屋上の釣人

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屋上の釣人

 『あ』っと思った瞬間。

 両手はぐっとブレーキを握りしめていた。




 この街には、市街地のはずれに山を背にした、小高い丘がある。

 そしてその上にはどっしりと一つ、荒れ果てた廃墟が立っていた。


 丘向こうの祖母宅への使いの帰り道。

 夏の日差しから逃れるように、少女は木の生い茂った古い林道を自転車でこいでいた。

 坂になった林道を重力に任せて下れば、湿った夏風が熱を下げて肌を撫でていく。

 ひらひらの薄いレーヨンの服をなびかせる心地よさに目を細めて、ふと視線を遠くに向けた時だった。


 ちかっ


 不意に、小さな瞬光が左目に突き刺さった。

 痛みすらないその微かな光に、自然視線が誘われる。

 すると戦ぐ前髪の向こう。

 ストロボ装置のようにしゅんしゅんと過っていく木の間から見たのは、この街でも有名な廃墟の姿。

 昔、それなりに田舎であるこの街にできた、とある企業の保養施設。

 四階建ての元々白い廃屋の外壁は、長い年月放置されたために、くすんだ灰色に寂れていくようだった。


 その屋上。

 錆びた金属の柵の中に、天から何かが降り落ちてくる。


 あれはなんだろう。

 ちかり、ちかり。

 夏の日差しに照り返り、小さな何かが抜けるような青空から落ちてくる。


 いつの間にかブレーキをかけていた自転車にまたがったまま、少女はその不思議な光景を見つめ続けた。

 光を反射するものは、じっと見つめていないと気が付かないほどの間隔をあけて降り続ける。

 ふわっと、何かが湧き上がってくるような気がした。

 確かめたい。

 あれが何なのか確かめてみたい。

 少女は暑さを急き立てるようなときめきに突き動かされ、自転車を力強く漕ぎ出した。

 目指すはあの廃墟の天辺。

 木立を抜けて、少女は光あふれる丘への道を登って行った。



***



 きいと金属の音を立てて、少女の自転車は止まる。

 丘の坂道の先では、道のアスファルトが褪せて雑草にまみれて少女を迎えた。

 少女は自転車を廃墟の壁に寄せてロックをかける。

 そのまま入り口を求めて、薄汚れた壁伝いに歩いた。

 廃墟の外壁も、ずっと続く埃っぽい窓の向こうも、スプレーで描いたらしき心無い落書きであふれている。

 アルミサッシの窓も所々うち破られ、きらきらと足元に破片をまき散らしていた。

 きっと町の住人の誰かがやったのだろう。

 その光景をしげしげ見ながら歩いていくと、建物の正面玄関らしき扉にたどり着いた。

 しかし、そこからは入れそうにないのが一目で察せられる。

 なぜなら扉の取っ手には幾重にも鎖が巻かれ、堅牢そうな錠前がかけられているのだ。

 これは仕方ない。

 少女は扉を諦めると、そのまま廃墟の裏に回った。

 内部の壁に落書きがあるのなら、どこかに入れるところがあるはずだ。

 そう見当をつけていると、どんぴしゃり。

 裏口らしき扉の脇の窓ガラスが、人が通れるくらいに綺麗に割られている。

 これが入り口か。

 少女は一つ唾を飲むと、ガラスの粉が散乱するそこに慎重に足をかけた。

 そして身軽な動作で屋内に入り込み、きょろきょろ見回して辺りを確認する。

 建物の内部は、窓がある割に裏の森の木に光がさえぎられるせいで、昼なのに薄暗かった。

 それでも、心許ないということはない。

 少女はぱりぱり音を立てるガラスを踏みしめると、目指す屋上へ上がる階段を探し始めた。

 階段は、案外すぐに見つかった。

 学校のようなリノリウムの踊り場があるそれを、手摺てすりの間から少女は見上げる。

 光が漏れている気がする。

 だとすればきっと、屋上へ開けた窓やら扉やらがあるはずだ。

 よし。

 少女はドキドキと鼓動を打つ胸の音に追い立てられるように、階段を登り始めた。


 四階分の段差を、ゆっくり、でもだんだんと速足に駆け上がると、とうとう、


 最後の踊り場に、すりガラスのはめ込まれた錆びついた扉があった。



 この向こうだ。

 はやる気持ちをおさえつけながら、少女はくすんだドアノブに手を伸ばす。

 ぎぎぎ、ぎ、ぎ……

 つっかかるノブをゆっくりとまわし、止めが外れた感覚を感じ取る。

 開いた。

 カギは掛かっていなかった。

 ついにあの光の正体を確かめられる。

 高揚する気持ちのまま、少女はえいと扉を押し開いた。



 そして目に飛び込んできたモノに、ことりと首を傾げる。



 それは、確かに開けた屋上だった。

 でも、その床一面に、



 いや、正確には少女だって分かっていた。

 本物の空があるんじゃない。

 大きな水たまりに、

 水たまりは、屋上の柵のギリギリまで伸び広がり、波一つなく鏡面のように空を映しこんでいた。

 風が、さあと吹く。

 水面がさざ波を立て、涼やかさを風に吹き込んで少女へと送ってきた。


「子猫のようにするりと入り込んできたものだね」


 不意にかけられた声に、少女はどきっと肩を跳ねさせた。

 そして辺りをきょろきょろ見回す。


「ふふ、こっちだよ、こっちだ」


 声は少女を上から呼んでいた。

 上?

 きょとりと瞬いて扉の上にある庇を見上げれば、


「回り込んだら登ってこられる。 さぁ、おいで」


 声はくすくす笑って、少女を誘った。

 回り込む。

 指示に従って水たまりを避けつつ、扉から続く壁を辿れば、――――あった。

 扉のはまっている建屋の上に、さらに続く梯子。

 錆びついて握るのも躊躇われるようなそれを、少女は逡巡した後にギュッと掴んだ。

 掌に、禿げた塗装のパリパリとした感触が伝う。

 そのまま一気に登り上がると、


「いらっしゃい、よく来たね」


 その少年は緩やかな笑みで少女を迎えた。


 随分と落ち着いた雰囲気の少年だった。

 バサバサと長い髪は背中くらいまであり、色の薄いその毛髪は日の光にきらきらきらめいている。

 着ているのは何やら古風な民族衣装のようで、和服をもっとゆったりとしたものに似ていた。

 猫のようにすっと切れ長の目が、ほっそり笑い、少女を手招く。


「ほら、ここに座るといい」


 少年は少女を誘うと、建屋の端に座った体をくるっと回して屋上への顔を向けた。

 少女は唐突に現れた少年に驚き半分、でもその穏やかさに警戒が薄れ、好奇心半分で近づいた。

 そのまま、誘いにのるように少年の真似をして建屋の端に腰を下ろす。

 二人並んで座れば、少年が何をしているのか一目で分かった。


「釣りをしているんだよ」


 くつくつと、少年は手に持った竿を見せて笑う。

 竿は竹づくりの簡素なもので、少年の体の向こうには、籐で編み込まれた魚籠びくがあった。

 どうしてこんなところで釣りを?

 疑問が浮き上がった時だ。


「あれを、見つけてきたんだろう?」


 不意に少年が空を指さす。

 あれ?

 あれって、なんだろう。

 その答えを知りたくて、少年の指先に視線を飛ばせば、


 ちかり


 あの光が瞬いた。


 それは、近くで見れば、正体がすぐに分った。

 落ちてくるのは、それは、



 



「あれはね、仙界から流れてきたという桃だよ。 ――――見ていてごらん」


 少年がゆったりと呟いた瞬間だ。

 ゆらゆらと水に揺れる桃が、


 くるっと翻る。


 あっと思ったときには、それはもう終わっていた。

 桃が。

 水の中の桃が、美しい鯛の姿に形を変えたのだ。

 鯛は水の玉の中で一回転すると、水の玉が屋上の水面に辿りついたと同時に、その水面に飛び込んでいった。

 呆気にとられて、少女はまじまじと水面を見つめる。

 だって、だって。

 こんなのおかしい。

 ここは屋上で、あの水たまりはすぐそこに床があってとても浅いはずなのに。

 桃が天から降ってくるなんて。

 それが魚に変わるなんて、そんなの、



「不思議かい?」



 声をかけられ、じりじりと首を回す。

 横を見れば、少年が優しい笑顔でこちらを見つめていた。


「あれはね、天人だけが口にできる桃だから、地上に落ちてくると姿を変えて地上に溶け込んでしまうんだよ」


 仙花桃は、天界でしか形を成せない。

 天人にしか口にすることは許されない。

 けれど時たま。

 仙女たちが取り損ねた桃が、地上に降ってくることがある。

 そうすると桃は雲の合間で水の膜に守られ、タプタプとしたゆりかごに揺られながら天から降り、地上に届く前に魚に姿を変えて水辺に潜り込むのだという。


「とは言っても、落ちてくるそこがいつも水辺とは限らない。 多くは海へと落ちるのだが、時たま陸の上で桃が落ちると、こうして水溜まりのような池ができるのさ」


 謡うように説く少年の声に耳を傾けつつ、少女は呆然と屋上の水面を見つめ続けた。

 そして少年の釣り竿の糸が水面に消えているあたりを、じいと見つめる。

 緩い曲線を描いてのびる糸は、水溜りの奥に消えている。

 それは、そこに確かに深みがあるという証明だった。

 よくよく考えれば、屋上のタイルの模様だって浮かんではいない。

 確かに、この水溜りは深く水を湛えているらしい。


「おや、かかったね」


 少年がのんびりと竿を引く。

 すると鏡面のような水面を突き破って、一匹の美しい魚が飛び出してきた。

 魚は少女の頭の上を舞い、背後の床にぴちぴちと飛び跳ねる。

 少年はそれをそっと掴んで魚籠に放り込むと、


「魚籠も満ったことだし、これで今日は終いにしよう。 君ももうお帰り」


 大人びた様子で、ゆったりと笑った。



 仙花桃の池は長くそこに留まることはない。

 天界の園がある雲が過ぎれば、いずれ干上がって消えてしまう。

 魚たちも、水と共にまた天へと還るのだそうだ。


 今日のことは他言無用だよ、小娘シャオジェ(お嬢さん)とにっこり笑った少年は、いつの間にか消えていた。


 風が吹く。

 湿気を孕んだ夏の風。

 それに誘われてもう一度少女は屋上の池を見る。

 目の前には、静かな水の鏡面が残るばかり。

 不思議な風情を纏って、空を照り返すばかりだった。



 そして、その日の家路を、少女は自転車で走る。

 だんだんと近づく街にたどり着くころには、その不思議な景色を、少女はすっかりと忘れてしまっていたのだった。



***




「お戻りですか」


 ゆったりとした大陸風の衣装を纏った男が、少年に声をかける。

 少年は大漁の魚籠を振って、にこりと微笑んだ。


「今日は可愛らしい娘さんと出会ってね。 魚もよく釣れたし、いい日和だったよ」


「あまり下界に降りられますな。 私が陛下に叱られます」


「それは気の毒だが、そう言って私から竿を取り上げんでくれよ」


「水場なら、天界にもいい場所はあるでしょうに」


「下界の水場がいいのさ、私には」


「懐かしいと?」




「そりゃあ、私は下の生まれだからね」



 天帝殿のご機嫌取りなら任せるよ。

 そう笑って立ち去る少年に、男は小さく嘆息すると首を振った。



「まったく、貴方の釣り好きはどうしようもない。



 ――――――太公望殿」

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