第4話

 週末だけしている派遣のバイトへ行く。今日は初めて行く隣街の家電量販店で、内容はネット回線の営業だった。

 休憩時間に控え室で昼食を食べていると、そこに正社員として勤める女が話しかけてきた。

 胸元の名札には宮本と書いてあった。年齢はおそらく三十を過ぎている。指輪はしていない。右利き。

「あなた学生さん?」

 私は女の顔を改めて見た。それほど美人ではないが、肌はきれいで化粧もよく似合っていた。一瞬の判断をする。

「……いえ、一応社会人です。劇団に所属していて……」

 身体が傾くような感覚に包まれる。何かがズレて、かえって自分の輪郭がくっきりしていくような。気分が高揚しながらもどこか安心する自分がいた。

 昼からの業務では、少しでもわからないところがあると、その女に訊きに行った。

 三回目の時、「私に訊いてばかりじゃなく、少しは考えなさい」と言いながら首を少し傾げ、笑っていた。

「あなた劇団に入ってるって言ってたわよね。公演とかしてないの?」

「今はしてないです。どうせ僕なんか下っ端で…」

「あぁそうなのね」

 どうしてこんなすぐにバレそうな嘘をついてしまうのだろう。 多かれ少なかれ誰もが仮面を使い分けている。苛められないよう周囲に溶け込むために、相手をコントロールするために。私は一体……

 しかしこの女は演劇になど全く興味はないのだ。だから深く訊いてはこない。表層的な、どこかで聞いたようなことを話してやれば満足するだろう。

「だからバイトしないとやっていけないので、気付けばバイトに追われる日々です」

 そこで私は朗らかに笑ってみせる。

「ちゃんとしたもの食べてるの?」

「うーんコンビニが多いですね。この辺で安くて美味しい店とかないですか?しばらくこの店舗に派遣されそうなんで」

「あらそうなの?美味しい串カツ屋あるけど…魚食べてないでしょ」

「いいですね。魚に飢えてます」

「炉端焼きのいい店があるわ…なんなら今から行く?空いてるなら」

「え、行きたいです!連れてってもらえるんですか」

 ご馳走様です、とニヤッと笑う。

「もう奢ってもらうつもりなの?男としてどうかと思うけど」

「ハハッ」



 繁華街の駅前で私はルナを待っていた。

 私は何を血迷ったか食事に誘っていた。B級グルメの活性化を目的とした催し物があり、そのことを彼女と話している時だった。

 今まで他人を誘う行為は役割に準じていただけで、それ以外にはなかった。この女の前では不必要だと思い、私はすぐに撤回しようとした。

 しかし、彼女があまりにも嬉しそうに見え、私は戸惑ってしまいその機会を失った。


 現れた彼女に、息が詰まった。グレーのロングコートに白のふわりとした暖かそうなトップス、そして水色のスカートを履いていた。いつもボサボサだった髪は、艶やかで光沢を持ち、綺麗にまとめられて肩から胸へ垂らされていた。

 元々の容姿は決して美しくはないが、その変貌ぶりは、私には眩しかった。

 冷たい雨が降り始めた。予定していたイベント会場(屋外に出店が多く出店しているらしい)へ行くのはやめた。

 雨宿りにカフェに入り、時間を潰した。

 私は夕方からバイトがあったが、彼女の残念そうな顔を見るにつけ、気が変わった。

「そろそろバイト行かなくていいんですか?」

「今日はないんだ」

「え?でも前に」

「なくなったんだ。だから大丈夫」

 いつもやるように、とても自然に言葉を出したつもりだった。しかし彼女は目を伏せなが、微笑んでいた。

「本当に嘘つきですね」

 どうして看破されたのか、私には理解できなかった。


 しかしそれからのルナは、大学ではそういう格好をしようとしなかった。ボサボサの髪のままだった。

 大学でもと提案したが「みんなに見せたいわけではないので」ということだった。理解不能だったが、照れたように笑っていたため、私はそれ以上は何も言わなかった。



 宮本という女が隣で身をよじる。

 彼女は私の劇団を見たいと何度も言っているのに、私はいつまでも誤魔化し続けていた。こうなることは簡単に予測できた。それなのに私は嘘をつき続ける。一体何がしたいのだろう。

 彼女が起き上がり、ベッドを抜け出たのを気配で感じた。しばらくして蛍光灯に電気が走り光る。私を容赦なく照らし出した。

「起こした?」

「いや、光が……強過ぎる」

「どうかした?」

「……眩しいからライト消してくれ」

 私を不思議そうに見ながら消してくれた。

 誤魔化すように私は上半身だけ起こし、テレビをつけた。

「一度だけ結婚しかけたことがあるの」

 突然そう切り出す彼女を私は黙って見ていた。下着だけを身につけ、グラスに水を注いでいる。

「私が付き合った中では一番いい人だった」

「ならどうして」

 私の質問には答えなかった。

「ビックリするわよね、みんなどうして人生を他人に委ねられるんだろう。バカみたいよ。きっと新しい靴に履き替えるようなもので、ワクワクするのよね」

 テレビでは知らない街の映像が流れていた。そこを歩きながら男女が喋っていた。

「まだ履けるのに、置き去りにして行く。もったいないじゃない、捨てなくてもいいのに」

 頭がぼーとし、話が理解できない。

「一宮くんは何を捨てたの?」

「……え?」

「劇団なんて嘘なんでしょ」

 彼女は笑っていた。

「君は一体何がしたいの?」

 私は何を捨てたのだろう。シーツや私の体、いたるところからこの女の匂いがしていて、吐き気がした。



「そんなに映画が好きなら、映画研究会とか入ればいいじゃないですか」

 大学構内を歩きながらルナが言う。私は下向いたまま歩き、縮んで干からびた枯葉を踏みつけた。

「俺は映画のストーリーを楽しんでるわけじゃないし、そんな資格ないと思うよ」

 そういう私の意見は無視したまま、ルナは二人でサークル(この大学には映画サークルが存在した)に入る段取りを進めていった。

 気乗りしなかったが、ルナが楽しそうにしているのを見て、私も徐々にその気になってきていた。

 ルナが首を傾げながら、顔を覗き込んできた。

「何を笑っているんですか?」

「世界の終末を願っているくせに、こんな時期からサークルに入ろうとしている。自分の世界を広げようとしているみたいで、おかしいだろ」

 恥ずかしそうに顔を伏せていた。

「君のせいです。責任は君にあります」

 黙っていたら、腰に衝撃を感じた。バックで殴られたのだと理解した時には、彼女は私を置いて歩みを速めた。顔が真っ赤だった。

 何をどうしたらいいのか、どう振る舞えばいいのか、わからなかった。自分の人生にこんな瞬間が残されていたとは思わなかった。

 私は普通の人のような幸福を享受してもいいのだろうか。何かに許されたような、感覚があった。


 あらかじめ映画サークルの部長にルナは連絡を取っていた。いきなりサークルの部屋に行くというのは心理的ハードルが高すぎるということで、学生課の学内活動部署にて取り次いでもらったそうだ。

 とりあえず部室に来てくれとのことで、二人で向かった。そこで我々は不快な思いをすることになった。


 おそらく部長から女子が入部するとサークル内で情報共有があったのだろう。入室した我々には十人(全員男)以上からの、品定めするような不躾な視線が浴びせられた。やがてそれがルナの容姿を見て、冷ややかなものへと変わっていくのを感じた。

 中には同学年で同じ学部の者もいて、ルナを指差し隣に何かを耳打ちしていた。私も話したことのある者だった。

 椅子を勧められて、着席した私たちに、彼らは取り囲むようにして質問を浴びせ始めた。

 学部や専攻などの平凡なものが終わると、映画に関することへ話しは移る。かなりマニアックと言える映画についての知識を披露し、知らないルナへ嘲笑を浮かべた。終始私へは、面白いほど興味がない様子だった。

「二人は付き合ってるんですか?」

 その男はちらりと私を見て、すぐにルナへ視線を戻した。

 その意味不明な質問に私はうんざりした。

「ええと」困ったように眉根を寄せる彼女を見て、私は立ち上がった。

 ルナの手を引き部屋を出て行った。

 閉じたドアの向こうでは、どっと笑いが沸いていた。

 同学部の男がこの事を触れ回る可能性は高い。高橋たちの耳にも入るだろう。そうなると若干の軌道修正がいるかもしれないが、今はそんな事どうでもよかった。というか、もともとどうなろうが知ったことではないのだ。

「ごめんなさい。私のせいでうまくいかなくなって…変な感じにしてしまいましたね」

「どうして謝る?もともと俺は入りたくなかった。純粋に楽しんでいるのもいるだろうけど、結局ああいう場を出会いの場として利用している人間が多いってことだよ」

 それから二人で居酒屋へ行き、アルコールを飲んだ。彼女が笑うのを見て私は安心した。

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