#4

「そういえば、あなたのご両親の話を聞いたことがありません」


 その夜、スミレはこう言ってきた。

 半分くらい虚ろになっていたボクの頭の中は、彼女の疑問でようやく動き始めた。


 必死に涙を流さぬように、流してもそうだとは気づかせないように、ボクは言葉を捜して質問に答える。


「聞いてどうするのさ」


「ただ、わたしはあなたの口から、ご両親の話を聞いたことがなかったので。ほんの少しだけ、疑問に思ったのです」


「ボクの母さんは、ボクが小学四年生のころに事故で死んじゃったんだ。だから、今はお父さんと二人きり」


「あ……。すみません……」


「気にしなくていいよ。別に思い出すのが嫌で、話してないわけじゃないんだ。ただ、なんとなく、母さんとはあんまり良い別れ方をしてなかったから」


「――それは、どういうことですか? あぁ……、いえ……。別に答えなくても、その……」


 スミレの声は、少しだけうろたえていた。


 きっと今の彼女は、本当に心の底から困っているのだろう。

 ボクにこんなことを言われて。


 彼女にもボクの表情を見る目があれば、良かっただろうに。


「犬を。犬を飼ってたんだ、昔。そう、あれは小学三年生の話だ」


「それはもしかして、以前霧絵に言っていた狆という日本犬のことですか?」


「そう。名前はアイリス。

 マルチーズだと勘違いしてたからね。幼いながらに辞書を引いて調べたのさ。

 近所のおばさんが、生まれたからってくれた子犬でね。

 最初は本当に小さくて、小さくて、すごくモフモフしてて、かわいかった。

 母さんにねだってねだって、ねだりこんで、飼っていいよって言われたときは、それこそ飛び跳ねるくらい嬉しかったのを今でも覚えているよ」


 あのぬくもり、あの泣き声、彼女とともに吸った空気。

 ボクは今でも、克明に思い出すことが出来る。


「そう、そしてね、一年が過ぎたある日だ。確か夏休みももう終わりって時だったな。

 アイリスをくれたおばさんが、犬と一緒に散歩していたボクに言ったのさ。

 『もう大丈夫かい?』ボクは最初、何のことか分からなかった」


 脳裏に映し出される映像は、夜の家のリビングのソファに座る母親の小さな背中だ。

 間接照明に照らされたその背に、ボクは。


「二週間前に、もうアイリスは死んでいたんだ。

 ボクが学校に行ってる間、母さんが散歩に連れて行ってる最中に、車にはねられて。

 ボクは、二週間もの間アイリスだと思い込んで、別の犬の世話をしていたんだ」


 ――その背に、ボクは途方もない怒りを覚えたのだ。


 其れはもはや、裏切りや絶望は、そんな感情ではなく。

 ただただ、心の暴力とも言える何かが、ボクの小さな胸をずたずたに引き裂いていったのだ。


「完全に母さんのミスだったんだ。おばさんの話や、ほかにも事故を見たって人にも話を聞いた。

 それで分かったことは、母さんは目撃した人たちに他言しないようにお願いをしていた、ってことさ。

 酷い話だろう? 聞いた話を家に持ち帰っても、母さんはそれを認めようとはしなかった。

 犬はアイリスじゃないから、ボクになつくこともない。

 事故の話を切り出しただけで、母さんはいらいらして、話を切ってしまうか、無視してしまう。

 そんな険悪な関係のまま、母さんは事故にあったんだ」


『違う。あの子はアイリスよ! もう、変なこと言わないでよ!』


 あのときの声は、どうしても鼓膜を離れることはなかった。

 耳鳴りのように鳴り響き、ボクに傷を刻み続けていくのだ。


 口調は早口になって、声は上ずって、ものすごくイライラしているその表情。

 何もかも、忌むべきものだった。


「犬は結局おばさんにあげちゃった。葬式のときは確かに泣いたさ。でも、この年になって思うと、どうして泣いたのかも分からない。あの『人』は実は駄目な人だったんじゃないかな、って思うぐらい」


「それは、きっと違います」

 ハキハキとした、いつもの彼女の口調で、スミレの声はボクの耳に飛び込んだ。


「あなたのお母さんが、嘘をついたのは、あなたを悲しませないためだったんです。


 それは確かに、少し言いづらい部分もあったでしょう。

 自分のせいで死んでしまったのなら、なおさらです。


 でも、もし本気で責任転換しようと思うなら、アイリスが勝手に事故で死んでしまったことにすればよかったんです。

 夜中に抜け出した、とか、家から勝手に出て行ってしまったとか。


 それをわざわざ、あなたにバレるかもしれない、というリスクを背負ってまで、違う犬を飼ったのは、あなたを悲しませないためだったんじゃないんですか?」



 ――その言葉はきっと、正論でボクだって頭の中で何度か思い描いた答えだ。


 そしてその度に、『あぁ、でも、もし』と一歩踏み出せずにいた。

 今日という日まで、来てしまった。


「嘘をつくのはいけないことです。

 でも、もっといけないのは、嘘をついた人のことを分からずに、ただの悪人と決め付けることです。

 嘘をつくには理由があって、つかれた側は、なぜ嘘をつかれたのかを知るべきなのです。

 一方的に理解せずに拒絶し合ったら、あなたと関わる全ての人は、ずっとただの隣人のまま終わってしまうのだから」


◆◆◆


「大人も人間なのよ」


 港は広がる大空を見上げて、ボクにそう言った。

 ボクらは今日も屋上に居た。

 青く、広く、大きく、果てがなく、どこまでも高い大空を見上げてボクは思う。


「失敗したりするし、嘘もついたりする。すごく理不尽なことで、私たちを叱ることもある。ドラマの中みたいに、出来た大人なんて、わたしは今まで会ったことがない」


 この広い世界は、たくさんの人々が居て、たくさんの心があって、たくさんの言葉と声であふれている。

 それらは混ざり合って、反発し合っている。


「だって考えてもみなさいよ。大人っていってもさ、私たちだって二十過ぎたら成れる生き物なのよ? 子供の延長線上にいる生き物なんだから」


 電車には、あんな小さな空間には何十人という人が一緒に居るのに、みんな誰とも触れ合おうと、誰かを分かろうとすることもない。

 自分の隣に座る人が、一体誰なのか、興味さえもたない。


 教室で交わされる言葉の裏に、何が潜んでいて、言った本人が何を思っているのかを、ボクはスミレと会うまでは、考えたことがなかった。


 嫌いな人間の考えを一方的に拒絶していた。


「で、どうすんのよ。あなたは、『そんな』大人に成るつもりなの? あの子にとって、何が優しいのかは、わたしも分からない。全部結果論のこの世界で、選択に悩むことさえ不毛。だったら、自分がどうしたいかを、言えばいいのよ。あなたは、あの子に言うの? 言わないの?」


 言葉というものは、すごく不便だ。


 ボクの言いたいことが。

 ボクの本当に言いたいことが、ちっとも伝わらない。


 発した言葉は、決してその通りではない。

 その言葉の裏には、伝えきれない感情が押し詰まっていて、ボクらはそれを見ようとはしてこなかった。


 母さんがあの日、ボクに言った言葉の裏には。

 スミレが昨日、ボクに伝えた言葉の裏には。


 今こうして、アスファルトの上でつむぐ、港の言葉の裏には。


 ――いったい、どれほどの想いが詰まっているだろうか。


◆◆◆


「知っていました」


 という言葉は、鼓膜を素通りして、ボクの心にそのまま突き刺さって消えた。


 え、と声を漏らしてボクは、ベッドに腰を下ろした。


 いつもの日課どおり、ボクは自分の部屋のベッドで、彼女に話しかけた。

 あの手紙のことも話して、そして、今に至る。


「本当は、わたしも分かっていたんですよ。なんとなくですけど。でも、あなたが嘘をついて『くれた』から。それが、わたしにはどうしようもなく嬉しくて」


 彼女の一言一言が、ボクの心をえぐり、裂き、貫いていく。


 もう、とうとうボクはあふれる涙を堪えることなく、流してしまった。


 もし彼女に、触覚があったなら『痛い』と言われるくらい、強く強く抱きしめて。


「すごく、すごく残念です」

 スミレの声も、かすれてか細く。初めて聞いたときのように、か弱く。


「本当は、わたしだって、あなたを見たかった。あなたに触れたかった。もっとたくさんおしゃべりしたかった」

 スピーカーからは、聞きなれた彼女の声がしている。


 毎日、毎日、ともに過ごしてきて、そしてボクに大切なことを教えてくれたスミレの、この声を、今日今ほどまでに愛おしいと感じたことはない。


 彼女のこの声を、言葉を聞き逃すまいと、涙を堪えて、息を整えようとして。ボクは、大きく深呼吸する。


「あぁ、こんなにも近くにいるのに。わたしはあなたの温もりを感じることさえ出来ない」


「ボクはここにいる」

 何度も何度も息を整えて、ボクはようやくその一言を発することが出来た。


「声を。声を聞かせてください。あなたの声を、もっとたくさん。あぁ、そうだ。そういえば、あなたは変な生物が好きでしたね」


「変な生物じゃないよ。『UMA』だよ。未確認生物」


「そう、それです。実は、わたしも前々から、それに興味があったんです。その話を聞かせてください」


「―――うん、いいよ。じゃあ、まずはツチノコから」


◆◆◆


 ワタシは相変わらず、それほど大きくもない店内をウロウロしていた。

 娘は娘で、まだ携帯をどれにするかを決めかねている。


 あの夜、『彼女』はワタシの声を聞き、ワタシはひたすらに言葉を発した。

 だんだんと口数が減っていく彼女を、きつく抱きしめながらワタシは一言でも多く彼女に、この気持ちを伝えようと、言葉を送り続けた。


 ――強く、強く、思って。


 朝の光を浴びた黒い直方体の中に、もう彼女はいなかった。

 別れを告げあうこともなく、ワタシたちは気づけば別れを済ませていたのだ。


「まだ選んでるの?」


 突然背後から声をかけられて、ワタシは店の中だというのに、思わず声をあげそうになった。

 振り返ってみれば、見慣れた妻の顔がそこにあった。

 その手には、傘が三本握られている。


「外、もうすぐ雨降るって、予報あったから」

 はい、と妻がワタシに傘の一本を渡した。


「あれ? お母さん、家で待機じゃなかったっけ?」

 と後ろで何かを持った娘が言う。


「雨降るって聞いたから、あなたの優しいお母さんは、傘を持ってきてあげたのよ。感謝しなさい、すごく」

「すごく感謝してます! ……ので……コレ買ってください!」

 

 娘がダメ元で、一つの携帯を妻に手渡した。

 最新式のモデルで、値段もなかなか。

 正直、受験に受かったからと言って、喜んでご褒美として、買ってやれる金額としてはギリギリオーバーくらいだろう。

 

 だが、とワタシは小さく息を漏らした。

 艶のある黒い直方体は、心を揺さぶった。


「なんだか、あの子みたいね」

 と、妻がワタシにそう言った。

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