恋の色はさくらいろ
@rinrinyokorin
第1話五年ぶりの日本
澄み渡る青い空、少しひんやりとした秋の風に包まれながら榛名拓哉(はるなたくや)はこの日本の地へとやってきた。
「お兄ちゃん、待ってよ〜」
「瑞希、急がないと電車の時間に間に合わないぞ」
「そんなこと言ったってさっきまでずっと座りっぱなしだったんだからしかたないじゃん〜」
空港のロビーへ向かう拓哉の後をトランクをひきながら小走りで追いかけてくる少女。
妹の瑞希だ。
俺達兄妹は子どもの頃に両親の転勤でアメリカへ引っ越してからずっとアメリカの日本人学校へ通っていた。
しかし、瑞希の都合により俺達は親戚の住むこの日本に移り住むことになったのだ。
「はあ、はあ、やっと着いた〜!」
瑞希が息を切らせながら駅のホームのベンチに腰かける。
「お疲れ、瑞希」
俺もそう言って瑞希の隣に腰かける。
「お兄ちゃん、私新しい学校で友達できるかなぁ?」
「瑞希なら明るいしきっとすぐに友達くらいできるよ」
俺は高校2年生、瑞希は1年生だ。
そして電車に揺られることおよそ30分、ようやく目的地の駅へ到着した。
季節は晩秋の手前。赤や黄色やオレンジのまだら模様が、くるくるとあちこちで揺れている。
記憶にある日本よりもずっとカラフルな光景で、自然と人工物が無理なく調和しているように見えた。
「思ってたよりも過ごしやすそうだな」
日本の秋は、梅雨並みに降雨量が多かったはずだ。
気温もそう変わらないはずだし、だから絶対にカリフォルニアよりも湿気があると思ってたのに、こうも涼しいなんて。
気候変動のせいか、単なる記憶違いか、それとも朝の早い時間だからか、とても快適だ。
「五年ぶり、か・・・」
呟いて、その年数に改めて驚く。
「ねえねえ、お兄ちゃん。凄くなあい!?日本だよ、日本!私たち、本当に日本に帰ってきたんだよ!」
瑞希のソプラノの声が響いた。
「おかげで今、ちょっと頭が混乱してるよ」
俺のスマホは、まだアメリカ西海岸の標準時刻を待ち受けに表示させていた。
その時差、およそ17時間。普段なら今から陽が傾き始めるという時間に朝を迎えて、戸惑いに似た感覚がある。
まるで時間を切り取られたような気分だ。
「ほら見て、あそこ!ラーメン屋さんが三件も並んでるよ!こういうの見たら、日本だな〜って思うよね」
「ラーメン屋ならカリフォルニアにもあったたろ」
「でも、家系と豚骨と天下こってりラーメンが並んでるんだよ?そうだ、どれか食べてこうよ。いいでしょ〜?」
「だめだって。まずはまゆ姉と合流しないと。それに俺の分まで機内食食べたじゃないか。太るぞ」
「うっ・・・それは確かに、嫌かも」
「ラーメンまた今度な。そのうち連れてってあげるから。えーと、ここに迎えに来てるはずなんだけど・・・」
俺があたりを見回していると、遠くからラフな格好ながらも、スラリとした体躯が様になる女性が声をかけてきた。
「あっ、いたいた!拓哉!瑞希!」
そう言いながら駆けてくる20代の女性。
「まゆ姉っ!」
瑞希が女性に抱きつく。
この女性が親戚の新海真由美だった。
(じゃあやっぱりこの人が?)
面影はあるけど、でも、記憶の中のまゆ姉と比べてずっと大人になってる。
「えへへへへ。まゆ姉だまゆ姉だまゆ姉だ〜!」
「おーおー、瑞希こんなに大きくなっちゃって〜。よーしよしよし。よしよしよしよしよーし!」
まゆ姉はそう言いながら瑞希の頭を撫でる。
「あはははは!くすぐったいよ、まゆ姉!ふふ、ふふふふ」
わしゃわしゃと、まるで子犬をあやすように頭を撫でられて、瑞希がくすぐったそうに身をくねらす。
「まゆ姉、これからお世話になります」
俺はまゆ姉に頭を下げる。
「おいおい、拓哉!そんなよそよそしいのはやめてくれよ」
「あ、うん。わかったよ、まゆ姉」
「おじさんとおばさんも元気?それとまり姉は?」
瑞希がまゆ姉に尋ねる。
「ああ、みんな元気だよ。本当は真梨乃も一緒に来たがってたんだけど、今日はちょっと都合がつかなくてな。悪い」
その名前に、懐かしさとは別の感情が胸を熱くする。
まり姉こと新海真梨乃は、まゆ姉の妹で、小さい頃から仲良くしてるお隣さんだ。
昔から頭が良くて、スポーツもできて、綺麗で眩しくて、一言で言うなら、自慢の『隣のお姉ちゃん』だった。
幼心ながらも尊敬していたし、信頼していたし、友情だって感じていた、とても大切な人だ。
「おっ、なんだ、拓哉。残念そうな顔して。そんなに真梨乃に会いたかったのか?」
にやにやと、まゆ姉が脇腹を肘で小突いてきた。
「言っておくけど、真梨乃のやつ、美人になったんだぜ〜。姉のあたしが嫉妬するくらい、そりゃあもう、めちゃくちゃ綺麗なんだぜ〜!成績だって良いし、おかげで姉の威厳なんて、これっぽっちも残ってないんだよなぁ。肩身が狭いよ」
そう嘆くまゆ姉は、とても嬉しそうだった。
「あ、あはは。それは、会えなくて余計に残念だよ」
「でも、すぐに会えるよね?」
「ああ、なんてったって、同じ日本に住んでるんだからな。これからはいつでも会えるぜ」
「ぃやった〜!」
瑞希がバンザイしながら喜ぶ。
「とにかく、寮に急ごうか。長旅で疲れてるだろ?それに、今日はやることがいっぱいあるからな」
「そうだね。まずは学園に転校の挨拶をして、その後荷物をほどいて、明後日からの登校の準備をして・・・」
「転居届はこっちで用意しておいたから、後で記入してくれ。なんかのついでに役所に持ってくから」
まゆ姉のおかげで、書類上の手続きはある程度終わっていた。
それでも、現地でしかできないことが沢山あって、早速げんなりとしてしまう。
「そんじゃあ、早速車に乗ってくれ。こっからしばらくかかるから、アメリカでの話を聞かせてくれよ。よし、じゃあ行くか」
車に乗るように、まゆ姉が促してくる。
頷いて、瑞希が助手席に、俺は後部座席に乗り込んだ。
「それにしても・・・」
くいっとバックミラーを調整しながら、まゆ姉が呟く。
「さっきハグしたときにも思ったんだけど、本当にでかくなったな、瑞希。やっぱアメリカに行くと、アメリカンサイズになるのか?」
「そうでもないよ。私、クラスで1番背が低かったんだもん」
「いや、そっちじゃなくて・・・」
まゆ姉の視線は、瑞希の膨らんだとある部分へと向けられていた。
それから自分の胸元と見比べて、なんとも言えない表情を浮かべる。
瑞希の兄としては、うかつに入れる会話ではなく、苦笑するしかない。
そんな様子をバックミラー越しに眺めていると、やがてゆっくりと景色が流れ出した。
カリフォルニアとは違う、日本の景色。
それも、首都圏のようないかにも近代的な景色ではなく、ほどよく開発され、ほどよく自然の残った景色。
故郷と呼ぶほど親しみは感じないが、それでも、カリフォルニアよりはずっと簡単に馴染めそうな場所。
この街で、俺達兄妹は、これからの学生生活を過ごすのだ。
「さあ、着いたぞ。ここが、今日からお前達二人が暮らす、奏(かなで)寮だ」
「わぁ〜、素敵〜!」
それは、想像していた以上に綺麗な建物だった。
シンプルなコンクリート造りながらも、要所要所に自然をさりげなく配置しており、息苦しさは感じられない。
ガラスを効果的に使っているせいだ。
おさげで圧迫感を感じさせない外装で、適度な開放感がある。
寮というくらいだから、昔何かで読んだ、漫画家の集まる〇〇荘みたいな古い建物を想像していたけど、それよりもずっとスタイリッシュだ。
表に、第三奏寮という表札がかかっていなければ、デザイナーズマンションと勘違いしていたかもしれない。
「他の寮生には後で紹介するよ。今日はみんな出かけてて、一人もいないんだ。晩飯の前くらいには、全員揃ってるかな。門限は特に決めてないけど、夜はだいたいみんな揃ってるよ」
中へ入ると、ちょっとしたホテルのような内装が施されていた。
不必要な豪華さはなく、かといってシンプルすぎるような、病院のような素っ気なさもない。
圧迫感を極力排除したような造りで、ちょっとした談話コーナーなんかもある。
学園の寮というよりは、大学の1角にでもありそうな雰囲気だ。
「どうだ。いい感じだろ?この寮は、うちの学園の自慢のひとつなんだぜ」
「うん、ウェブサイトで見るよりずっと綺麗だ」
「今日からここで暮らすんだぁ〜。なんだか、いまさらなんだけど、緊張してきちゃったかも」
「すぐに慣れるよ。さてと、それじゃあさっさと荷物を運んじゃってくれ。今日はこの後、学園に寄らなきゃ駄目なんだから。っていうか、今さらだけど、荷物ってそれだけなのか?」
まゆ姉が驚いたように、俺達の荷物は、引っ越してきた割にはとても少ない。
「前もってほとんど送っておいたからね。ひょっとして、まだ届いてない?」
「来てた来てた。そう言えば今週の頭くらいに届いてたわ。部屋に運んであるよ。でも、あれだってそんなに量はなかったぞ?」
「着替えとか、勉強道具とかだけだから。他に必要なものは、基本こっちで買い揃えるつもりなんだ」
一応その程度の生活費の仕送りはある。
とは言え限度はあるから、気をつけて使わないと。
「そっか。んじゃあ、荷解きはあとでもいいな。先に学園に行くか?最終的な転校手続きを済ませないとな」
「うん、行きたい行きたい!私、日本の学園、楽しみにしてたんだ!」
「よし。じゃあ荷物置いて、早速行くか。おっと、制服が届いてるから、それに着替えてからな」
「そう、制服!日本では制服があるんだよね。特に新風学園のは可愛くて、ずっと憧れてたの!」
瑞希はまゆ姉から制服を受け取ると、その場でくるくると回ってみせる。
喜ぶ瑞希には悪いけど、俺個人の感想としては、めんどい、だった。
アメリカの学校では、スポーツチームにで所属しない限り、ユニフォームなんて着ない。
生まれて初めての制服ということもあってか、誰かと同じ格好をするということに違和感があった。
とは言え水を差すのも野暮なので、黙って制服を受け取る。
部屋を尋ねると、二階の一番手前と、その隣が空き部屋だと教えてもらった。
どっちがどっちを使うかは、相談して決めていいらしい。
取り敢えず今は、自分が手前側を使うことにした。
「じゃあ、着替えたらエントランスに集合ってことで」
「うん。期待して待っててね、お兄ちゃん」
妹の制服姿に何を期待しろというのかは分からないが、とにかくそれぞれ部屋に向かった。
程なくして、先にエントランスへと降りていく。
すると、まゆ姉がニヤニヤと笑って、大げさに褒めてくれた。
「へぇ、いいじゃないか。うん、似合ってる似合ってる」
「そう?だったら、いいんだけど」
初めての制服は、思いのほか気恥ずかしかった。
もちろん、アメリカにだって制服を採用してる学校はある。
でもそういうところは、大体が名門で、歴史も古い。
おかげで自分が立派な学生になった気がして、むしろくすぐったさがあった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。着替え終わったよ〜。そっち行くから、ちゃんと見ててね〜」
ちょうど瑞希の方も着替え終わったみたいだ。
「ああ、いつでも大丈夫だよ」
「じゃあ、行くよ。せーの!じゃじゃーん!」
自ら効果音を口にして、瑞希が制服姿で現れる。
そのままモデルのように階段から降りてきたかと思えば、最後にくるりと回って、スカートをつまみ上げながら膝を曲げて見せた。
バレエやフィギュアスケートでよく見る、いわゆるカーテシーと呼ばれるお辞儀で、そうしていると深窓の令嬢のように見えなくもない。
「どうどう、お兄ちゃん。可愛いでしょ?可愛いよね?それじゃあ、さんはい」
「あ、ああ、うん。可愛いよ」
「やっぱり〜?えへへ。お兄ちゃんったら、正直者なんだから〜」
無理やり言わされる形にはなったけど、確かに瑞希の制服姿は、兄の欲目を抜きにしても可愛かった。
着崩したりもしてないから、制服本来の良さが発揮されていて、それが瑞希の魅力を引き立ててくれている。
・・・これで黙っていれば、本当に可愛いんだけどなぁ。
「二人とも、マジで似合ってるよ。まるで良いところのお坊ちゃんとお嬢さんみたいに見えるぜ」
考えることはみんな同じらしいと、微苦笑が浮かんだ。
学園は、寮から約五分の距離にあった。
にも拘わらず、到着まで一時間以上かかったのは、途中でお昼ご飯を済ませたからだ。
そもそも学園には、お昼を食べてから向かうと連絡をしてあったらしい。
なので、瑞希の希望でラーメン屋に寄ってから向かうことにしたのである。
そこで食べた魚介の味に、身体がほっとする。
出汁の味だ。それが思いのほか懐かしくて、あっという間に一杯平らげた。
なるほど、こういうところで、文化の違いを感じるんだな。
この先何年かしてからオートミールのミルクがけを食べても、きっとこんな気分にはならないだろう。
そんな事を考えてる間に、学園にやってきて、門の前に立つ。
「これが新風学園なんだ・・・ここが、新しい学園なんだぁ」
瑞希が呟く。
正式名称は、私立新風学園。
県下でも有数の進学校で、国立大はもちろん、その他の有名大学への高い進学率を誇る学園らしい。
とはいえ、その評判もここ十数年ほどの話で、それより前はかなり荒れていたんだとか。
いわゆる不良校と呼ばれる学園だったそうで、それを改革したのが、現学園長だった。
かなりの辣腕家(らつわんか)で、同時に人情家で、卒業生の中には未だに学園長を慕って挨拶にやってくる人もいるらしい。
らしい、らしいと、続くのは、すべてこの学園で働くまゆ姉から又聞きした情報だからだ。
「こっちだ、二人とも。広い学園だから、はぐれるなよ」
まゆ姉がそう言いながら先導する。
「あ、新海先生、こんにちは」
女子生徒が声をかける。
「おう、おはよう」
「こんちゃーす、先生。今日も美人すねー!」
次は男子生徒が声をかける。
「お前こそ、今日も調子良いなこの野郎」
その後もすれ違いざまに、数人の学生が声をかけてきた。
学年も男女もまちまちで、それだけで、まゆ姉がどんな風に見られているのかが分かる。
「へぇ、まゆ姉って、学生に慕われてるんだな」
「まあ、それなりにな。ていうか、ここの学園の先生は、だいたい学生に好かれてるよ」
弾んだ声が、言葉以上に真実をあらわしていた。
「学生に夢や情熱を語る先生でいろってのが、学園長の方針でな。時々、授業そっちのけで大学並の授業始める先生もいてさ。おかげで、学生達もどんどん感化されて、授業にない勉強始めたりで、とにかくハチャメチャな学園なんだ」
「あはは、面白そうな学園で良かったぁ〜」
瑞希が無邪気に、まゆ姉に抱きつく。
それを受け止める姿は、昔とは違う包容力が滲んでいた。
「さあ、着いた。ここが学園長室だ」
三階の奥に、その部屋はあった。
「中に入る前に、ひとつだけ注意しておくことがある」
教師らしい、しかつめらしい様子で、まゆ姉が言った。
「この学園の学園長先生は、優しくて学生思いなんだけど・・・教頭がまあ、厳しい人でな。ちょっとしたことですぐ目をつり上げて怒るんだよ。それが怖いのなんのって。教師の中にも、教頭を恐れてるやつは大勢いる。それくらい怖い人なんだよ。なんせ、鉄の肝臓と表情筋を持つ女って恐れられてる人だからな。だか
ら、下手なことして睨まれたりしないようにな。どうせなら、楽しい学園生活にしたいだろ?」
「大丈夫だよ。気をつける。瑞希も、あんまり興奮しないようにな。お前は興奮すると、すぐにとんでもないこと言い出すんだから」
「もう、お兄ちゃんたら心配性なんだから。私だって先生に怒られたりするのは嫌だもん。だから大丈夫だってば」
「そういう軽いところが心配なんだけどなぁ」
一抹の不安はあるものの、これ以上ここで問答していても仕方がない。
覚悟を決めて、まゆ姉に頷き返した。
「よし、じゃあ行くぞ。失礼しまーす」
「失礼します」
「失礼します」
まゆ姉に続いて、学園長室へと足を踏み入れる。
するとそこには、すでに三人の女性が待っていた。
そのうちの一人が、控えめに学園長室の隅でたたずんでいる。
歳も若く、多分、まゆ姉よりも下だろう。
学生と言われても違和感がない容姿で、フレッシュ印象を受ける。
その反対側にいる女性は、40代後半〜50代前半に見えた。
俺達が入るなり、厳しい視線を向けてきていて、まるで値踏みされてるような気分になる。
まゆ姉の話からして、この人が教頭先生だろうか?
そして最後の一人。
すっかり白くなってるが、それでも品良くセットされた髪が印象的な女性が、大きめの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。
おそらく、年齢や立ち位置的に考えて、この人が学生長だろう。
柔和な雰囲気画自然と滲んでいて、立ち上がりながら、俺達を迎えてくれた。
「まあまあ、いらっしゃい。遠いところをはるばると。ようこそ新風学園へ。私は学園長の榊みちるです。よろしくね」
それは、見た目からも予想できるとおりの、優しい声だった。
「初めまして。榛名拓哉です。今日からお世話になります」
「榛名瑞希です。よろしくお願いします」
「なにぶん日本を離れて長いので、こちらの常識が分からないことも多々あると思いますが、どうかご指導ご鞭撻のほどお願いいたします」
前もって覚えていた言葉をそらんじ、深く頭を下げる。
「ふふふ、あらあら。礼儀正しい子ね。教頭先生、あなたが話してくれた学生の話とは、似ても似つかないわよ?」
「当然です。あんな学生、後にも先にもあの子だけです。でないと、こっちの身体がもちません」
なんの話だろうか?
それとも、なにか間違えただろうか?
不安になっていると、学園長が両手を広げて言った。
「あなたが、榛名拓哉くんね。それと、妹さんの瑞希ちゃん。ふふふ、どちらも思っていた通りの子みたいね。それじゃあ、まずは簡単な連絡からしておきましょうか。こっちにいるのが教頭の松田美和子先生よ。教科担当は受け持ってないから、あまり接する機会もないかもしれないけど、覚えておいてね」
「松田です。よろしく」
軽く頭を下げると、鋭い視線が叩きつけられていることに気づいた。
まだ挨拶しかしてないのに、何故か睨まれてる。
でも、敵意は感じない。それより警戒されている感じだ。
「あの、なにか気になることでも?」
俺は尋ねてみた。
「・・・ごめんなさい。顔に出てたみたいね。おかしいですね。私は鉄の肝臓と表情筋の持ち主のはずなのに」
「げっ。き、聞えてたんですか、外の会話」
まゆ姉がつぶやいた。
「げっとはなんですか、新海先生。生徒の前では、そんな下品な言葉は慎むように」
「す、すみません・・・あははは」
そんなやりとりに、小さな笑いが広がっていく。
けれどもそれもすぐに消えて、学園長が紹介を続けた。
「新海先生とは、昔からの知り合いなのよね!じゃあ、改めて紹介する必要はないわね。拓哉くんのクラス担任でもあるから、なにかあれば頼るといいわ」
「へへ、改めてよろしくな、拓哉」
「えー、お兄ちゃんだけいいなー。私もまゆ姉のクラスが良かったなー」
「わがままを言わないの」
ぴしゃりと、教頭先生が瑞希に言った。
「そもそも普通は、不公平が起こらないよう、身内や知り合いが担任になることは避けるものなんです。今回が特例なのを忘れないように。いいですね?」
「ご、ごめんなさい・・・」
何もそんなに怒らなくても。そう思えるような鋭さに、思わず瑞希が謝る。
「そしてこっちが、拓哉くんの副担任、脇風愛先生です」
「脇風愛です。よろしくね、二人とも」
「脇風先生は、大学を卒業したばかりで、まだ一年目の新任ですが、真面目で頑張り屋な先生ですよ」
「教科担当は数学です。それと、私も第三奏寮に暮らしてるので、仲良くしてくださいね」
「え?先生も寮暮らしなんですか?」
「あれ?言ってなかったか?ちなみにあたしも同じ寮に暮らしてるぜ」
「まゆ姉も?」
さすがに驚いて尋ね返す。
「学園の寮は格安なんだ。新米にはありがたくて、地方出身で独身の先生は、だいたい寮で暮らしてるし、寮母も兼ねてるよ」
「じゃあ、まゆ姉が寮母さんなの?」
「ていっても、うちんとこの寮は学生の自主性を育てるために、生活内容にはほとんど口出してないけどな」
「前から言ってますけどね、新海先生。信じて任せるのとほったらかしは、別ですからね?」
「あ、あははは。やだなぁ、美和子先生。ちゃんとわかってますってば」
「教頭、もしくは松田先生と呼ぶように」
「は、はい。すんません」
「それで、瑞希ちゃんのクラス担任と副担任の先生なんだけど、ごめんなさい。研修で今日はどうしても来られなかったの。また月曜日に改めて紹介するわ。大丈夫、男の先生だけど、とても優しい先生だから」
「そうなんだ。残念だけど、楽しみにしてますね」
頷く瑞希に、教頭先生が満足げに頷く。
けれども、その教頭先生が、不意に俺を見つめて、なんとも表現しにくい表情を浮かべた。
懐かしがっているようでもあり、天敵に出会って、どう逃げ出そうか考えているようでもあった。
「それにしても、あの時の子が、こんなに大きくなるなんてね。私も歳をとるはずだわ」
「・・・どこかでお会いしたことありましたか?」
「いいえ、直接はありません。ただ、彩羽(いろは)さんを・・・つまり、あなたのお母さんを最後に見たときには、お腹がずいぶんと大きくなってましたから」
「てことは、教頭先生は、お母さんの先生だったんだぁ?」
「担任だったんです。だから今でも覚えているわ。大きなお腹を抱えて、卒業証書を受け取りに壇上に上がる、あなたのお母さんの姿を。妊娠については、良しとしましょう。そこは、さすがに教師の踏み込む領分ではありませんから。サポートするのも、やぶさかではありません。ですが、それが無かったとしても、あれほどの問題児は、後にも先にもいませんでしたからね。よーっく、覚えていますとも。その彩羽さんのお子さんなわけですから、こっちとしても、相当な覚悟をもって面倒を見させてもらうつもりですから、そのつもりで」
「お母さんのこと、悪く言うのはやめて下さい」
「お、おい、瑞希」
しまったーーそう思ったときには、瑞希はにらみつけるような視線を教頭先生に向けていた。
「確かに、ちょっぴり個性的なお母さんだけど、私には優しくて楽しいお母さんなんだから。そのお母さんのことを悪く言うなんて、例えどんな理由があってもFuckだよ!」
「こら、瑞希!」
飛び出した下品な言葉に、頭を抱えたくなる。
そう。アメリカならこの一言で銃撃戦になってもおかしくない万能の言葉。
いわゆる、Fワードである。
しかし、言われた方は、きょとんと首を傾げていた。
「なんですって?ごめんなさい、英語の発音が本格的すぎて、良く分からなかったのだけど」
助かったーーと、言う間もなく、瑞希が言葉を続けた。
「こう言ったんです。Get a fucking attitude with me(随分と愉快なことを言ってくれるじゃない)!Are you fuckingin with me?Fine!I'll fuck you!(馬鹿にしてるんならいつでも相手してあげるわよ)!!」
「ごめんなさい。やっぱりわからないわ。英語、もっとちゃんと勉強しておけば良かったわね」
しなくていいです。ていうか、今のはどの教科書にも載ってませんから。
「落ち着けって、瑞希。初日なんだから、もうちょい大人しくして」
「Come on maggot lost your atones!?(かかってきなさいよ!びびってタマ引っ込んじゃったの)!? 」
「ないから!それ教頭先生にはついてないから!いいから落ち着けって」
暴れそうになる妹を後ろから羽交い締めにして、なんとかなだめる。
すると、学園長先生がおっとりとした声でたしなめてくれた。
「教頭先生、積もる話があるのもわかりますが、今日はそれくらいで。なんと言っても、二人はアメリカから戻ってきたばかりなんですから。まだまだ準備も必要でしょうし、なにより休ませてあげないと」
「そうでした。私としたことが、昔を思い出して、つい熱くなったようです」
「瑞希ちゃんも。お母さん思いなのは良いけど、だからって何を言い返してもいいってわけじゃないのよ?」
・・・まずい。この様子だと学園長は、瑞希が何を言ってたか分かってるみたいだ。
「妹が失礼なことをすみません。でも、これだけは言わせてください、教頭先生」
「なんですか?」
「むしろ俺達は教頭先生と同じ立場なんです。きっと分かっていただけると思います。だって今は俺達が、母を心配する立場なんですから。それも、ずっと小さい頃から」
ハッとしたように、教頭先生が目をむいた。まるで、そのことに今気づいたような表情だった。
「そうね。言われてみればそうですよね。私ったら、自分のことばかりで、そんな簡単なことに、気づかなかったなんて。ごめんなさい。あなた達も大変なのね。だって彩羽さんと毎日顔を合わせていたんですものね。そうよね、そうですよね」
そこまで納得されるのも、それはそれで、子供心としては複雑だった。
「いろいろ至らないところも多いとは思いますが、これからよろしくお願いします」
「あたしもちゃんと指導しますから。だから、そんなに目の敵にしないでください、教頭先生」
すかさずまゆ姉がフォローしてくれた。
「頭を上げてください、二人とも。私も言い過ぎました。ごめんなさい。でも、あなたたちのことを完全に信じたわけではありませんからね?現に拓哉くん。あなたはアメリカで、逮捕歴がありますからね」
「え!?た、逮捕歴、ですか?まさか、そんな。冗談ですよね?」
脇風先生が尋ねる。
やっぱりその話も伝わってるのか。
隠せるものでもないし、隠すようなことでもないので、素直に頷いた。
「はい。暴力事件で捕まってます」
「暴力事件・・・」
脇風先生の顔が、青ざめていく。
「あの、教頭先生。それには、深い深〜い事情がありまして・・・」
事情を知ってるまゆ姉が、フォローしようと声をあげる。
しかし、教頭先生は聞く耳持たないといった体で頭を振った。
「どんな事情があろうと、前科は前科です。当学園としても、慎重にならざるを得ないわ」
「そっちこそーーむぐっ!?」
今度は瑞希が口を開きかけるが、それを手制して、自分で言った。
「その点については深く反省しています。軽率な行動が招いた結果です」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
なおも食いさがる妹を遮って、とにかく頭を下げ続ける。
「今は心を入れ替えて、真面目になろうと努めています。実際、それ以降問題は起こしていません。この学園でも、それを忘れずに学生生活を送ろうと思ってます」
「そうね。そう思ってるなら問題ないわ」
これ以上の問答を遮るように、学園長が間に入ってくる。
「実際それ以外に問題は見られないし、成績も二人揃って優秀。国語と日本史がちょっと不安だけど、特に我が学園の学生として相応しくないとは思えないわ。ねえ、教頭先生」
「それは、まあ、その通りですけど・・・」
「拓哉くんには短い期間だけど、どうか卒業まで、楽しい学園生活を過ごしてね。新風学園は、あなたたちを歓迎します」
「はい、ありがとうございます」
ホッとして頭をあげる。
すると、学園長が手を差し出してきた。
握り返すと、ごく自然な動作で、身体を寄せてきた。
「お兄ちゃんは大変ね。偉いわよ」
耳元で囁かれ、ハッとなる。
もしかしてこの人、全部分かってるんじゃあ?
「ふふふ。じゃあ、顔合わせはこれでおしまい。後は任せていいかしら、新海先生」
「大丈夫です。任せてください」
「では、失礼します」
そう言って俺は、まだ拗ねている瑞希の手を引き、学園長室を後にしたのだった。
「ふふふ、なかなか面白い子達でしたね。いえ、それ以上に、美和子ちゃんがあんなに取り乱すなんてね。珍しいものが見られたわ」
「すみません、学園長。私、彩羽さんだけは、未だにトラウマで・・・」
「あ、あの。その彩羽さんて、そんなに凄い学生だったんですか?」
愛が尋ねる。
「凄いなんてもんじゃないわ。あの子は夏休みの自由研究で、養蜂した巣箱をまるごと持ち込んでくるような子だったのよ」
「よ、養蜂、ですか?蜂を使って蜂蜜を集める、あの?」
「当時、世界規模で蜜蜂が減少していて、それを解明するために始めたみたいなの。地球温暖化による磁場の変化が関係しているとか言われてたけど、あの子は一般的な殺虫剤が蜜蜂の遺伝子に悪影響を与えてるって主張してたわ」
「凄いけど、どうやって突き止めたんですか、それ?」
「詳しいことは私にも。専門用語だらけで、全然わからなかったから。でも、その巣箱を教室で取り落として、蜜蜂が暴れだして・・・阿鼻叫喚とは、まさにああいう状況を言うんでしょうね」
「うわぁ・・・想像するだけでぞっとします」
「他にも、学園のプールで勝手に錦鯉を養殖してたり、美術の課題だって言って、校舎の壁全てに絵を描いたり。しかもそれが著名な批評家に絶賛されて、おかげで消すに消せなくなって、今や世界的に有名な芸術家になってて、余計に価値が上がって・・・」
「つまり、なんとかと紙一重の人なんですね」
「そんな学生の子供が、しかも暴力事件を起こした子が来るんですよ?これが心配せずにいられますか、学園長」
「その暴力事件だけど、アメリカの先生が、わざわざ詳細をメールしてくれたの」
「メールを、ですか?なにか特殊な事件だったんですか?」
「ふふふ。あの子、アメリカでは一目置かれてたみたいよ」
恋の色はさくらいろ @rinrinyokorin
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