#3

 その日も、ボクは図書室にいた。


 放課後の夕日になりかけの光が差し込む空間で、ボクは独りぼっちで上の空だった。

 浅く腰掛けた椅子から、帰り行くクラスメイトたちの背を眺めて、ボクは親よりも近しい隣人のことを思った。

 

 ポケットの中に納まっている彼女。

 とてもとても近いところにいるのに、なんだか世界の果てに行ってしまったような。

 今のボクは、そう感じてしまう。


「ホイ、コレ」


 あまり心地よくはない音ともに、ボクは自分の頭の上に何か重たいものが置かれたと悟る。

 手にとって見ると、それは以前港に貸した『都市伝説ファイル』だった。


 港は今日も相変わらず、幸せそうな笑顔を浮かべて、ボクの後ろに立っていた。

 きっと、スミレも港のように、当たり前のように他者と触れ合えれば、違うのだろう。


 ―――あ、と。


 ボクはそこで、ようやく答えを見つけたのだ。

 ポケットに手を突っ込んで、スミレを机の上に置いた。


「ちょっと、話をしてもらいたい人がいるんだ」


◆◆◆


「ハローハロー、スミレさん」


 図書室の一角で、港は上機嫌でそう告げた。


 相手は、ボクが持っていた携帯である。

 ボクはスミレが、ボク以外の人間と話すのを始めて見た。


 目の前で港の唇は動き、言葉を発し、携帯からわずかな音が漏れ出ている。

 ボクがわかるのは、港の言葉だけで、スミレが何を言っているのかはわからない。


 この二人は仲良く喋っているだろうか、スミレはちゃんと港に失礼のないように喋っているだろうか、等と。まるで親のようなことを思いながら、ボクは二人の会話を見守った。


 時々あがる笑い声で、ボクの落ち着きのない心臓は休まる。


「あぁ~」


 ふと、港がボクを見つめた。


「あのさ、ちょっと二人で外に出てきて良い? 屋上とか」

「何で?」

「秘密」


 ニヤリ、と笑い港はスミレと一緒に屋上へと続く階段を楽しそうに、駆け上がっていった。


◆◆◆


 家に帰ると、郵便受けに見慣れない白いはがきが差し込まれていた。


 また性質の悪いダイレクトメールかと、ボクは手にとって一応確認する。


 言葉は、声は、相手の感情を察することが出来て、だから相手のことも考えられる。

 では、文字はどうだろう。


 遠くの見知らぬ誰かから、送られてくる相手の感情の分からない文はどうだろう。

 それはとても無機質で、機械的で、ひどく味気ないものだ。


 綺麗にプリントされた明朝体の文は、『どうやらスミレが不良品で、無償で新品と取り替えるらしい』ことを、言っていた。


◆◆◆


「今日は本当にありがとうございました」


 日課の夜のベッドの中の会話で、開口一番スミレはそう言った。

 その声は、普段よりも少しだけ高かった。


「あの人の声、とても綺麗でした。それに、すごくなんというか、そう、ハキハキ。ハキハキしていました」

「でしょ?」


 彼女の良い所はそこなんだよ、とボクは付け加えて。

 けれど、スミレとの会話はもうボクの耳には入ってきてはいない。


 夕方見てしまった、あの手紙。

 それが、ボクの鼓膜に栓をして、スミレの声をぼかしてしまったのだ。


「あの」


 それは剣のように鋭く突き刺さる彼女の声だった。


「どうかしましたか? なんだか、心ここにあらず、という感じですが……」



「そうだった?」


 いくばくかの会話の内に、返事がいつの間にかおざなりになってしまっていた。

 こんな白々しい嘘、きっと彼女にはすぐにばれてしまうに違いない。


「最近、ちょっと忙しかったから。テストもあったし」


「そうですか。体に―――つけてくださいね」


「え?」


 突如として入り込んだノイズに、ボクは思わず声を漏らしてしまった。


「今、何か」

「えぇ」

 スミレの声は、しかし落ち着いていた。


「なんだか最近、ちょっと体の調子がよくないみたいで。あの、お手数かもしれませんが、出来れば専門の方に見てもらいたいのですが」


「大丈夫だよ、すぐに直るから」


 ――ボクは、このときほど、自分を恨んだことはない。


 携帯を閉じて、彼女に音が聞こえなくなったのを確認してから、久しぶりに泣いた。


◆◆◆


 屋上で、穴が開くほどボクは送りつけられた手紙を見つめていた。


 スミレが不良品であることを告げる手紙には、修理という文字は載ってはいなかった。

 あくまで、交換、となっていた。


 スミレではない電話で、その手紙に書かれた連絡先にかけて聞いても、修理はもう不可能だと、言われた。


 小説でよく読む『胸にぽっかりと穴が開いたよう』とは、まさに今のボクのようなことを言うのだろう。


 何もかもが虚ろで、昨日までしっかりと影のあった世界が、急速に絵画に書かれた平面の世界のように、現実味がなくなってしまった。


 夏の前の風がボクの頬をなでていく。


「そんなところで何してんのよ。いっつもは、図書室に居るくせに」

 聞きなれた港の声が、その風に乗って耳に届く。


「どこにいたって、いいだろ」

 喉から出たボクの声は、予想以上に苛立っていた。

 けど、彼女はそんな棘のようなボクの言葉など、気にも留めずに、そのまま歩いてきた。


「どーしたのよ。なんか、らしくない感じだけど」

「これ」


 手の中に納まっていた手紙をボクは、港に乱暴に渡す。

 しばしの無音の空白の後、彼女はわずかに口を開けて、つぶやいた。


「ふぅん。それで、あの子には何て言ったの?」


 その声は、いつもの明るくて、暖かいものには聞こえなかった。

 まるでプラスチックのように、無機質で、何の感情もこもっていないように聞こえた。

 ボクはその声を聞いただけで、ぞわぞわと心が逆撫でされた。


「――大丈夫だよって、すぐに直るよって」

 一言一言、言葉を吐くたびに、耳にするたびに、ボクは途方もない罪悪感に襲われた。

 自分自身の言葉だというのに。


 確かに昨日、はっきりとボクが言った言葉だというのに。

 ボクは、なんだか自分の言葉ではないような気がしてきたのだ。


「直る方法は、ないわけ?」

「あったら、もうとっくにしてるよ!」


 風の流れる音がする。

 帰路に着く学生たちの喧騒はどこか遠く、地に足が着いているという実感はなく。


 その時、目の前の世界とボクは切り離された。

 渦巻く感情の中の冷静な部分は、これが八つ当たりだと教えてくれているのに、土砂崩れを起こした心の波に流されて、ボクは刺々しく言葉を吐き捨てていくことしか出来なかった。


 ボクは、きっとみっともない顔をしているだろう。


 ――同じだ。ボクは、母さんとまるきり同じだ。


 両膝の力が抜けて、フェンスを背中にこすりつけながら、その場にしゃがみこむ。


 手を突いたアスファルトは、どうしようもないくらい冷たかった。

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