1−1 依頼(part3)

 「なぁ、もういいだろ。いい加減、それ返せよ」


 「…………それって、何かしら?」


 「その小説に決まってるだろ。他に何があるってんだよ」


 「あぁ……、これ、やっぱり小説だったんだ」


 今度は俺の方が痺れを切らしてしまい、自然と声に出してしまっていた。

 女はすっとぼけた様子で俺を一瞥すると、わざとらしく原稿を眺めた。


 「綾瀬川君が書いたの?」


 「だったら何だよ」


 「ふーん。これを、君が、……ねぇ」


 「信じようが信じまいが、この際どうでもいい。早く返せ、泥棒」


 「それは無理な相談ね」


 「何でだよ……」


 「だって、読んでる途中だもの。今は……倒れ込んだ女の子が主人公を受け入れようと、手を伸ばしたところよ。『いいよ、おいで』って」


 「っ!? …………読むの遅ぇんだよ」


 彼女は含み笑い向けながら自分が目にしているシーンを読み上げ、分かりやすく悦に浸る。

 それはようやく折り返しを過ぎたかどうかという地点だった。

 文字数にして8万にも満たないそれに、どれだけ時間かけるつもりだ……。


 「アンタ、仕事サボってこんなことしてて良いのかよ?」


 「今日は午後休とって、エステに行く予定だったのよ。ここに来る間キャンセルの電話してたでしょ。聞いてなかった?」


 「知るか」


 頭が動いてない状態で、しかも自分とまるで関係にないヒトゴトなど、当然記憶に残るわけもない。


 「せっかく、溜まった疲れを癒そうとしてたのにねぇ」


 「ふふっ、まさか、こんなことになるなんて」


 俺が書いた小説の中身を小馬鹿にしたものなのか、あるいは妄想を書き連ねる俺の存在そのものに対する嘲笑か。いずれにしても、苛立ちを最高潮へと誘う材料であることに変わりは無い。

 こうなった以上は、女を無視して速やかに離席すると言う選択肢は頭になかった。


 「これが最後だ。それを、返せ」


 「お断りするわ」


 「いい加減にしろっ!!」


 テーブルを拳で叩きつける打撃音と張り上げた声が、喧騒を静寂に変える。発生源、つまり俺たちの座る席に意識が集中してるのを全身で感じた。

 女はほんの一瞬だけ責めるような視線を向けてくるが、それを隠すように目を閉じ、一つため息をつく。


 「いい? よく聞いて。あなたは、生死の境を経験して、一種の興奮状態に陥っているの」


 「相手の言葉、一挙手一投足が気になって、どこからともなく感情が溢れては抜けていく。その繰り返しでどうにも落ち着かない。やり場のない怒りや不快感を扱いきれない」


 「その自覚は、ある?」


 「…………」


 「自分にもわからない鬱屈した気持ちから逃れようと、つい感情のまま動いちゃう気持ちは理解できないでもないわ」


 「でも、あんまり慣れない事するのは、かえって精神的に疲れちゃうから、おすすめしないわよ」


 「…………」


 「もう、いいかげん冷静になってみたら?」


 今度ばかりは完全なスルーではなく。こっちの感情を汲んだうえで、諭すように語りかけてくる。

 要は、最初からまともに俺に取りあうつもりなど無かったと白状したものだ。


 「ちっ……偉そうにしてんじゃねーよ」


 おっかなびっくりしたとこちらの様子を伺う店員に一瞥をくれたあと、テーブルの下に両手を置く。


 「もしここを追い出されるようなことになったら、別の店に行くから」


 「…………何で」


 「うん?」


 「そんなの読んでられるんだよ。本人目の前にして、ニヤニヤ笑いながら読みやがって」


 「わたし、そんなに笑ってた?」


 「性格最悪だな」


 「そう、……なら、すっかりハマってるのかもしれないわね」


 「…………」


 「…………これ、頼んどいて」


 「は?」


 メニューを広げ、その中の3段に積み上がるパンケーキを示す。


 「綾瀬川君も何か頼んでいいわよ。いい加減お腹すいてきたんじゃない?」


 「…………オイ」


 「わたし読むのに時間かけちゃうタイプなのよね。あんまり見ないような文体だと、なれるまで時間かかるし。これどこかの作家さんを意識してたりしてるの?」


 「……んくっ……読みにくくて悪かったな」


 それは単にお前の集中力が足らないだけだろ、の言葉を水と共に飲み込んだのは、悪文には違いないことを自覚していたからだったり。


 「それに、ドリンク一杯でいつまでも居座るのは悪いでしょ? ついでにさっき騒いだことも謝っておいてね」


 「あと……1時間半くらいだから」


 「…………」


 いよいよ言葉もなく、思わず天を仰いでしまう。

 分からない。

 この女が何をしたいのか。

 なぜ俺は未だに付き合っているのか……。

 そして。

 読み終わるまで本当にきっちり90分かけやがった。


***


 「ねえ、これ以外の作品は無いの?」


 「……カバン漁ったんなら知ってんだろ」


 「じゃあ、これが綾瀬川君にとっての、いわゆる処女作?」


 「……そんな大層なものじゃねーよ」


 「そう、……そうなんだ」


 「そしたら……、さっきも言った通り綾瀬川くんに依頼があってね。ぜひ次のお話も書いて欲しいんだけど」


 「…………」


 「ね、どうかしら?」


 結局。

 たっぷり4時間以上かけて全てのページに目を通し、たっぷりシロップのかかったパンケーキをあらかた胃の中に入れた後……。

 徐に、青を基調としたデザインであしらわれた、一枚の名刺を差し出してきた。

 何守塔子。

 顔をあわせてから四半日が経とうとする頃。およそ不遜の限りを尽くしてきた女の『名』を、ビジネスマナー一発免停もののタイミングにて、ビジネスライクな形で知ることとなったのだが……。


 「……なにもり?」


 「『いづもり』って読むの。こういうときはメールアドレスを見ると大体書いてあったりするのよ」


 「……別に、どっちでもいい」


 誰もが一度は名前を聞いたことがあるであろう人材業界大手の、課長補佐の役職に就く塔子という女は、まるで種を明かすかのように正体を見せる。

 それは長らく不明のままだった長ったらしいやりとりも、ついに解決の方向に向かう……。

 「つまりこれは……」


 「うん?」


 「オファーってやつなのか?」


 「えっ…………あぁ、なるほど。そういう……」


 俺の確信をついた問いかけは、まったく塔子の意図するところのものではなかったようで、声を抑えながら笑い出した。


 「あぁ、笑っちゃって、ごめんなさい。……申し訳ないけど、そういうのじゃないの。ウチは出版とは全く関係ないわ。変に期待させちゃったかしら」


 「別に、本気で言ったわけじゃない」

 

 あくまで小数点以下のごく僅かな可能性が並ぶ中で、唯一1%をほんの少し上回るのものを試しに挙げてみただけだ。


 「じゃあ、アンタの目的はなんだよ?」


 「単純に、私が個人的に読んでみたいだけだけど」


 「はぁ?」


 「どうせ暇してるんでしょ? なにせ死のうとしてたくらいなんだから」


 「……アンタあれだろ。バカなんだろ、なぁ」


 ようやくその人物像が見えてきたと思えば、すぐ理解に及ばないことを口に出し始める。


 「気に入った作家さんに次回作を所望することって、そんなに変?」


 「さ、作家……?」


 「違うの? 他に何か本業がある?」


 「俺はただの大学…………いや……」


 「アマチュアでも作家は作家でしょ? 文学部中退ってまさしくそれっぽいイメージあるけど」


 「天瀬とかのごく一部のレベルの高い大学で、在学中に何らかの賞に受賞するなりしてデビューしてるって条件を満たしてるなら、王道かもしれないけどな」


 実際のところはどうなのか知らないから、同じく想像の域を出ないが。


 「でも立政学院も、十分レベル高いと思うけど?」


 「……そういうアンタはどこ出身だよ?」


 「嶺城大、法学部」


 「……やっぱバカにしてんだろ」


 嶺城大といえば、いわゆる「天嶺」と呼ばれる、天瀬大に並ぶ全国私立トップ大学で。しかもわざわざ聞いてもいない学部まで答えやがる。


 「勝ち組であられる雲の上人様が、最終学歴高卒男の落書きを見せてみろ、だと?」


 「こういう綺麗で切ない恋愛小説が書けるかどうかに、学歴なんてほとんど関係ないと思うけど」


 「は? 恋愛小説だと?」


 「違うの?」


 「全然ちげーよ。どこをどう見たらそう思えるんだよ」


 恋愛小説とジュブナイルの区別もつかないのか……。


 「別に惚けなくてもいいじゃない。私はすごく気に入ったわ」


 「特に、ヒロインの子に初めて声をかけられて驚くところとか」


 「…………」


 「あとは、その子が自分の友人を後回しに会いにきてくれた理由を語る時とか。中々良いこと言ってたわね」


 「…………」


 「あ、あとは1年ぶりに教室で再会するシーンとか、主人公の緊張が臨場感たっぷり伝わってきてこっちまでドキドキしちゃった」


 「……あっ、そ」


 自分が気に入ったシーンを挙げながら楽しそうに振り返る塔子に何を言われるのか、嫌な予感がして身構えたが、杞憂に終わった。


 「よくありがちな職場とか家庭の悩みとかがトッピングされたドロドロな感じのお話も嫌いじゃないけど」


 「やっぱりわたしは、このお話みたいに、初々しくて、あったかいハッピーエンドで終わる恋愛の方が好きなんだなぁって、改めて感じたわ。……綾瀬川君もそうなの?」


 「さあ。それこそ、どうでもいいな」


 当然だが、物語なんてのは所詮は創作で。どのレベルまで仔細を現実に近づけたところで、作者の妄想であることに変わりはなく。

 舞台や背景、登場人物の来歴から行動原理、感情の動き方、話の展開とその結果や結末。そのどれもが、趣味趣向の領域を出ることはない。

 そういった受け手の感性ひとつで評価が分かれるような項目は、なんだかんだと論じたところで、優劣のつけようのない栓なきこと。


 「俺がその話を安易なハッピーエンドで終わらせたのは、単に大衆受けが良いだろう終わり方を選んだだけで、そのことに価値は当然、意味すらない」


 それを悪くいうつもりはないが、所詮は内輪のノリというやつで終わるような代物に過ぎない。

 結局、重要なのはそれらをどんな言葉を使って表現するのか、の一言に尽きる。語彙、修辞技法のレパートリーの豊富さと練達さ、フレーズに対する比類なきセンス、それを裏付ける成熟した感性。

 そこに価値が求められる。


 「で、読んだとおり、俺に言葉や表現のセンスは全くない。安易な題材に安易な展開と締め、安易に表現されたそれは、作品としての価値はゼロ」


 そういう世界なのだ。


 「そんなこと……」


 「もともと、どこの賞やらコンテストだかに応募することはもちろん、誰に見せるつもりもなかった。」


 「だから、そんな出来損ないの小説を気に入ったなんて言葉を鵜呑みにするわけがないし、次回作を作れなんて寝言を聞き入れるつもりもない」


「…………」


 依頼を断られた塔子は、少しだけ悲しい表情を見せる。


 「……じゃあ、綾瀬川くんはこれからどうするの?」


 「…………そんなの、知るかよ」


 「どこに住んでるの? 家賃とか生活費とかはどうするの?」


 「ここから歩きで15分のマンションに住んでたけど、もう解約したから住む場所がない」


 「解約って……家財一式はどこにやったの?」


 「売れるもんは売って、残りは業者に回収してもらった。スマホもちょうど更新月だったから、ついでに解約した」


 僅かに入ってきた金も、短期解約の違約金の支払いなど諸々の支出でいつのまにか消えていった。


 「…………」


 塔子は少し驚いたあと、口元を緩ます。


 「なんだよ」


 「迷惑千万な死に方を選ぶ割には、変なところで律儀ね」


 「うっせえ」


 例の飄々とした笑顔を向けてくる塔子を、何度も相手をするものかと一蹴する。


 「そしたら………………うちに来る?」


 「……はぁ!?」


 「だって、どこに帰るの? 今から実家には戻れないんでしょう? ご両親に助けを求めるよりも死ぬのを選ぶくらいには嫌なのよね」


 「ホテルに泊まるお金もないんじゃあ、野宿しかないわよ。……ほら見て。今夜、熱帯夜だって」


 差し出されたスマホの画面には、25度の目盛線の上を横ばいに伸び続ける気温グラフが表示されている。


 「それでも問題ないって言うなら無理強いするつもりないわ。死ぬほど過酷ってわけでもないしね」


 「…………」


 ほんとにこの女は、いつも予想の斜め上のことをしてくるし、やっぱり性格悪い……。


 「わたし、ここから3駅離れたところに住んでるんだけどね、ゲスト用の部屋が空いてるのよ。そこで構わなければ好きに使ってくれてもいいから」


 「おい……」


 「もちろん家賃とか取るつもりはないから。そこは安心して」


 「なぁ……」


 「とりあえずしばらくの間はうちで今後のことを考えたり、小説のアイデア出しをするなり気の赴くままに過ごしてみればいいんじゃない?」


 「だから……」


 「そしたらいずれどこかで仕事につながるチャンスがあるかも……」


 「聞けよ!」


 「はい、質問? 何かしら」


 塔子にはどこか自分勝手に話を進めるきらいがある。こうして無理やりにでも断ち切るほかない。もう、一人でに盛りあがられるのも、いい加減鬱陶しい。


 「…………アンタの部屋に行く云々ってのは、論外だからこの際置いとくとして」


 「今まさにその話してるんだけど……」


 「アンタなんか勘違いしてるみたいだから、はっきり言っとく。俺が『書かない』って言ってるのは、言葉通りの意味だ。『書けない』じゃない」


 「うん?」


 「そもそもの話、作家やら小説家やらになりたいなんて思ったことは、一度たりともない」


 「小説の出来がどうとか、自分のスキルや適性がどうとか、そんなことはまるで関係ない。むしろ、逆だ」


 「逆?」


 「そうだ。俺はなぁ、もう書きたいもんは全て書き切ったんだ。ここに」


 テーブルの真ん中に置かれる原稿を指差す。


 「そこに書いてある通りが、俺の執筆活動の全てで、もう十分満足してるんだよ」


 「だから、何を言われようとも、仮に金を積まれようと、次回なんてない」


 改めて依頼を断る旨をぴしゃりと言ってのける。が、それでも塔子に臆する様子はなく、いい加減しつこいなと言わんばかりに目を細める。


 「……それ、本気で言ってる?」


 「今さっき死のうとしてた奴が、今さっき会ったばかりのOLに嘘ついて何になる?」


 「へぇ、そう。これが完成、ねぇ……」


 つまらなそうに用紙を取り上げて、パラパラとめくる。


 「言っとくが、文章が稚拙だとか表現力に欠けてるとかレトリックがどうとか、言われても聞く耳持たないからな」


 「……もしかして、開き直ってる?」


 「うるせぇな、いいんだよ。これが俺の作品だ。俺が完成したって言ったら完成なんだよ。著名な作家先生の書評ならまだしも、素人のアンタの意見なんか……」


 「でもさぁ、……これ」


 俺の言葉を遮ると、目の前に原稿を突きつけてくる。


 「このお話のヒロインは……誰?」


 「…………」


 塔子の白く細い人差し指が差す場所には、すっぽりと空いている、空欄。

 それは段落文頭でも、疑問符や感嘆符の直後でもない。


 「御丁寧にわざわざその部分だけ空白にしちゃってる。しかも、きっちり三文字分」


 「…………」


 「全編通して虫食い状態なんだけど、これ、完成でいいの?」


 「……名前なんてそれこそ何だっていいだろ。表現力とか、ストーリー構成とかキャラクターデザイン以前の話だ」


 「なら、逆になんで入れてないの? 佐藤優花なり、鈴木さくらなり、適当な名前入れとけばいいじゃない」


 ………名前のセンスに時代を感じるのは気のせいか?


 「こんなの、むしろよほど何かこだわりがあるんじゃないのかって思っちゃうのは、わたしの考えすぎなのかしら?」


 「自分で答え言ってるじゃねーか」


 「候補がいくつかあって、どれにしようか決め兼ねてるのか」


 「あるいは、もう決まってるのだけど、『その名前』を使うことを躊躇してるのか」


 そう言って、俺の反応を見定めるような目線を送ってくる。


 「その名前って何だよ」


 「その名前って……何?」


 そこには、おいそれと逃すつもりはないという意思を感じる。

 けれど、それは、とんだ的外れ。


 「…………開けてることに意味なんてない。ただ、ヒロインの名前は流行り廃りがあるから、名前さえ入れれば一括で反映されるようにしてるだけだ。手間も拘りもかけようがない」


 「あらそうなの、便利でいいわね」


 とりあえず、これ以上妙な追求を受けるを避けるため、それっぽい理由を話してみたが。塔子は、それを信じたのかは不明だが、大人しく引き下がった。


 「……すっかり話が逸れちゃったけど……で、結局綾瀬川君はわたしの提案を受けるつもりはないの?」


 「ない」


 「これから、どうするの? もうお金は無いんでしょ?」


 「ない」


 「実家に帰る? その気があるなら、交通費なら出してあげても良いけど」


 「……ない」


 「じゃあ、……もう一度あそこに行く?」


 塔子は駅の方向を指差す。


 「今度は『不幸な事故』は起こらないと思う」


 「…………」


 それは、俺が首を縦に振ることはないと確信しながらの提案であることは明白で。だからこそ、ますます塔子の口車に乗るわけにはいかないわけで……。


 「これは……わたしの余計なお節介だって自覚はあるの」


 「偶然とはいえ、あなたの目的を邪魔をしたことは事実だから、そのお詫びはしたいなって思ってる」


 「そのことに綾瀬川君が引目を感じる事はないと思う」


 「それに、こう見えてもお金には困ってないから。1年くらいあなたの生活支えるなんて余裕できるわ」


 「1年って……」


 「例えばの話よ。でも、綾瀬川君にとってもこれからどうするか、落ち着いて考える時間があると良いと思わない?」


 「今日まで十二分に考えた末に、死ぬって決めたんだよ」


 「じゃあ、もう一度考えましょう」


 「あ…………」


 しかし、塔子の方は、そんな俺の抵抗をかわしては、次々と新しい提案を繰り出してくる。


 「もう一度、最初からやり直すの。本当にこれでいいのかって」


 「何でもいいの。大学を辞めてしまったとか、どうやって生計を立てこうかとか、のっぴきならない現状はとりあえず忘れちゃって」


 「ゼロベースで、自分がどうしたらいいか、何をしたいのか」


 「綾瀬川くんはどういう人で、これまでどう過ごしてきて、何が好きで、何になりたいのか」


 「制限時間も、ノルマも、気を揉むような相手もいない環境で、……じっくりと、ね」


 「…………」


 「施しを受けることをプライドが許さないのなら、その悔しさをバネにして一刻も早く経済的自立に向けて頑張ればいいと思う」


 「そしたらそのうち新作の良いアイデアがふっと湧いてくるかもよ」


 「……結局、そこに行き着くのかよ」


 「まあ、ね」


 そうやって、自分勝手に話を進めていく様は、どこか楽しげで。


 「何で、そこまでして俺の書く小説が見たいんだよ?」


 「だって、未来の本屋大賞作家先生の無名時代の作品を、一番に読めるって方が面白いじゃない?」


 「おい」


 「あとは、単純に興味があるの。本気で死を選んで、生きながらえた人間が、どんなお話を書くのか、純粋に気になった、かな」


 もはやどこまで本気なのか。塔子は明瞭さに欠ける期待が込められた眼差しを向けてくる。

 この女、ほんとに、いい性格してやがる。


 「……あ、もうこんな時間」


 夏は黄昏時でも夜の気配を感じさせることはないが、時刻すでに午後6時を過ぎており、ガラスを挟んだ通りには人だかりができていた。


 「とりあえず、今夜はうちに来なさい。あっ、途中でユ◯クロに寄って下着とパジャマ買わなきゃね」


 「夕食は……テイクアウトにしましょうか。食べたいもの考えといてね」


 「……はぁ」


 まさに今その存在を知らされた謎のタイムリミットを理由に、強引に話を締められたうえ、それについては一切言及を認めるつもりはないというかのごとくスケジュールを詰めていく塔子。


 「最後に、何か質問ある?」


 「……じゃあ、一つ」


 「どうぞ」


 「……アンタ何歳? ……っ痛ってぇっ!!」


 「……そ・れ・こ・そ、どうでもいいと思わない?」


 「お前、手ぇ出しやがったなぁ!?」


 何の躊躇いもなく、パンプスでスネを蹴りつけてきやがった。


 「その痛みもちゃんと生きてるって証拠よ。良かったわね」


 「無茶苦茶だ……」


 なんとなく感じていたのだが、塔子は無自覚に自分に不都合な意見を棄却するタイプのパワハラ人間に違いない。


 「じゃあ、そうと決まれば、行きましょう」


 口の中にパンケーキの最後のひとかけらを口の中に収め、温いコーヒーで流し込むと、すっと立ち上がる。


 「あ、もう一つ」


 「あ?」


 「どうして綾瀬川君に書いてもらいたいのかだけど。わたし、さっき読んだお話結構好きなの」


 「次回作は、結ばれた二人がどうなっていくのか知りたいわ」


 「それって……」


 「そう。続編のリクエスト」


 「……何だよそれ」


 「期待してるわね。綾瀬川先生……あっ、ペンネーム教えてくれるかしら?」


 「無いの知っててあえて言ってるんだよな? そうだよな?」


 当然ながら、言いたい事は山のようにあるのだが……。

 熱中症やら脱水症状やらで苦しみながら死ぬのは嫌だったため、伝票片手に軽い足取りで歩みを進める塔子の背中に、ただ黙してついていくほかなかった。

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