第5話

 講義へ向かう途中で声をかけられ振り返ると、高橋がいた。

「お前が変人ルナと手を繋いでたって、噂になってるぞ」ニヤリと笑った。

「どうしちゃったんだよお前。あんなキモいやつと、冗談だろ?」

 私は何かを言わなければと思いながら、内面を満たす気怠さを感じていた。身体に力が入らず、ただ高橋を見つめていた。

 私の様子に、徐々に顔を強張らせていく。

「最近付き合いも悪いし。今日飲みに行こうぜ」

 私は何も言わずに背を向けて歩き出した。

「気持ち悪いよ、お前」

 そう聞こえてきた声に、私は思い出す。先日ルナを部室から連れ出す際、どこかドラマのようではないかと思っていた。彼女のためと思った行為も、所詮は何かの模倣だったなら。

 私は心臓に鈍い痛みを感じながらも、かすかな高揚感も味わっていた。このまま不要な物を切り捨てていけば、何かに手が届きそうな予感があった。



 大学から帰宅するため電車に乗っていた。ドア付近にもたれながらルナのことを考えていた。私はこのまま彼女に関わってもいいのだろうか。

 やはり彼女と私は違う。変わりつつある彼女は前を向いて進んでいると思う。私の存在はいずれ邪魔になるのではないか。

しかしこのまま彼女といれば、いつか失った何かを取り戻せるのではないかとも思っていた。

 停車してドアが開き、駅の光が私を照らした。その光が強過ぎると感じ落ち着かなかった。

 電車の中は満員ではなかったが、混雑していた。その中で五十代ぐらいのサラリーマン風の男が目についた。首筋に汗が光っている。この時期にあの汗が不思議だった。

 大学生ぐらいの女の子に、じっと視線を注いでいた。

 その女は小柄で、どちらかというと地味な服装だった。前髪で顔はよく見えない。

 女が降りた駅で男も降りた。私も後をつけた。男から二十メートルほど後方を歩いた。自分の行動の不可解さに気味が悪くなりつつも、今の自分には必要だと感じていた。

 今夜は冷えると聞いていたが、今の私は寒さも暑さも感じなかった。

 男は女と距離を保ちながら、キョロキョロと周囲を気にするそぶりを見せた。私は電話をするふりをし、さらに距離を空けなければならなかった。

 大通りから脇道へ入ったところで、一気に人気がなくなった。男は女の背後にピタリと体を寄せ、何かを言っている様子だったが私の距離からでは聞こえないし、男はマスクをつけていたため正確にはわからない。少し足を早めた。

 私の位置からでは男の右手は死角だったが、一瞬の光の反射から、ナイフが握られていることに気付いた。私の身体がこわばる。

 男はそれから左手で女の子の身体をまさぐり始めた。

 私は見ていて吐き気を覚えた。マスクの下から、あの男の肺から吐き出された、湿り気のある、臭いを放つ気体があの女に吹きかけられているのを想像した。

 男はまだ周囲を伺っていた。その醜い欲望が他人に晒されることを異常に恐れている。小さく弱い蛆虫のように見えた。

 女の子が震えているのがわかる。脅されて声を上げることもできないのだろう。しかし男も震えているのは、意味不明だった。恍惚のためか。

 殺そうと思った。それは私を震わせるほどの、唐突な激情だった。こんな男は動かなくしてしまえばいい。

 そう思った時、何かが溢れて満たしていくのを感じた。空っぽな私が、これほど満たされたことがあっただろうか。

 そうして、自らを壊そうとするほど心臓が激しいリズムを刻み始めた。

 息が荒くなって、視界が狭まるようだった。

 すぐそばに握りやすそうな、真っ黒なアスファルトの破片が転がっていた。拾い上げる。

 背後から殴りつけて引き摺り倒す。馬乗りになって、頭の骨が確実に陥没するまで、殴り続ける。

 そこまでを一瞬でシミュレーションした私は、とても冷静になった。呼吸も安定した。自分を後ろから右手に右手を、左足に左足を添えて操作しているかのように、その激情を観ていた。男にゆっくり近づく。


 男はマスクを下にずらした。女の子の首筋に顔を寄せ、舐め始めた。それを見ても、もう何も思わない。私はただ決められた事を実行するだけだった。

 やけに手の中のアスファルトが重く、身体が右に傾いていくようだ。何かに引き摺られるように、声を出した。

「おい」

 相手が振り向くのを待たずに右手を振り上げ、下ろす。手に衝撃が走り、アスファルトがそのまま手を離れそうになった。思ったより人間の頭は硬い。

 男はナイフを落とし、よろめきながら数歩後退した。両手で頭を抑える。怯えた目を向けてきた。涎がずり下げたマスクに垂れていた。

 力が足りなかったようだ。蹴りを入れて後ろに倒すか、もう一度殴打するべきか。一瞬の逡巡ののち、距離を詰めようと足を踏み出した。

 奇声が聞こえ、それから男の顔がぐにゃりと歪んだ。私はその光景を見ているしかできなかった。

 襲われていた女の子が男の腹にナイフを突き刺していた。体当たりするように身体ごと体重をかけて、深々と。女の子は私を振り返って、不明瞭なことを叫んだ。

 よく見るとその子の左の手首には傷がいくつかあった。

 さらに数回叫んだ後、走り出した。

 地面を見ると落ちているはずのナイフはなかった。

 男は口をパクパクさせていたかと思えば、膝をつき、前に倒れこんだ。

 ようやくシミュレーションした通りの展開になった、と思いながらも殴る気にはならなかった。右側が重くてしょうがなかった。アスファルトを手放す。

 血液がゆっくりと男の下から染み出すように流れる。確実に死に向かっている。傾いている。

 しばらくして、私はぼんやりとしていたことに気付く。人の声がした気がしたが、わからない。腹の底から凍りつくような冷えがのぼり、力が抜けていた。

 私はただひたすらに空虚だった。突然空っぽになった気がしたが、それはもともとだったはずだ。それからある考えが浮かぶ。

 さっきまでの激情さえも演技だったのではないのか。女の子が襲われるのを見て、役割を見出し、安心したのか。あの溢れ満たす感覚は、安堵だったのか。

それとも…

 男の小さな悪に対し、溢れ満たしたのは、あれは優越感ではなかったか。私ならそんな小さな悪は成さない。目撃されることを嫌う陰湿さを嘲笑って、もっと堂々と力をふるえるのだと。だとしたら女の子のためでもなく、男よりも上にいくためだけに人を殺そうとしたと?

 だとしたら初めての自分の感情というものが、正義感や人助けなどではなく、ただ優越感、自己陶酔だったと。

 そして今、再び空っぽになった。

 死人を前に、何を演じればいい。

 サイレンが聞こえた。徐々に大きくなる音はこちららに近付いている。私はひどく怯えた。

 私が人と接するのに、演じる必要があったのはこの恐怖のためだ。しかし私は疲れてしまったのか、演じることをやめたいと思い始めていた。

 そこで男を見てこれなら勝てると、この男を超えることで、自分を超えられると考えた。もう怯える必要はなくなり、本来あるべきところに自分を置けるのではないか。それがさっきの激情の源だろう。いやどうだろう……もう何もわからない。


「ない、ない…早く、どこだ…」そう呟きながら、地面に手をつき探していた。何をかはわからない。

 人が来る。何を演じたらいい。おそらく警察だろう。彼らが求めるものとは?

 暗がりに光がはしり、車の音が止まった。私を暴く光が近付いてくる。その時ルナのことを私は思い浮かべた。彼女のあの特徴的な目で、いまの私を見て欲しい。

 強い光に照らされる。世界に晒される。

「何をしてる!おい、答えろ!」逆光で見えないが、恐ろしい形相の人間がそこには何人かいるはずだ。

 私は思い詰めた顔、というものを意識した。

「私が、やりました。殺しました。…私が…」

 よかった、本当によかった。演じることができて。

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演じる男 ひとりごはん @hitorigohan

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