最終話 愉快なふたり



 死の瞬間は恍惚に満ちている。

 大学になじめなくて、精神薬を過剰摂取した。向精神薬や抗うつ剤。お酒も追加。体は虚脱感に包まれているのに、意識は明瞭としている。はっきりとしすぎるくらいだ。頭の中に靄がかかってしまったように、思考も記憶もうまく働かないのに、なにかをしたいという欲だけはあふれている。

 日々これひとりぼっち。こんな暗い雰囲気の女に声をかけてくるひとなんていない。中学時代から伸ばし続けている髪はファッションとは程遠く、手入れもろくにしないから毛先が痛んでいる。鏡を見るたびに、気分が落ち込む。この長い髪さえなければと思うが、思い切って古い自分を捨て去ってしまうほどの度胸もないのだった。

 毎月受け取っている奨学金だって返すあてはない。たとえば就職したとして、それでどうなるのだろう。企業説明会に行けば、耳にするのは卑猥なことばかりだ。ある企業の採用担当は貼り付けたような笑顔でこう語った。「私たちはひとつの商品プロジェクトを成功させるために、いくつもの競争する商品開発グループを作るんです。最終的にひとつのグループの商品案だけ選び、あとは没にします。これ以上にないほどの効率的ですばらしい製作現場です」その会社はのちのち社員の過労死で問題になった。テレビで記者会見が中継された。報道陣の無責任な質問を受け止めていたのはどういうわけかその採用担当で、今度はわかりやすい反省の表情を貼り付けていた。

 合同説明会で人気のない会社のブースに入ってみれば、今度はむしろ素敵なことばかり聞かされる。「今はまだ派遣業務が主になっていますが、将来的には私たち独自のアプリ開発を進めていきます。萩生さんには、ぜひその仲間になってほしいんです」彼らは私の徹夜の成果である履歴書に一度も目を通さなかった。あとで調べてみたら、その会社は違法派遣で有名だった。派遣先で時間超過で働こうと、残業にはならない。派遣先の上司の仰るがまま、いくらでも超過勤務をさせられるという仕組みだ。どんな仕事でも与えればいい。そして、私がどれほどの苦しみに耐えられるかのテストをすればいい。ただし、結果はやらないでもわかる。こんな精神薄弱者、すぐに音を上げて逃げ出してしまうに決まっている。

 ある夜、お薬をキメまくってハイになった私は下宿を飛び出した。ああああああああああああああああああああああああああああああああとめちゃくちゃに声を出しながら自転車で坂道をとばし、当然のようにブレーキが間に合わず、通行止めの標識のポールにあたって宙を舞った。

 そのときのことはよく覚えている。私は目をつむっていたのだと思う。真っ暗だった。体はなににも縛られていない。浮遊感。飛んでいた。無限の跳躍。生きているうちには絶対に重力から解き放たれることはないと思っていたのに。素晴らしい空中遊泳だった。無限に引き延ばされた時間のなかで、無のなかを泳ぐ。この浮遊がずっと続けばいいと思った。掃きだめのような現実のすべてがいっぺんに遠のいて、そこにあるのは感覚だけだった。

 闇から抜け出したとき、点滴に見下ろされていた。救急車で担ぎ込まれたらしいその病院は、下宿さきからすぐの場所にあった。近所の人が救急車を呼んでくれたらしい。喜ばしいことに、私は手ぶらだった。身分証を持っていなかったから、片親である母に連絡がいくことはなかった。精密検査をしても特に異常はなし。

 翌日の午後には大学のゼミに出席していた。

 ゼミ室には誰もいなかった。教授はいつも遅刻してくる。ほかのゼミ生はたぶん来ない。みんないろいろな理由で忙しいのだ。バイトとか、遊びとか。私はノートを広げ、教授が名前も知らないような出版社から出したテキストをその隣に置く。ペンケースを開き、0.7ミリのボールペンを持つ。いつでも講義は始められる。そこに誰かがいれば、の話だが。

 私は誰も来ないゼミ室で思った。みんなはどこに行ってしまったのだろう? 私は昨晩、宙を飛んだ。「人と話すとき、言葉がうまく出ないんです。自分は変なんじゃないでしょうか? そんなことを思っていると、すごく、苦しくて」相談に行った精神科のクリニックの医師は、黄色い紙に書かれた質問をすべて解けと言った。結果を流し見て、私の精神が薄弱だと言った。それから一通り精神疾患についての蘊蓄を並べたあとで、薬を飲めば大丈夫だと笑顔を貼り付けた。私はその通りにしたのだ。大量にもらったお薬とお酒で気持ち良くなった。そうして、死ぬ一歩手前までいった。

 そんな私がこうしてゼミに出席しているというのに、ほかのみんなはここにはいない。





〈死とは浮遊だ。〉





 たわむれにそうノートに書いてみると、昨夜の出来事を……空中遊泳を思い出した。浮遊感が想起され、恍惚が襲ってきた。あんなにも心地よい瞬間が今までにあっただろうか。死とはもっと重いものだと思っていたのに。

 顔を上げると、ゼミ室の備品が窓からの薄緑色の光で輝いていた。椅子の背もたれの金具やテーブルに光は映える。それはきっと、私がいてもいなくても続いていく光だった。死とは、もっともっと軽いものなのだ。私は啓示をノートに記述した。





〈くだらない重力を逃れ、永遠に浮遊するための死。〉

〈もう一度浮遊が必要だ。〉

〈浮遊を授けてくれる他の介在が必要だ。〉

〈もう一度浮遊したい。〉





 教授もゼミのみんなも、結局その日は来なかった。理由は知らない。死が軽いものである以上、そのほかのものはより軽い理由でできているに違いない。私は講義の時間が過ぎるとゼミ室を出て、廊下を歩き、階段を下った。ドアをくぐって外に出ると、首元を冷たい風が過ぎていった。

 そして、私は髪を切ろうと思った。











 栗宮さんとの行為を始めてから一ヶ月が経った。私の生活は変わった。栗宮さんの部屋での儀式を思うといつでも気分は晴れやかになった。いちばんの変化は、薬を止められたことだった。クリニックになんて行く必要はない。ただ精神薬を処方してひとの脳みそをおかしくするあんな場所、なくなっちゃえばいいのに。

 栗宮さんにも同じような変化があった。

 行為の前に喫茶店に入った。彼女はシナモンティーを頼み、私はオレンジジュースを注文した。飲み物が運ばれてくるまでのあいだ、栗宮さんは水を口に含み、それを飲み下すことを繰り返した。そして、あるときふと思い出したように口を開いた。




「今朝、主人に言い返してみたんです。卵焼きの味付けが甘くないっていうから、そんなに自分好みが食べたいんなら、自分で作ってくださいって」

「それで?」

「ふざけるなって。働いて稼いでるのは俺だっていうから、いつだってあなたの料理を作っているのは私だって言ってあげました。あなたより早く起きて朝食を作っているのは私だし、遅くまで起きて家事をしているのは、私だって」




 その表情には、どこか憑き物が剥がれたような清々しさがあった。




「やるぅ」




 私はテーブルに両腕を載せる。




「あのひと、びっくりしちゃったのか、そのまま出勤していきました」

「あははは」




 栗宮さんは微笑んで言った。




「つい最近まで、朝早く目覚めて、夜遅くに寝る私の生活が嫌いでした。彼の奴隷みたいで。でも、あの人の寝ている間に、私はいつだってこの両手が自由なんだって気付いたら、なんだか私、前よりも自由になれた気がします。いつだって私はあの人の首を絞めることができるんです」




 周囲の客が聞いたら目を丸くするだろう。でも、私には彼女の変化が美しかった。栗宮さんの手のひらは、どんどん私の首を覚えていく。私の喉のどの部分を圧すればすぐに気持ちよく窒息させられるのか、嬉々として語る言葉はどれもやわらかくてあたたかい。




「ねえ、今日もあのひと帰ってこないんです。泊まっていきませんか」

「いいですね」




 私はオレンジジュースを飲み干した。朝から何も食べていなかったからだろう。その爽やかで酸味のきいた液体は私の喉の形を鮮明に切り取り、冷たく通り過ぎていった。窓の外では街路樹の枯葉が風にもてあそばれていた。道を往く人々は皆、寒そうに肩を竦めている。マフラーで首を絞めてもらうっていうのもいいな。そう思っていると、




「マフラーで絞めるのも、いいかもしれませんね」




 私は笑ってしまった。その笑いは店内に明るく響いたと思う。




「どうしたんですか」

「だって、栗宮さん、私と同じこと考えているんですもん」




 私の説明を聞いて、栗宮さんも声を上げて笑いだす。いつもは見せない白い歯列がむき出しになる。私は苦しくなるくらい笑った。息ができない。横隔膜が引き攣りを起こすんじゃないかと思った。テーブルの上の紅茶が倒れそうになる。どこかでグラスの割れる音がする。




 私たちの甲高い笑い声は店内の落ち着いた空気に高らかに響き渡って、栗宮さんの笑顔はとってもかわいくて素敵で、これから死ぬっていうのに、生きているということはこんなにも愉快だった。 

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「私を絞め殺してください」 のすたるじあ @akitoki_hirai

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