「私を絞め殺してください」
のすたるじあ
第1話 「じゃあ、また」
大学に行ってみたらゼミは休講だった。駅前まで歩いて、美容室に入る。ビルの二階にあるそのお店は外観がほとんどガラス張りになっていて、店に入ると外よりも明るい。床は木目風の加工がされ、挨拶をしてくれるスタッフさんはみんな大人っぽい服とメイクだった。シャンプーと湯気のにおいにちょっとめまいがする。
「カットですか?」
「はい、カットだけでお願いします」
受付はそれだけで済んだ。髪に触れる。どのくらいにカットしてもらおうかな、とソファーに腰かけてファッション雑誌をめくっていると、担当らしき女性が来た。
「こ、こんに、ちは、本日担当させて頂きます栗宮です」
二十七、八歳くらいだろうか。目の下に隈があるのを縁の太い眼鏡で隠しているのにすぐに気づいた。蒼白といっていいほどの顔色のなかで、黒々とした眼が左右へ惑うのが見えた。
「カットですよね。こちらへ……」
と私を通そうとしたとき、髪を掃いていた三十代半ばくらいの美容師さんが笑いながら声をかけてきた。
「違うよ栗宮さん、そっち予約のお客様のお席!」
「あ、ご、ごめんなさい! すみません!」
お姉さんはわかりやすく動転した。あたふたと店内を見渡し、ほかの店員さんたちが指さす席を見つめた。あっちあっち、とみんな苦笑いしていた。いつも通りの光景らしい。
「ごめんなさい、こちらです……」
店の奥へ向けた左手の薬指に銀色の光を見つける。指輪だ。
「お姉さん、結婚されているんですか」
なんとはなしにそう尋ねたが、
「あ、ええと、ええ、そうですね」
返事はあいまいだった。椅子に座って高さを合わせ、クロスをかけてもらう。桃色のクロスは私の首にぴったりと添い、そこに違和感を残した。
「く、栗宮です。よろしくおねがいします。この雑誌、もしよかったらどうぞ……」
栗宮さんが差し出してきたのは家電の雑誌だった。裏返してみると、男性向けらしい登山用品の広告が載っていた。ツッコミ待ちなのだろうか、と思い様子を観察していると、栗宮さんは台車を運び、せっせとカットの準備を進めていた。
「あの……お姉さん」
「あ、はい! なんですか?」
「できれば料理の本とか、ファッションの雑誌とかがいいんですけど」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「ほかにないなら、これでも大丈夫ですよ?」
「栗宮さん! これ、これ!」
私と同い年くらいのスタッフさんがファッション雑誌を持ってきてくれた。栗宮さんもそうだけれど、みんな清潔な装いをしている。私のような無難な着回しで生きている人間には想像もつかないくらいクローゼットに服があるのだろうな。
「よ、よろしく、おねがいします……ずいぶん、と、長い、ですね」
「小学校からずっと伸ばしてきたんです。腰くらいまであるんです」
「そ、そう、ですか……どんなふうに、しましょう」
私は微笑んで言う。
「ばっさりやっちゃってください」
「ばっさり、という、のは」
「ショートカットにしたいんです」
美容室に行きたくない理由のひとつである「続けづらい会話」を彼女はせず、ほとんど無言でカットした。栗宮さんは天然っぽい性格のひとだが、仕事となると集中するらしかった。前髪をざっくり切られるようなこともなく、カットは続いた。けれど、時々気になることがあった。栗宮さんから確かな視線を感じるのだ。私は雑誌に目を通すふりをしながら、お姉さんがどこを見ているのか探ろうとしたが、結局それはわからず仕舞いだった。
「お、終わりました。じゃあ、洗髪いたしますので、こちらに……」
椅子をぐるりと回転させられ、店の奥へと体が向く。栗宮さんが案内した場所は、壁で仕切られた向こう側にあった。リクライニングのできる椅子とシャンプー台のセットが五つ並んでいたが、どれも使われていなかった。カットの空間とシャワーの空間が壁で仕切られているのは、リラックスのためだろうか。照明も落ち着いた色合いで、少し薄暗かった。いちばん奥の椅子に座らされ、徐々に背もたれが倒されていく。他人に自分の体を任せてしまうのは恐怖感とともに心地よさがあるな、と思った。
「お湯、熱くないですか」
「すんごい熱いです」
頭皮が溶けるかと思った。
「あ、ごめ、ごめんなさい。このくらいでどうでしょう」
「大丈夫です」
甘い香りが湯気に乗って鼻先に漂う。久しぶりに他人にしてもらうシャンプーは気持ちよかった。髪の間を流れていく栗宮さんの指は、想像していたよりも繊細だ。頭皮を浸す温かさと、耳元で聴こえるシャワーの音が階段を下るような眠気を誘う。顔に温かいタオルをかけられていると、余計に眠りが近づいてくる。
「終わりました……あの、お客様」
うたた寝から醒めた。短い眠りだった。髪から水の滴る冷たさにだけ現実感がある。シャンプー台から立ち上る湯気の温かさ。顔に乗せたタオルのぬるさ。私はちょっといじわるなアイデアを思い付いた。このひとのよさそうなお姉さんに眠ったふりをしてみよう、と思ったのだ。
「あの……」
恐々とした手つきで肩を叩かれる。
「あ、あの……お客様?……あの!」
最後に掛けられた声はやや強いものだった。
また、視線を感じる。今度ははっきりとわかる。
首だ。
今日はブラウスを着ていた。襟元のボタンをひとつ外していたから、そこはよく見えただろう。熱いものがそこに注がれる。たっぷりと時間をかけて濃縮したどろどろの廃液のような欲望。骨のような冷たさが喉元の皮膚に触れる。首に指の添う感触がする。直観で、このさきにあるのが死だとわかる。音が途絶える。栗宮さんの手指が私の首をわずかに絞める。まるで、プレゼントされた靴に初めて足を通したときのような気持ちだ。ぴったりのサイズ。栗宮さんの指は、私の首を絞めるのに適した形と大きさを備えていた。私はまだ反応しない。首を絞める手に、やや力がこもったが、それより先へは進まないようだった。
「ん……」
私が息を吐くと、手は怯えるように感覚から消えた。
「すみません、寝てしまっていたみたいで」
「……い、いえ」
「髪、乾かさないといけませんよね」
「そ、そうですね、こちらへ、どうぞ」
元の椅子へ戻るまでのあいだ、栗宮さんは何度も自分の両手の指を絡めた。ドライヤーをかけてもらうあいだ、私はずっとどきどきしていた。受付のお姉さんと栗宮さんが並んで見送ってくれた。すっかり軽くなった髪に満足しながら、私はすっきりした気分で冬の日差しのなかへ立った。
「あ。栗宮さん」
「はい」
栗宮さんは、死刑を告げられでもするかのように青ざめた表情だった。
「また来ますね。よろしくおねがいします」
「あ、えっと、はい……」
「どうしました?」
「い、いえ、なんでもありません」
よかったじゃん、と受付のお姉さんに肘でつつかれながら、栗宮さんは視線を足元にさまよわせた。あはは、と渇いた笑い。目が笑っていない。
「じゃあ、また」
私は店を離れる。階段を下りて歩き、ショーウィンドウに映った自分を見る。
見慣れない自分の姿がそこにあった。あんなに長かった髪が、もうそこにはない。白日に晒された首を見つめる。そこにあったはずの細いゆびさき。甘くて温かい死のにおいを思い出す。今ならどこまでも飛べる気がする。素晴らしい一日だ。死は私を浮遊させる。くだらない重力から解き放つ。私は家に帰る。とてもいい日だ。
こんなにも早く、私を解放してくれる人に出会えるなんて。
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