1−1 依頼(part2)
「なあに? こっち見つめて。わたしのことが気になる?」
「……別に」
「特段気を遣うわけでもなく、身の上話に耳を傾けて貰い涙するわけでもなく、かといって恩着せがましく命の尊さについて説くわけでもなく、何でこんなことしているのかって?」
「聞けよ……おい」
「よくあるとまでは言わないけど、珍しくないからね。自殺なんて」
あれからしばらく。
女は手元の小説を読むことに集中して、俺は元々一貫して、無言の時間を続けていたのだが。
時間を持て余していた俺の視線に気が詰まったのか、ようやく話しかけてきたかと思ってみれば、変わらずこっちの意思表示に対しては、完全なまでにスルーを決め込んでくる。
「例えば……綾瀬川くんは去年の日本の20代、いわゆる若者って呼ばれる人たちの自殺者数がどれくらいかって知ってる?」
「……」
「正解は、二千人以上よ」
答えを聞いた俺の反応を見ようとしたのか、ちらりと目線を配らせて、思っていたものと違ったのか、すぐさま紙面に落とす。
「ここ数年は景気の上向きが続いてるから少なくなってるんだけど、それでも毎日5人は命を落としてるって計算になるのよ」
もはやこっちのあからさまなシカトについては、望むところと言わんばかりに、ブレーキを踏む気配は微塵も感じられず。
「実はウチの会社でも去年出ちゃってね。……入社二年目だった女の子が、ね」
「別の部署の子だったんだけど、その子とは何回か会話もしたことあったわ。あなたと同じように、就職のために田舎から東京してきたの」
「すごく温厚で、物腰が柔らかくて、職場ではいつも笑顔だったって聞いてた」
「でも、顔には出していなかっただけで、多忙極まれる日々の中で精神的に追い詰められていたのかしらね」
原稿を読み上げるキャスターのように滑らかに、抑揚のレンジも限りなくスタティックで。
長いまつ毛の奥から覗く瞳は、一定のリズムで上下に動きつづける。
全く異なるアウトプットとインプットを同時にこなす器用さに目を見張るものがあるが、僅かに確認できる目の色からは、いまだに感情が見えてこない。
「ほんと、こういう話ってよくあるのよね」
何食わぬ顔で水滴に塗れたグラスを紙ナプキンで拭うと、氷が溶けて小さくなってしまい、すっかり薄くなってしまったアイスコーヒーに、初めて口をつける。
側から見て、この女が会社の後輩がいなくなったこと話しているとは誰も思わないだろう。その落ち着きぶりにうら寒さすら覚える。
「その子の事件を機に、管理職を中心に再発防止に向けた会議やら委員会やらが何度も開かれてね」
「おかげさまで、上からの指示でマニュアルが改定されるごとに部署全体で読み合わせをしたり、管理職に向けた研修を増やしたり、実情調査とか人材育成コンサルティングを外部に委託したりとか、色々対策とってたりするの」
「けどそういう新しい取り組みを始めるときって、想定してた以上に時間がとられるのよね」
「研修やらアンケート調査やらで、自分の仕事が進まないもんだから、思いの外負担がかかるのよね」
女は自重気味に笑いかけてくる……ように見えなくもない。
「まあ、私が思うに……」
「上の方は現場の預かり知らないところであれこれとやってるみたいだけど、ウチのような自浄作用が働かないようなところじゃ、そんなのほとんど意味がないって、思ってるんだけどね」
「結局、なんだかんだで人員補充は見送られるし、残業時間を減らせって強制してくる割には仕事量減らしてくれないんだから」
「外向けの体裁だけ取り繕ったところで、ますます仕事がやりにくくなるばかりで、結局自分の首を絞めてるだけなのに……」
「…………」
しばらくぶりに上体を起こし、体を伸ばしながら、参ったと言わんばかりに後ろ髪をすくう。ここに来てようやく自然に出てくるような感情を見せてきた。
「ああ、ごめんなさいね……。なんか、いつの間にか愚痴みたくなっちゃって。立場上、会社だとこんなこと言える相手も中々いないから、つい……ね。」
「もちろんこんな話聞き流してくれて構わないから」
「……言われなくても」
こっちのことなんか意にも介さずベラベラと話し続けていた女は、最後にとってつけたような謝罪を入れ、再び静かになる。
当然だが、女の話なんか全く頭に入れるつもりはない。こちとら、自分と関係ない世界のこと気にかけるほどのリソースを持ち合わせていない。
「見て。……外、出たくないわねぇ……」
うんざりとした表情の彼女にならい、視線をガラス越しの景色に流す。
平日のこの時間に外に出たのはずいぶん久しぶりだったためか、去年の今頃は毎日のように見ていたはずの風景も、窓枠の向こうに繋がる別世界のように感じた。
定時まで一時間以上あるにもかかわらず、駅前の通りは人が忙しなく行き交う。
待ち合わせをする人はみな庇の下に逃れ、冷感スプレーを吹きかけたり、携帯扇風機の風を浴びたりと、暑さ対策を講じている。
その中一人恰幅の良いサラリーマン風の中年男は、遠くから見ても分かるほどワイシャツに大量の汗を染み込ませ、絶え間なくハンカチで額を拭っている。その面持ちは、照りつける太陽とは裏腹に、どことなく冷めているように見える。
その一方で、店内後方のテーブル席からは、立成学院大の学生と思しき男女のグループが、夏休みの旅行計画について白熱した議論を繰り広げている様子が耳に入り込んでくる。
「当たり前のようにある人集りの中にも、誰にも知れず消えてしまう人って、やっぱりいるのよね」
目の前の横顔には、諦観の二文字がはっきりと浮かんでいた。
…………ダメだ。ここまできたら、もう捨て置くことはできない。
ついに、引き金は引かれた。
「だったら、……何で俺を助けたんだよ……」
「えっ……?」
彼女は目を丸くして驚く。
「何も変わらないって言うなら、俺のことなんか放っておけば良かっただろ」
「アンタの言う通りだ、生きながらえたところで、どうなるってん言うんだよ」
「綾瀬川……君?」
「これでようやく終わりだって時に、余計なことしやがって……」
「さっきから、この時間はなんなんだよ! あれか? とりあえず俺に適当に話しかけてれば、どうにかなるでも思ってるのか?」
「誰だか知らないけどな、たった一回止めただけで、自分なら相談にのれば救えるかもしれない、なんて思いあがりも甚だしいぞ」
「俺を、軽く見るなよ……!」
「っ…………」
普通に考えれば、命の恩人と言える相手に対する態度とは違うのだろう。
けれど俺にとっては、死ぬと決めた自分の意思を、女の気まぐれで蔑ろにされたとしか思えず、怒り心頭に達した。
つまりこれは、目の前を跋扈する偽善に対する、正当な批判。
「えっと、…………確認なんだけど、いい?」
「……なんだよ」
「もしかして、綾瀬川君はわたしに『助けられた』って思ってるの?」
「はぁ?」
だが、彼女の反応は、想像の域を超えたところにあったもので。
「だとしたらそれは綾瀬川くんの勘違い、かな」
「……は?」
「わたしは、君の手を引いただけよ」
「それをどうして、助けられたって思うのかしら?」
それ故に、彼女が意図するところが全く読めず。
「わたしはあなたの手を引いただけ。それに対して君は、ただ足を止めただけ。そして結果として君は線路上に身を乗り出さずに済んだ」
「それだけよ」
「っ……!?」
「なのに、綾瀬川くんはどうして『助けられた』って、言い切れるのかしら。
「……な、んなんだよ……それ」
勘違いしているなどど言い出すから何かと思えば、その口から出てくるのは、幼稚で、くだらない屁理屈。
「だったら、なんで俺の腕を掴んだんだよ!」
「それは……」
「当然、手を出すに値する別の理由があったんだろ?」
「…………」
「じゃないと、アンタの行動の筋が通らないだろうが」
「…………分からない」
「は?」
「でも、声が、聞こえたの」
「……声?」
あの時俺は周囲の音を気にするほどの余裕はなかった。だが少なくとも自分は一言も言葉を発した記憶がない。
「その声を意識した瞬間、ふと君の姿が視界に入って、気付いたら手を伸ばしてた」
「気付いたら、君の腕を掴んでた」
「何だよ、その声って」
「分からないの。ほんの一瞬のことだったから、誰が言ったのかとか、どんな言葉だったかも覚えてないし」
「ここに来てからもね、あの時自分の身に何が起こったのか、どうしてあんなことをしたのかってずーっと考えてたけど、……今も理解できてない」
それらの言葉は、あまりに捉え所のないものであるが、妄言と切り捨てるのは性急だと語るような雰囲気を帯びていた。
断片的に残っている当時記憶から映し出されるのは、彼女の驚きに染まる表情。
それは、今の彼女から語られる証言とピタリと一致するようにも思える。
「一つ確かに言えることは、君の自殺止めなきゃ、ってはっきりと意識してたわけじゃないってことだけ」
女は、事実に対して、自らの真実を突きつけてくる。
「だから、今回のことは……お互いにとって、ある意味で事故みたいなものになるのかしら」
俺が自殺未遂で終わってしまったことこそが事故だと、彼女は淡々と結論を出す。
「もし今ここにいることが、綾瀬川君にとって望まないことだとして、それが私のせいだというのなら……」
「……謝るつもりはないけど、少しだけ、同情するわ」
「…………」
ああ、女の、言う通りだ。疑うべくもない。
こんな冗談みたいなことを、冗談で言うなんてあり得ない。そんな狂人じみたことをしたところで、一体誰が得をすると言うのだろうか。
なにより、彼女の憐憫の色に満ちた瞳が、狂気とは無縁の場所にいることを雄弁に物語っている。
つまり、彼女によって繋がった俺の命は、誰一人の意思も介在することのない反射の連続によって生じた偶然の産物だったにもかかわらず。
「ちっ、クソ……」
そこに『救い』という、最もらしい因果関係を見出し、ひとり運命の悪戯に嘆いている俺の姿は。
「ふざけんな……」
この上なく、滑稽で。
誰に向けたわけでもない悪態は、喧騒によって虚しくかすれ消えていく。
一転して行き場を失った怨嗟の念に、全身の力を持っていかれてしまい、ついにはうなだれるほかない。
ガツンと衝撃を受けた頭の中は、あの時素直に死んでいればこんな思いをしなくて済んだのにと、過ぎたIFのことばかり駆け巡る。
けれど、今一度ホームの縁に、この身を放とうとする気力は、残っていなかった。
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