第3話 「殺せない」


 深い紅色のゆびさきが喉にまわる。かさねられた親指のさきが頤(おとがい)の下にあてがわれる。薄い膜のような皮膚がつぶれて、気道が狭まっていくのがわかった。血の味のする咳をする。死ぬんだ。冷たい掌が首筋を支えてくれる。親指の腹が気管を圧して空気の流れを止めた。息ができない。人間の手指は、首を絞めるためにあるのだと恍惚する。私は死ぬんだ。栗宮さんの美容師らしい細く無駄のない指先には、白い死がこびりついている。それはひどく美しい。




「萩生さん……」




 栗宮さんの顔が目の前にある。力んだ両肩の間に、隈の目立つ顔があった。眼鏡の奥の両眼は濁りのない灰色をしている。さらりとひかれた眉の色は薄く、唇は冬の空気に触れてかさかさと渇いている。その唇が震えている。栗宮さんはこんなにもきれいだ。歯の隙間からこぼれた息がしゅるしゅると蛇のようにとぐろを巻く。




「は、ぎう、さん……」




 ごり、ごり。首に重ねられた指が頸動脈の手前にある筋肉の束をもてあそぶ。けれど感覚はどこか頭上にあって、すべての痛みが甲高い音のように感じられる。命を手放すとき、ひとはきっと耳だけになるのだろう。音に変換された刺激の奏でるでたらめな音楽に浸る。栗宮さんの長髪がほどけてその白い首筋に垂れ、顔を覆い隠す。




「どうして、そんなに、笑って、いるんですか」




 空気が勢いよく侵入してくる。肺が一瞬で満たされて、瞼の裏で大量のビッグバンが起きる。閃光。暗転。新鮮な酸素を血液が運んで全身に行き渡らせるまでの間に、数秒の虚血状態を味わう。畳の上に寝そべったままの私は、その数秒の間に死を直視する。目を開けようが光の見えない暗闇。これが死だ。ここから私の意識が根こそぎ失われたとき、死は完成する。鼻の奥に甘いにおいが漂う。頭が重い。血がまだ巡らない。

 栗宮さんは深緑色のセーターと紺のジーンズの姿で、私のそばにぺたりと座っている。肩を落とし、押しつぶすように片方のこぶしを片方の掌で包み込んでいた。私は深い呼吸を繰り返す。虚脱感が去っていく。頭上で奏でられた黄金の音楽が途絶えた今、聴こえるのは冬の夜を貫いていく在来線の音だけだ。

 私は投げ出したゆびさきを栗宮さんの怯える肩に持っていく。彼女は観念したようにジーンズのポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになったたばこを一本取り出した。




「ごめんなさい」




 栗宮さんはたばこを口に咥え、震える手で火をつけた。銀色の睫毛がライターの灯りに一瞬浮かび上がった。微量の煙を吐き出す。灰皿を取りに立ったとき、煙の白い尾が魂のように彼女の後に引き摺って伸びた。

 私は血が巡るのを待ちながら、天井を見上げる。駅に近いこの部屋は、栗宮さんの住まいだった。ふだん寝室として使っているという畳敷きの部屋に通されて、そこで初めての行為を行った。灯りをつけず、暗闇のなかで絞めてほしいと私は言った。彼女は玄関の外から引きずってきた冷たい空気をまとったゆびさきで、私の首に手をかけた。

 まだ頭が重い。期待しつつ立ち上がり、手探りで廊下を歩く。

 灯りのないキッチンに換気扇の音が悲鳴のように鳴っていた。栗宮さんは冷蔵庫を背もたれにしてしゃがみこんで、たばこを持つのと反対の手の甲を目に押し付けて泣いていた。




「どうしたんですか」




 私は張り裂けそうな気持ちで問いかけた。




「やっぱり……嫌になったんですか。私の首を絞めるのが」

「う、うれ、嬉しいんです」




 声は今までにないほど震えていた。




「こんな、こんな私、ずっとずっと、生きていていいのかって、思ってて。ずっと誰かの首を絞めたくて、そうやって生きてきた私が、今、あなたの首を……でも、私……やっぱり、殺せない……どうしよう」




 そんな、今更どうして、と焦って硬い手の甲を剥がして顔を覗き込むと、栗宮さんの表情は歪んでいた。笑っているのでも、泣いているのでもない。見えない手に顔の皮膚を捻じ曲げられてでもいるかのようだった。

 歯の隙間から押し出すみたいに、栗宮さんは言った。




「だって、だって……殺しちゃったら、もう……殺せない、から。萩生さんのこと、殺せない……殺せない殺せない殺せない」

「……栗宮さん」

「殺しちゃったら、もうあの気持ちのいい瞬間は、一生訪れない……でも、殺したい。殺したい、殺したい……あな、たを、殺したい。あなたの、そのきれいな首を絞め殺したい。私の指で殺したい」

「……あは」




 芯から体が震える。私は私の体を抱きしめる。ああ、やっぱりこのひとは素晴らしい。私の表情もぎちぎちと音を立てて歪んでいく。喜びが体を満たした。待ち望んだ幸福がここにある。ねえ栗宮さん、あなたは最高だ。あなたの手は私を殺すためにあるんだ。




「萩生さん……」




 ふいに落ち着いた声で、栗宮さんは言う。




「わ、私たちいま、お、同じことを、考えているんじゃありませんか」

「ええ、きっと」




 私は彼女の背中でうなずく。




「きっとそうですね」




 なんの前触れもなく、彼女の腕が伸びてきて、私の首を全力で握りつぶした。冷蔵庫の前に押し倒される。歪んだ表情の栗宮さんは私にまたがり、涎を口の端に滴らせた。さきほどとは比べものにならないくらい早く、意識が消失していくのがわかる。鼻の奥に甘い香りがした。冬のキッチンの床は冷たくて、その冷たさに意識が薄まって溶けていくのがこのうえなく恍惚だった。 

 旦那さんが出張だというから、その日は一晩中行為に耽った。首を絞められる。解放される。また首を絞める。解放。すばらしい死の連環だった。私は何度も死の浮遊を味わった。精神科の薬なんかよりも、よっぽど効き目がある。これをやったあとは、世界のすべてを愛することができる。重力。恍惚のなかで私は考える。ひとは生まれたときから、死ぬまで重力に縛り付けられる。地球から離れて宇宙の果てに飛んだって駄目だ。引力はすべての物質が所有する。私も、栗宮さんも等しく空間を歪ませている。それは弱々しい力だ。けれど力だ。その力から逃れる術はひとつしかない。死だ。死が私のすべてを浮遊させてくれる。死だけが救いなのだ。


 私たちはひとつになって無のなかを漂う肉塊だった。




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