残香
伊島糸雨
残香
毎朝、目を覚まして息を吸うたびに、私はにおいを捉えている。
朝のにおい。布団のにおい。私のにおい。懐かしいにおい。そういった数々を知覚して、ようやくこの世界に足を下ろす。
朝食のにおい。バターと、小さいオムレツと、茹でたアスパラガスとコーヒーのにおい。私をここに繋ぎとめておくための、たくさんのものたち。私はいろいろなにおいに囲まれて、その中で現実を感じている。
部屋にはまだ、うっすらと煙草のにおいが漂っている。前はもっと濃かったはずなのに、時間が経つにつれて、すこしずつすこしずつ、どこか遠くへと消えていく。まだ重みを残す容れ物はテーブルの上に放置されて、ずいぶんと時間が経っていた。
よそで見たこともない中国語のパッケージ。一本つまんで鼻に近づけると、味気ないにおいがした。つまり、もうとっくに湿気っている。残りはあと四本。いつ消費されるともしれないそれを、私はまだ捨てずにいる。
私にとって、においは記憶そのものだ。見たり聞いたり触れたことより、においがすべてを示してくれる。本の匂いで思い出すことがあって、お酒の匂いで思い出すことがあった。晴れた日の匂い。雨の日の匂い。それから、香水のにおいと、汗のにおい。
自分では使いもしない香水をたくさん持っている。容量の減り方はまちまちで、一番最近買ったものはまだ一度も使っていない。煙草のにおいが、まだ残っているから。
ぼんやりと朝ドラを見てから、買い物をしに外に出る。マンションの廊下で伸びをして、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
晴れた日の朝は、空気が澄んで青々としている。まだ人々の一日が始まって間もない、奇妙な初々しさがあって、私は好きだった。毎日リセットされて、毎日新しい。なにか凹んだりしても生きていれば次があるのだと、すこしだけ、励まされる。
においによって、私と私以外はわけられている。充満する無数のにおいの中で、唯一空白なのが、私。そういう世界観。理解されたためしは、あまりない。
それじゃあ自分がいないみたいじゃん、なんて言葉が、ベランダに漂う空気と煙草の煙のあわいで揺れている。
立ち並ぶ家々から微かに漏れる、ちょっと遅めの朝ごはんのにおい。子どもの笑い声と混じり合って、平穏が香る。そういうささやかな幸せは、きっと大切なもので、その静かな連続への期待を、私たちは自然としてしまっている。明日も続けばいいな。このにおいが、明日もあればいいな。永遠も絶対も存在しないのだと、肌身で感じておきながら。
石ころをつま先で蹴飛ばして、驚いた猫が走って逃げる。小鳥がちょこちょこと跳ね回り、思い出したように囀ってみせた。
すぐ近くで香水のにおいがしない道行きは、ちょっと退屈。ついつい憂鬱になってしまうのは、プラスからゼロになるのを思うからで、なくなったものはくっきりと痕を残しているからだ。
周りのにおいばかりが移ろって、空白の私はなんだか取り残されている。寂しく思えるのは、それのせいだ。
花屋の前を通ると甘いにおいがふわりと漂って、私はしばし立ち止まる。赤の花、黄色の花、オレンジの花、紫の花、青の花。色とりどりに、それぞれの青いにおいがして、カラフルな絵の具を見ている気分。上向きになった気持ちで、また歩き出す。
食品と人が同じところにいるから、においは混沌として、一定しない。野菜売り場とパンの売り場、惣菜売り場と魚売り場ではまるでにおいが違って、私は実を言うと、魚のところが好き。生きものの生臭さみたいなのが、なんだか笑えてしまうのだった。
趣味が悪い、っていうのはごもっともなのだけど、ああ、私たちも形は違えどこういう種類のにおいがするんだな、って考えたら、やっぱりおかしくて、いつも笑ってしまう。
血と内臓と皮膚のにおいを、私たちも垂れ流している。汗だってそう。たくさんの加工されたにおいで覆い隠しても、その下には生き物のにおいが確かにあって、大事なのはたぶん、そういうにおいをつまびらかにできることなんだと、思ったり、思わなかったり。
鮮やかな鮭の甘塩。一尾のパックがないからこれまで通り二尾買って、片方は保存。味噌汁に入れる生わかめ。煮浸しにするほうれん草。きんぴらごぼうは作っておけば、保存して数日食べられるから、ごぼうと人参をカゴに入れる。あとは……お酒。ビールの三五〇ミリを一本。それから甘いもの。アイスでも買おうかな、とコーナーに向かう。パピコを手にとろうとして、おとなしくハーゲンダッツのバニラにした。
夕飯の買い物を早々に済ませると、やることを終えた気がして楽になる。マイペースな上にやらなきゃいけないことは早めに片付けたい性分で、人のことを急かしてしまうのは悪い癖だった。
煙みたいに、もっとゆるやかに生きられればいいのにね、とは私も思う。でも、それこそ煙のように、放っておいたら消えてしまうのではないかという漠然とした不安が、私のことを急き立てる。事実として、中空を漂っていたものは、消えてしまったのだから。
お昼まで頑張る気にはなれず、買い置きの焼きそばで済ませた。二人前だから、一つはまた別の時に食べられる。食費も安上がりで、家計に優しい。
夕方まで本を読んで過ごす。ソファには座ってばかりだったから、横になるのは久しぶりで、開いた本を鼻に近づけると、わずかに日に焼けた紙のにおいがした。落ち着く、と思ってしばらくそうしていたら、どうやら寝てしまったようで、気がつくと四時を回っていた。慌てて起きて、洗濯物を畳んだりと家事に勤しむ。とはいえ、自分のものだけだから、思った以上に早く終わった。時々時間を見誤って、余裕がないような気になるのだった。
早めの夕食に、続けて料理をした。予定していた献立をつくって、食べきれないものはラップしたりしてとっておく。調味料のにおいが漂う中、ビールも出して、目の前の虚空に向かって手を合わせた。
綺麗に焼けた鮭の骨をとって、ご飯と一緒に食べる。ちょうどいい塩気に、身はほろりと崩れて食べやすい。前は乾物のわかめを使っていた味噌汁も、すっかり生の方が好きになってしまった。こりこりした食感が楽しくて、私だけじゃ、たぶん一生買わなかった。
煮浸しときんぴらごぼうもつまみながら、ビールのプルタブを開ける。最初に飲んじゃうとすぐお腹がいっぱいになってしまうから、いつもある程度食べてから開けるのだった。
グラスに並々注いでから、泡が落ち着くのを待った。缶を振ると、もう一杯分くらい残っている。
喉を通り過ぎる刺激と鼻を抜ける穀物の香りに息を吐いて、おいしいものはいつでもおいしいのに、薄く笑った。なんだ、あんまりかわらないね、と広いテーブルを見て考える。テレビも見ずに、十五分もしたら食べ終わって、ビールは半分で満足してしまった。ちゃぷちゃぷいう音に、いけると思ったんだけどな、と考えながら、仕方なく流しに捨てた。こればかりは、とっておいてもおいしくはない。
最低限の労力ですむ洗い物。終わったら、しばらく時間をおいてお風呂に入った。私が使う物だけが置かれた棚は、整然として空白が多い。渾然としていたにおいも、一つに絞られて、単純だった。
それも終わったら、最後の楽しみにとっておいたアイスを出して、動物のドキュメンタリーを見ながら、ソファで膝を立てて食べた。そしてつつましく、半分は残して明日に回す。惰性で食べる勇気は、もうなかった。
約一時間のドキュメンタリーは全部見て、そこでもうテレビを消した。それ以上に興味があるものもなかった。点けていても、見る人がいない。
夜遅くまで何かをする気もなかった。寝室に足を向けたところで、テーブルの上に置きっぱなしの煙草が目に入る。
ただの忘れ物。なのに、捨てられずにいるもの。
気が急いて、落ち着かない理由はわかっている。今日はにおいの空白が嫌に強く感じられて、だから、いっそ、と思うのも、自分のことながら無理もないことだった。
窓を開けてベランダに出る。涼やかな夜の空気が流れ込んで、朝とはまた違う透明感をにおわせた。
口に咥えて火をつける。じりじりと先端が焼けて、漂う煙は濃紺の景色に拡散して消えていく。落ち着くにおいだ、と思って、小さく吸い込んだら、思い切りむせた。自分で吸うとこんなにおいなんだ、と幻滅して、指先に挟んだまま、風にたなびく紫煙を見つめていた。
私が好きなにおいは、私から出るものじゃない。私は空白で、それ以外の、私の外からくるにおいが好きだった。
一人より濃いごはんのにおい。グラスふたつぶんのお酒のにおい。私が使わないシャンプーのにおいに、鼻先で香る、独特の汗のにおい。
世界にあふれるにおいに包み込まれて、すぐ近くで揺れる煙を見ていた。世界の一部。私の一部として、そのにおいは染みついていた。
あったはずのものがなくなってしまったら、寂しいでしょう?
記憶はにおいとして、残しておかないと。
きっと、私は置いていかれてしまうから。
指先を鼻に近づけて、布団を抱いて、まぶたを閉じる。
明日足を下ろす世界に、このにおいは残っているだろうか。
残香 伊島糸雨 @shiu_itoh
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