮やかなピンク色の口腔内くちのなかと舌がさらされる。ちなみに影のほうは別段この動きには反応していない。ぱっくりと開けた口はやにわに閉じられる。あくびをし終わったカシオペイアは、再びゆっくりと歩き出した。


03 : 51 カシオペイアは興奮している。

光と影にあおられて、彼自身の息もだんだんと荒くなる。鼻孔はなのあなからふひゅうと音が立つ。口角口のはしに泡がくっつく。首の振りは激しく細かくなる。上下動じょうげどうだけではなく、伸びたり引っ込んだりの前後動ぜんごどうも含まれるようになった。


03 : 56 カシオペイアは影を積極的に追い回している。

影がカシオペイアに合わせてうごくゆえ、なかなか動いている最中の彼は影をとらえられない。それがまた彼の興奮をあおる。互いの動きが連鎖して、まるで永久機関のよう。ぐるぐると走り続けては止まり、止まった影に頭を寄せては体を持ち上げ、後じさり、噛みつこうとしては失敗。手で払うような振る舞いも見せる。停止した影に飽きて動き出すとまた影が動き、そちらに彼は走り……


何のフラグが立ったのか、テントの中に連続した軽めの打撃音が発される。


04 : 00 カシオペイアは止まった。


カシオペイアは逃げ出した。


何が気に食わなかったのか彼は亀なのにまさ脱兎だっとごとくというのが相応ふさわしい勢いをつけて静止からまるで弾丸(あるいはゴ○ブリ)のようにすら見える加速で突然駆け出しほとんど突撃する勢いでどうにか白いテント空間からの出口をみつけて脱出しごとごとと音を立てきぃきぃきしきしと爪で戸板ドアを引っかきながらドアの隙間をようやっとくぐり抜け少し息切れしつつも居間リビングを気もそぞろに身体からだを持ち上げたまま走ってつっきり引き戸のレール凸凹腹甲おなかこすりながら越えそのままふわふわした布団の上をせ暖かな体温を示す飼い主いつきがその身体からだで形作る暗がりに鼻先をつっこみ何回か前肢まえあしで布団をくしいくしいといて穴を掘るような真似まねをした後とうとう爬虫類としてのあんまりもたない持久力が切れたらしくそのまま眠ってしまった。


明け方東の空が白むころ、いつきが目覚め、つめたいような生温いような、硬くて丸くてすべっこいカシオペイアの感触に気づいて吃驚仰天びっくりぎょうてんするのはまた別の話。


装置に残っていたこの夜のデータログからアイディアを得て、いつきがペットと遊べるVRを開発し、結構人気をはくしたというのもまた別の話余談である。影の功労者であるカシオペイアに、いつきは高級国産牛肉の赤味を与えてねぎらったそうな。

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午前三時の小さな冒険ーー2020年夏における最小の冒険譚ーー 有部理生 @peridot

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