1−2 塔子の狙い
「……ん、んっ?」
目を開けると、四角枠の形をした見慣れないシーリングライトが目に入ってきた。ネイビーのカーテン越し入る陽の光が、白い天井をみそら色に染めている。
ここしばらく味わったことのないほど、くっきりとした目覚めだった。おそらく通気性に優れた質の良い高反発マットレスに、身を預けていたためだろう。
バネの跳ね返りを確かめながらゆっくりと上体を起こし、昨晩に続き改めて周囲を見渡す。
白と青を基調に包まれた広さ7畳ほどのこの部屋には、北西を向くベランダに通じる掃き出し窓と、ダークブルーのシングルサイズのファブリックベッドと、白のデスクが置かれているだけだった。寝室というには妙にこざっぱりして、モデルルームというにはあまりに飾りっ気のない、そんな空間。
「…………あぁ」
あぁ、そうか、思い出してきた。
昨晩はあの後、また何守塔子の行くままに付いていき……。
途中で寝巻きや洗面用具一式を買い込むと、「荷物が多いから」とタクシーを拾って走ること5分足らずで、1年前から住んでいるというマンションに案内され。
で、流されるままに彼女がゲスト用と称するこの部屋で、一晩過ごすことになったのだが……。
2m丈のカーテンをおそるおそる開ける。
地上17階に位置するこの窓からの眺望は、やはり圧巻だった。昨夜も思わずベランダに身を出してしまったほどの夜景に感銘を受けたのだが、日中だと遠方のビル群のシルエットまで見渡せるため、さらに開放的に写る。部屋には時計が置いてないから現在時刻は分からないが、日の差し方からして 10時前後といったところだろうか。
雲がほとんどない快晴。今日も昨日にも勝るほど暑くなりそうだった。
「あら、おはよう」
ダイニングに顔を出すと、私服に身を包む塔子の挨拶で迎えられた。
テーブルに置いてあるノートPCの作業を中断し、爽やかな笑顔でこちらの様子を伺ってくる。
「……昨日はよく寝れた? 体調は大丈夫?」
「まあ」
「そう。それは良かった。そしたら、早速朝食にする? 昨日朝食はパン派って言ってたから、カルボトーストにするわね。綾瀬川くんチーズは食べられる?」
塔子の質問にコクンと首でうなづく。
「じゃあちょっと待っててね。……その間に、顔洗ってきたら?」
元々朝の寝起きは悪く、暫くは喋るのも億劫なほどだるくなってしまう体質なのだが、塔子には寝ぼけているように見えたようで。
この状態でいくら身体を動かそうが、冷水を浴びようがスッキリとすることはないと分かっているが、とりあえず塔子の指示に従って洗面所に向かう。
塔子が住む場所は、地上20階を超え、周囲から頭ひとつ抜けた高さを誇る高層マンションだった。竣工してから2年とたってない築浅なのだと塔子は言っていた。
中に入ると真っ先に目に飛び込んできたエントランスホールは、2階部まで吹き抜け、ミドルホテルを思わせる広さだった。コンシェルジュによるフロントサービスなるものを初めて目の当たりにした俺は、早々にすくんでしまい、塔子の後ろをおずおずとついていくしかなかった。
3基のエレベーターのうち、塔子が住む中階層以上は2基で運用されているらしく、さほど待つことなく玄関の前まで到着。そのままリビングに通された。
そこはダイニングを含めると15畳ほど広さがあり、しかも北東側を向く角部屋となっていた。右手には副都心の超高層ビル群、左手には東京を代表する2つのランドマークタワーと、映画のスクリーンのようなパノラマビューが一望できるようになっていた。
立地にも目を見張るものがある。最寄りの駅は、学校や企業オフィスが多く、平日から夜まで学生や通勤中のビジネスパーソンで賑わっている。徒歩5分圏内にスーパーやコンビニが点在しているため、買い物に不便はないだろう。また、マンションの真横を流れる川を挟んで徒歩10分のところにある隣駅に行けば、都営地下鉄2路線を含む4路線が乗り入れているため、おおよその主要エリアへ1本で行ける。
2LDKのこの部屋のグレードに加えて、生活や交通の利便性が高いロケーション。家賃にして30万を超えてても驚かない……。
まだ測り切れていないところはあるが、少なくとも俺を1年飼い慣らすことなど朝飯前といった様子に嘘はないようだ。
…………
リビングに戻ると、出来たてのカルボトーストが出迎えてくれていた。
「それで足りる? もう一個作ろっか?」
「いやこれで十分、朝はあんまり食べない方だから」
「そう。飲み物は何がいい? 今あるのは……牛乳と野菜ジュースと麦茶くらいしかないけど」
「……牛乳で」
「はいはい」
昨夜二人で◯家の牛丼を食べたときと同じ席につく。慣れない座り心地でどうにも落ち着かなかった。
「…………いただきます」
「どうぞ」
「…………」
半熟卵とチーズの風味が空きっ腹の機能を呼び起こし、カリカリ食感のベーコンとブラックペッパーの刺激がよだれを誘う。シンプルながらも深みのある味わいだった。
「…………」
「何だよ、そのにやけ面は」
「そんな顔してる? そうね……」
「昨日自殺しようとしてたわりには、ぐっすり眠ってたなぁって思って」
「んむっ…………」
「繊細とは程遠いなとは思ってたけど、思ったよりだいぶ図太い?」
ニコニコと笑いながら身もふたもないことをいう。
遠回しに「何でまだ生きてんのお前」と言われている気がするのは考え過ぎか……。
何か言い返そうとしたが、まだ頭が完全に覚めていないためか言い出すタイミングを失い、仕方なく牛乳と一緒に胃に流し込んでおく。
「もしかしたら、夜のうちに衝動的な行動に走るかもしれないからって、一応刃物関係はあらかじめ回収してたけど……」
「ぐふっ!?」
思いもよらぬカミングアウトに吹き出しそうになった。
「それでも、ベランダから飛び降りでもされたらどうしようもなかったんだけどね。でも、しばらくしたら眠ってくれたようで、安心したわ」
それは俺が床に着くまでの間様子を伺っていたことをバラすようなものであり。言い換えれば……。
「……もしかして、アンタ寝てないのか?」
「ま、ね。昨日帰ってからやる予定だった仕事も溜まってたし、ついでにね」
「家主だからって、聞き耳立ててんじゃねーぞ」
「それだけ心配してたってことなの。もうしないから、許して」
などと悪びれる様子もなく謝罪を述べる塔子。こいつの調子の良さにはすっかり慣れてしまったかんすらある。
「それでね、ごめんついでに一つ聞いてもいい?」
「なんだよ」
「昨晩は部屋に入ってからしばらくしたら鞄の中ひっくり返してたり、落ち着かなかったみたいだけど、あれは何だったの? 何か探してたりしてたの?」
「………………別に」
すっかり忘れてた。塔子の言葉で昨日自分が犯してしまった重大なミスを思い出してしまった。とたんに胃の中のものが逆流する感覚に襲われる。
「そう? でも明らかに焦ってるって感じだったから、てっきり大事なものを無くしたのかと」
「そうね、例えば……誰かに拾われたりしたら、厄介な物とか」
「っ!?、……アンタ、まさか……」
「もう、ホント感謝してよね。駅員さんが駆けつけた時に君の持ち物チェックしてたんだから。もし見つかってたら、その場で現行犯逮捕だったわよ」
昨晩は俺が血眼になって探していたのが、塔子の言う通り、使用はともかく、所持しているだけでお縄につく類のものであったわけで。
「どうせ撥ねられて死ぬのなら、どうでもいいと思ってた?」
「そりゃ自分の死後のことなんて興味ないからな」
「ほんと、危なっかしいなぁ、君は」
塔子は大きくため息をつく。けれど、怒りを見せる様子はない。
「わたし、最近の大学生の事情とか全然詳しくないんだけど、ああいうの、みんな当たり前のようにやってたりするの?」
「さあ、他人のことまでは知らん」
近くでハマっている奴がいたから、俺も入手することができたのは事実だが。
「…………」
「そんなに警戒しないでよ。安心して。別に綾瀬川君を警察に突き出したりするつもりなんてないわ」
「状況が状況だけに、私にも飛び火しそうで怖いもの」
確かに、塔子に罪の所在が及ぶことはないだろうが、仮に職場に知らせがいったりした場合、無関係と言えどかなりめんどくさい立場になってしまうは明白だ。
「あと、これをだしにして私のいうこと聞けなんて言うつもりもないからね」
「そっちは……いまいち信用できないな」
「とりあえずあれは私が預かっとくから。今後下手なことはしないように。分かった?」
「ちっ……」
塔子の諭す発言に舌打ちを返す。それをどう捉えるかは塔子次第。
「…………」
「ん?」
「ここ、寝癖ついてる」
「っ!?」
塔子は腕を伸ばして、俺の左側の側頭部をゆっくりと撫で付ける。むず痒い感覚をきらいさっと身を引く。
「ねぇ」
「何だよ……」
「髪、切ろっか?」
「…………はぁ?」
…………
……
「あら、すっきりしたらいい男前になったじゃない」
「…………」
「やっぱり綾瀬川君は前髪はあげたほうが似合うわね。生際後退が始まってない今のうちに経験しとくといいわ」
「…………」
「もうちょっと襟足丁寧に切ってくれればもっとスッキリして良かったのに。まあ、当日予約で入れるとこは、こんなものなのかしらね」
「…………」
「なに? 今更お金なんて気にしなくていいのに」
「なぁ……」
「ああ、そっちも心配しなくても大丈夫よ、この髪質は多分ハゲとは無縁だから」
「いいのかよ。今日、休みにしちまって」
正午を少し過ぎた頃。
塔子は午後給をとる旨の電話を一本入れた後、隣駅の通りに面した美容室に俺を連れていった。
彼女は、スマホを持っていない俺に分かるように、あらかじめ待ち合わせの喫茶店を指差すと、俺に万札を2枚握らせて、歩き出してしまった。
「今日は打ち合わせ入ってなかったからね。有給消化にうるさいからわりと融通きくの。……こういうときのために事務の人とは喧嘩しないでおくの」
「仕事しないで許されるって、アンタ窓際族ってやつか?」
「優秀な部下を束ねる優秀な課長代理なの。同期じゃあ私ともう一人くらいしかいないのよ」
「……ただの中間管理職じゃねーか」
髪型が一新された俺の仏頂面をひとしきり眺めた塔子は概ね満足したようで。
「ここに来るまで暑かったでしょう。喉乾いてない? 何か飲む? 」
「いらない。さっき散々飲んできたし」
嫌がらせかってくらい、濃いアイスコーヒー。せわしなく絡むわりに中身のない世間話を無視してただけなのに、終わる頃には営業スマイルが剥がれ落ちていた三十路すぎのチャラついた店員がサービスだから仕方ないと出してきたやつ。
まあ、塔子が勝手に指定したとはいえ、不相応だったと自覚はあるから文句言えないけど。
なんて、もう二度と行くことはないから、どうでもいいけど。
「そう、じゃあちょうどお昼時だし、次行くわよ」
「なんだよ、次って?」
「今日は上から攻めていくわよ」
塔子はそう言ってまた氷が溶けきるまで放置されていたアイスコーヒーのグラスにストローを刺した。
「…………」
訂正。
「概ね」が表す程度の解釈については、個人の差が大きく、多用を避ける方向にするべきところがあるようで……。
***
「夏野菜のバーニャフレッダ、本格オルトラーナピザ、冷製トマトとバジルのカッペリーニ、……綾瀬川君は?」
「あー、……じゃあ、アマトリチャーナ」
「トマトトソースが服に跳ねたら汚れが目立つでしょう。今日はアーリオオーリオにしときなさい」
「ペペロンチーノじゃねーか!」
「あと、食後にティラミスとミックスベリーのアイスケーキをお願いします。綾瀬川君は食後にコーヒー飲む?」
「……いらん、水でいい」
「そう、そしたら以上で」
オーダーを受けた女性店員は注文を繰り返し、最後に俺を見ながら確認しその場を後にした。
「アンタ、人の食いもんにまでケチつけやがって、一体何がしたいんだ?」
「だって、パスタとかお箸で啜って食べてるんでしょう? せっかく買ったお洋服が汚れちゃうのはねぇ」
「ちゃんとフォーク使うわ! 舐めやがって……」
麺だぞ。啜らないでどう喰えってんだよ。
「ハンカチ一つ持たない人が何言っても説得力ないわね。……手を洗った後自分の服で拭いたりしないでね。それなりにお値段したんだから」
「しねーよ」
その後もジャケット、インナー、パンツ、靴と一通り買いそろえることとなり。今度こそ塔子が満足したところで、やや遅めの昼食はイタリアン。
購入するたびにそのまま身につけていたため、家を出た頃に比べれば現状は多少見れる格好になっているとは思うが。
「にしても、買いすぎだろ」
「ほとんど洋服なんだから重くないでしょう? まだティーンズのくせに、だらしないわね」
いくつか店を回って、今身につけているものを含め、夏物を3セット分。ついでに秋物も先取りで1セット買いあさった結果、気づけばウェイトトレーニングかよってくらいぶら下げることになっていた。
好きなものを選べと豪語するわりには、水洗い不可がどうとか、色落ちがどうとか理由をつけて、結局袋の中身の半分以上は塔子がセレクトしたものとなっているのはこの際どうでもいいとして。
「途中でヤ◯トかどっかに寄って宅配してもらおうぜ」
「嫌よ。女の価値は連れの男に持たせるショッパーの数で決まるってどこかで聞いたことあるから」
「メンズブランド一色じゃなければな……」
最後に買った店の店員が袋を手渡す時の生暖かい視線と言ったら……。
気前のいい親戚のおばさんに進学祝いを買ってもらう新入生と思ってたに違いない。
「とりあえずこれで、一日中寝巻きの生活とかは無しの方向で」
「何度も言わなくても分かってるっての」
「でも綾瀬川君、一昨日まで引きこもりの生活してたんでしょう? 着る服がないから、なんてくだらない言い訳作ってるから、外に出るのが億劫になるのよ」
「ちゃんと外に出て、しっかり体力戻して行かないとね。不健康な生活続けてたら気持ちが沈むのも当然でしょ?」
「そんな先の細い生活続けてても、良い考えは浮かばないわよ」
塔子はそう言うと、来たばかりの野菜の盛り合わせに手をつけ始めた。
……要するに。
今日塔子が自分の時間と金を大量浪費したのは。
福利厚生関係含めた契約内容が未だに曖昧なままだから、相互の認識に多少の齟齬が生じているだけで。
あくまで俺の執筆活動を支援するためって認識で、良いんだよな。
相変わらず目の前の女については、少なくとも社労士とトレーダーの適性がないことと、コーヒーはアメリカンを愛飲してること以外は、分からない。
隣人愛性bias 近江葉 @ohmiyo
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