第2話 「私を絞め殺してください」

 最初のカットから二日後、予約を入れるためにポイントカードに書かれた電話番号にかけた。電話口に出たのは栗宮さんだったが、声だけでは私のことはわからないようだった。




「明日の午後、髪を染めたいのですが空いていますか」

「あ、はい、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「萩生香織です」




 電話の向こうの空気が強張る。店内に流れる有線放送の音楽が漏れ聞こえる。耳を澄ますと、かすれた息遣いがわずかに伝わってきた。




「どうしました?」

「あ……すみません、萩生様ですね。先日はありがとうございました」

「空いてますか?」

「は、はい。空いている美容師がいるか、予約表を確認しますので、少々お待ち下さい」

「違いますよ」




 私は電話の向こうに手を伸ばす。




「お姉さんの予定を聞いているんです」

「えっ……私……あ、あの……」




 栗宮さんの声は跳ね上がった。




「午後はどこでも空いています……けど……」

「じゃあ、一時に行きますね」

「あ、はい……お待ちしてます」




 それからの私は、まるで誕生日プレゼントを待つ子供のようだった。

 当日は昼になっても重くどんよりとした色の雲が空からぶら下がって、今にも雨が降りそうだった。アパートのドアに鍵をかけ、かんかんと音を鳴らしながらステンレスの階段を下った。駐車場を通り過ぎ、舗道に出るとき、ふと首に触れた。死とは浮遊だ。そう唱えると、下腹から快感に似たなにかが這い上がってきた。

 大学に行くときと同じ電車に乗る。駅に到着するとき、あの美容室が見えた。本当にあるんだ、と思った。胸の奥のざわめきがひときわ強くなった。ガラスのドアを開けると、受付のお姉さんの後ろから栗宮さんが姿を見せた。




「こんにちは」




 口だけで笑みを作って見せた。




「こんにちは。お、お待ちしてました」

「栗宮さんにやっていただけるのですよね?」

「あ、ええ、はい」




 いちいち、あ、とか、え、が多い人だ。




「わ、私が担当させて頂きます。こちらに……」




 終わりのほうはごにょごにょ言っていてよくわからなかった。私は彼女の横から顔を出して、店内を見渡した。平日の昼過ぎにしてよかった、と内心胸をなでおろす。パーマをかけているお客さんと、カット後のマッサージをしてもらっているお客さんがひとりずつ。あとの椅子は埋まっていない。壁の向こうはどうだろうか、と伺いながら椅子に座る。




「では、今日は髪を染めるということですが……」

「あ、やっぱりそれなしで」




 鏡の中に映った白い顔に困惑の色が加わった。要件伺いのためにかがみこんでいたその顔は、私のすぐ斜め後ろにあった。




「え、ええと、髪を染めるのは、やめるということで、すか」

「はい」

「それでは、その、なにを」

「栗宮さんは、どうしたいですか」




 彼女の顔を振り仰ぐ。息のかかりそうな距離に唇がある。見上げると、とがった顎の形とつんと立った鼻先のラインのきれいさがよくわかった。眼鏡の縁を支えながら、その指は固まっている。




「わ、私ですか」

「ええ。あなたです」

「……私は」




 細く病弱そうな喉を唾のかたまりが通り過ぎた。眼の中になにかよどんだ色が混ざる。




「しても、いいんですよ」




 私は呪文のように囁く。




「栗宮さんのしたいこと」

「それ、は、どういう、意味ですか」




 息苦しそうに言葉を紡いだあとで、すっと肩の力が抜けた。




「……いいんですか」

「なにがです?」

「そ、その」




 私は頬を持ち上げて笑顔を作った。




「また、カットをしてくれませんか。やっぱり、もう少し短めがいいかなって。首が隠れているの、嫌で」

「そ、そうなんですか。わかりました」

「ええ」




 鏡に向き直る。栗宮さんは背筋を伸ばし、背の高い彼女の顔は鼻より上が鏡に映らなくなった。買ったばかりのフリーザーバックのジッパーみたいに、その口は引き締まっている。




「ま、マフラーに挟むと、髪型が崩れますし、痛みますよね。これからの、季節……静電気とか、も」




 たぶんいろんなお客さんのために用意したセリフなのだろう。それは言い慣れている感があったが、それでも途切れ途切れの言葉だった。




「そうですね。それに、『する』ときに邪魔ですからね」

「あ、あはは、それは、あの……そう、ですか」




 苦笑いしながらクロスを首に回す。かがんで首に触れるとき、彼女の目はずっと私のうなじに向いていた。マジックテープが止められ、ぴったりと閉じられる。私は視線がくすぐったくて笑いそうになる。胸の奥のざわめきがより強くなって、こそばゆかった。クロスの下でこぶしを握る。血が出るかと思うくらい、手のひらにネイルが食い込んだ。足の付け根もぎゅうっと締めた。そうやっていないと、皮膚の穴という穴から欲望が噴き出してしまいそうだった。カットは問題なく終わったが、背後からの眼が首筋に注がれるたびに声を漏らしそうになってしまい、音のない悲鳴を口の中で何度も殺した。




「……髪、を、洗います」




 栗宮さんはすっかり疲れ切ったように見えた。

 クロスが外される。導かれる前に私は壁の向こうへ歩いていった。店員さんがその陰から出てきて、次いでお客さんとすれ違う。リラックスした様子のその年配の女性は、笑顔で店員さんに話しかけていた。「本当、人にやってもらうのと自分でやるのとは、何が違うんですかね……自分で髪を洗っていても、ちっとも気持ちいいと思わないのに。やってもらうと、つい眠っちゃうんです」本当にそうだ。自分でやるのではだめだ。人にやってもらって初めて、快楽は現実になる。

 椅子はどれも使われていなかった。私は奥の席を選んで腰を下ろす。背中を預ける。頭を支える場所がないために、顎が思い切り上を向いた。私の喉元は薄暗い照明の下に晒された。口の中にたまった涎を飲み下す。唇が渇いている。ウォーマーのシリコンが剥がれる音。栗宮さんの顔が頭上に現れる。タオルをぱん、と広げて背後に回る。背もたれがゆっくりと倒され、首の皮が伸び切るのがわかった。タオルが額から載せられる。すぐに目が隠れ、白い視界のなかで目をつむった。もう目を開けることはないかもしれない。そう思うと緊張感でどうにかなってしまいそうだった。

 シャワーの激しい音。根本から毛先までぬるいお湯が流れていく。細い指がほぐすように髪を梳く。甘いにおいのシャンプーがお湯に溶け、上気して空気に混じる。頭のなかにぼうっとした感覚が生まれる。指。私の皮膚感覚がその動きを追い続ける。

 湯が止まった。髪を挟むようにタオルで拭かれる。それから、長い間があった。

 見下ろされている。呼吸の音がすぐ真上で聴こえる。わざとらしい咳き込み。私は反応しない。あの、という怯えたような声。終わりました、起きてください。もう、聴きなれた声になりつつある栗宮さんの震える声音。

 すっかり冷たくなったタオル。その重みがなくなる。つむったまぶたの裏に赤と白の明滅。顔を見られている。眠ったふりをする。死んでしまったかのように……ああこれはとても面白い。




「萩生さん……あの」




 もう少し、私の反応を待つのかと思った。

 濡れた手の感触が、私の首に。




「起きてますか。大丈夫ですか」




 言葉によどみがなくなった。




「……寝ているんですか」




 言葉とは裏腹に、指先に力がこもる。ああ、そうだ。これだ。これをしてほしかったんだ。もっと、もっと、と下腹部が絶叫する。止めないでください、もっともっと気持ちよくしてください。私を浮かび上がらせてください。終わることのない絶頂をください。




「……失礼します」




 圧が増した。私は恍惚する。これほどまでに、私の首の形を熟知した手の形があるだろうか。このひとのほかには、きっと見つからないだろう。私は、私のなかに束縛されていたものが解き放たれつつあるのを、首が絞まり、息が詰まるたびに確信した。栗宮さんの手と指で作られた輪の直径がじわじわと狭まっていく。もう呼吸はできない。体の末端から存在が消滅していく。足も手も棒のように動かない。頭に血が上る。瞼の裏でなにかがちかちかと光る。警告灯だ。回り続ける赤い回転灯。溺れかけの脳が危険を知らせている。息を吸いたくない。酸素なんていらない肺も凍えろ。血管のすべては流れを止めろ。私は浮遊するんだ。

 ふいに、私の首は自由になった。しばらく呼吸をせずに、浮遊しつつある感覚を味わう。肺を空気で満たすと、痺れていた頭に血が巡り、体の末端まで神経が戻り始めた。五感が冴えている。湯気のにおいが甘ったるく鼻をつく。床の上でこすれる靴の音がうるさいくらいだった。タオルが顔に戻される。私は白い視界を見つめながら言う。




「栗宮さん、今なにをしていたんですか」




 返事はない。私はタオルを取って台に置くと、身を起して彼女を見た。栗宮さんは私の足元に立ち尽くしていた。顔色が悪い。のんびりとドライブを楽しんでいたら、ふいに猫でも轢き殺してしまったみたいだ。




「首を……私の首を」




 私は自分で自分の首を絞めるふりをする。青ざめる彼女の顔を見つめながら。




「こうやって絞めて、殺そうとしたんですか」




 店内の有線放送から、知らないクラシックの音楽が流れだす。低音で構成されたその音の流れは私たちの間の低いところを這っていく。栗宮さんのジーンズに包まれた脚がわずかに震えている。




「私、あなたからなにか恨みを買いましたか。それとも、快楽殺人……とかいうやつですかね。殺す対象はどうでもいいとか」

「違います。そうではありません」




 顔を上げて、きっぱりと断った。正面から向き合うと、やっぱり美人さんだな、と場違いなことを思った。栗宮さんの震える唇が言葉を紡いだ。




「ごめんなさい。殺すつもりは、ありませんでした……」

「でも、首を絞めましたよね」

「それは……ごめんなさい。本当に、ごめん、なさい」




 私は唇をなめる。甘い味がした。恍惚に近づいている。彼女の目を見て尋ねる。




「どうして、私にあんなことをしたんですか」

「き、れい、だったから……きれいだったから」




 栗宮さんは、途切れ途切れにこう続けた。




「は、萩生さんの首が、とても綺麗だった、から……白くて、細くて、かよわくて……あなたみたいなひとの首をみると……もう、だ、だめなんです。そっと首に触れて、そのまま……ぎゅううううって力を入れたら、どうなるんだろう、どうなっちゃうんだろう……苦しむのかな、抵抗するのかな……でも上から押さえつけて、一気に絞めちゃったら、声も出ないかな……そのとき首はどんなふうに私の手の中で動くのかな……じっくりたっぷり時間をかけて絞めたいなって思って……もしかしたら今しかないのかもしれないって思ったら、自然と手が、あなたの首に……本当にやるつもりはありませんでした。ちょっと触ってみて、想像できれば、それで満足だったんです……本当です。殺そうだなんて、思ってませんでした。それなのに、つい、力が入ってしまった……んです。今まで、こんなこと、なかった、のに」




 私は椅子の上から動かずに話を聞いていた。腕組みをし、何度か頷いて見せた。話すことでいくらか落ち着いたらしい栗宮さんに言った。




「それじゃあだめです」

「……ど、どういう」




 座っているのがまどろこっしくなって、立ち上がる。私が迫ると、彼女は戸惑って退いた。フロアとこちらの空間を隔てる壁に背をつける。私は真正面に立って、栗宮さんのジーンズと下腹部のあいだに指を突っ込んだ。彼女の反応は一瞬遅れた。さっき首に触れていた細い指が私の腕に触れるときには、私はもうそこにたどり着き、予想していた感触を得ていた。指を引き抜く。




「やっぱり」




 笑んでしまうのを止められない。




「ねえ栗宮さん、どうしてこんなになっているんですか」

「……し、知りません」

「じゃあ言ってあげます。あなたは興奮していたんですよ。触りたいだけだった、殺そうとはしていなかった、だなんてとんだ詭弁ですよ。あなたはもっともっとその先のことをしたかったはずなんです。私が起きなかったら、きっとやっていたでしょうね。欲望のままに。私を殺すことを考えて、あなたは性的に興奮していた。ただそれだけなんですよ。私を殺すことで気持ち良くなっていたんです」

「許してください」




 栗宮さんは泣きそうに眼の周りを赤く膨らませていた。




「だめです」




 ああ、口元がほころんでしまう。




「あなたがやったことは殺人未遂です。このまま警察に行きますか。私の首には今、栗宮さんの指紋と掌紋がべったりとついていると思いますけど」

「なんでもします」




 栗宮さんはうつむく。涙の雫が彼女の白いスニーカーを濡らして灰色に汚した。




「なんでも?」

「なんでもします。許してください」

「じゃあ」




 眼球の奥が揺れた。本当にやるのか? 表層の裏に倒立する自分が問いかける。やる。栗宮さんに肉薄しながら私は応える。私はこの瞬間をずっと待っていたんだと思う。たぶん、生まれる前から。やるなら今しかない。




「殺させてください」




 ぅ。そんな喘ぎだった。私は目線の高さにある栗宮さんの喉に両手を伸ばし、壁に押し付けた。声が漏れないようにするために容赦はしなかった。二十歳の女が出せる力なんてたかが知れているけれど、それでも目いっぱい絞めた。死んだ兄から何事も全力でやれとよく言われていたことを思い出した。兄は優しかった。足を踏ん張る。腕の筋肉を総動員して、体重のすべてをかけて絞めた。見る見るうちに栗宮さんの人相が変わっていく。目を剥き、鼻孔も口も酸素も求めてだらしなく開き、整った歯列の隙間から濃い涎がだらだらとこぼれて私の頬に垂れた。私の手首を掴む手にはもう力が入っていない。栗宮さんになんの恨みもない。だけど絞めた。喉のふくらんだところを親指で押さえつける。私の指の形にへこんだ細い首は、幼稚園児がたわむれに潰した粘土のように歪んでいた。




「ぁ」




 落ちる。脱力を察知し、首から手を放す。栗宮さんは糸の切れた人形のように落下した。重力に負けて床にしりもちをつき、何度も激しく咳き込んだ。ほかの店員さんがこの咳を聞きつけてやってくるんじゃないかと思ったが、壁の向こうからは誰も現れなかった。私は栗宮さんの前に膝をついた。足腰に力が入らなくなっていた。




「どうでしたか」




 栗宮さんに向けて囁く。心臓の音がうるさい。




「興奮しましたか」

「……す、するわけ、ないでしょう」




 殺されかけたというのに、栗宮さんは敬語を崩さなかった。




「どうして、こんな、こと」

「私も、だめでした。少しも興奮しませんでしたよ」




 栗宮さんの目が見開かれて、縁から涙がこぼれそうになっていた。恐怖を湛えた眼だ。口元はまだ緩んでいる。そのすぐ下の首に、桃色の筋が浮かび始めている。たぶん、もう少ししたら私の手の形がはっきりとわかるようになるだろう。




「やっぱり、駄目なんですよ。栗宮さんはひとの首を絞めてみたいんです。できれば、殺してみたいんです。ここが大事です。そして私は、絞め殺されてみたいんです。浮遊したいんです。重力から解放される瞬間を永遠に味わいたいんです。それはひとりではできません。あなたのことが必要なんです」

「なにを……」

「栗宮さん、お願いです」




 彼女の手を取る。繊細で美しい。その手を私の首に持っていく。栗宮さんのよどんだ灰色の眼にわずかに光が生まれたことを私は見逃さなかった。




「私を絞め殺してください」










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