第16話 「二千年間、待ち望んでいました……」
それしか生き方を知らなかった。そのためにつくられた存在だったから。
「成功だ!」
初めて人の声を聞いた時、ずいぶん醜い音だなと彼女は思った。うっすらと目を開けると、視界の中で泡沫が躍る。全身になまぬるい感触がある。重力が弱いような感覚も相まって、意識がどこかふわふわと曖昧だった。
液体に満たされた円筒形の水槽の中、彼女は、一糸まとわぬ姿で浮かんでいた。
「意識が覚醒していく。クレオパトラのDNAが馴染んだのだな。他の美女のDNAでは失敗だったのに……。やはり全身をカワイイ細胞化するとなると、かの絶世の美女でなくては耐えられないということなのか」
小柄な男が興奮気味に手元のディスプレイを操作しているのが見える。彼女は、その醜さに辟易するような思いだった。世間一般の価値観と照らし合わせれば、男は特段醜いわけではないのだが、彼女からしてみれば塵のような存在であった。
塵を見下ろす彼女は、塵とは及ぶべくもなく美しい。
彼女は自らの美しさと、その使い方を最初から理解していた。
試しに、水槽の中で微笑んでみる。
その男が彼女の美に耐えうるほどの強靱な精神力を持っていたなら、あるいは彼女の運命は変わっていたのかもしれない。他者を支配することに酔い、女王などと名乗り、美の女神になるという考えには至らなかったのかもしれない。彼女がつくりだされた理由、すなわちカワイイによる世界平和の実現という理念を男が言って聞かせる余裕があれば、彼女はありえないほどまっすぐすぎる道を歩むことはなかったのかもしれない。
しかし現実にはそうはならなかった。
男は彼女のカワイイに耐えきれず、発狂した。
廃人同然になってへたり込む生みの親の姿。
それを何の感慨もなく数秒眺めてから、彼女は更なる美圧を解放した。
後日。
とある研究所で、心に傷を負った所員が十二名発見された。
研究対象となっていたホムンクルスの行方は、誰も知らない。
◇◇◇
高級ホテルの屋上にて繰り広げられる最終決戦は、着実に、終わりへと近づいていた。
女王の勝利による終焉へと。
「ネフェル・シェペト
迫り来る必殺技に備えて、星衣羅と葉湖が体勢を整える。
常人ならば見ただけで戦意を失う絶美が、呼吸よりも容易く女王から放たれる。
「〝氾濫を告げよ、星のセペデト〟」
「シャイニング・ロリータカラテ、土星ノ……」
「〝感涙に咽べ、ネフェルを仰ぐ民〟」
「〝ケメトの恩恵、デシェレトの荒廃〟」
「〝それは一切を寄せつけぬ美撃、熱砂を刳り抜くオアシスのように〟」
「くぅ……! なないろ・やまとなでしこカラテ……」
「〝冥闇にて泣け、葬送のネフティス〟」
「〝イオテルナイルの静謐なる青〟」
「〝美者の心臓、メアートの羽根、裁くは天秤〟」
「〝畏れ敬え、神の魂の館はひらかれた〟」
「〝愛と美を成し太陽導け、うつくしき母フゥトホル〟」
蹂躙であった。
続けざまに繰り出される美技は、ひとつひとつが美神クラス。
それは、涙目で相手のシャツの裾を引っ張り寂しさを訴えかける可愛さと、衣装の広袖を風にはためかせながら天真爛漫な笑顔で舞うあどけなさと、月明かりの差すベッドの上でブランケットにその裸身を隠しながら目を細める艶やかさと、決意の眼差しで自らの夢を凜然と見据える誇り高さと……それら以外の多種多様な美しさと。
この世のすべてのカワイイを集約し、凝縮したような、絶望的なまでの美であった。
「妾は……」
ボロボロの体でうずくまる星衣羅と葉湖を、睡蓮の花の上から見下ろす、女王クレオパトラ。
「妾は美の女神となり、崇められる存在となる。そのために生まれてきました。妾が女神となった暁には、全人類の価値観を上書きします。妾こそが唯一のカワイイであり、それ以外は醜い存在なのだと。そうして妾を中心に、すべてがひれ伏すのです」
「…………」
「あなたたちには、その礎となってもらいますね。女王直々に手を下される光栄に酔いながら、どうか、安らかに眠ってください」
そして女王は力を溜め始める。
かつてないほどの絶美圧。
本気を出した女王の、底知れぬ美。
星衣羅と葉湖は、おぼつかぬ足取りで、それでも立って女王を見上げる。
手を繋いだ。
「……星衣羅」
「葉湖……」
ふたりして同じ方向を見据えて、呟く。
「あの女王は、カワイイ。それは確かだ」
「そうですわね。でも、それだけですわ」
「体の全てがカワイイ細胞。ほんとなのだとしたら、すごいよ。でも……」
「ええ。その程度では、わたくしたちには、勝てない」
毅然としたふたりの表情を見て、女王は訝しむ。
「……あらあら? まだ戦意があるのですね。なぜですか?」
小さな体に大きな決意を漲らせながら、星衣羅と葉湖は応えた。
「あえて理屈をいうのなら……ぼくと星衣羅は、地下で拳を交えた。その時に、ぼくらは、変わった」
「わたくしは、葉湖にカワイイ細胞を。葉湖は、わたくしにアンチ・カワイイ細胞を打ち込みましたわ」
「互いの中にアンチ・カワイイ細胞がある状態。そこから、ぼくたちの中のカワイイ細胞は、アンチ・カワイイ細胞を吸収し、まったく新しい細胞になった」
「受け入れたのですわ。カワイクナイ一面を受容し、それをカワイイに昇華する力を得ましたの」
「その力は、自らをカワイイと思うほどに、そして、自らをカワイクナイと思うことでもその強さを増す」
「女王クレオパトラ。あなたの先ほどの攻撃は強烈でしたわ」
「ぼくたちが、自分をカワイクナイと思ってしまうほどに……」
そして声を合わせた。
「だからこそ!」
星衣羅と葉湖が指をぎゅうっと絡ませた瞬間。
ふたりの美圧が融け合って、女王の美圧に匹敵した。
ひとりひとりのカワイイオーラでは、女王に及ばない。しかし、ふたりならば。銀河の輝きをその身に纏い、ふたりの少女は毅然として女王を睨む。
そのカワイイは、新時代のカワイイ。
カワイクナイはそのままにしつつ、その部分さえもカワイイものとして捉え直すそれこそが。
新たな、真なる、罪作りなほどにカワイイそれこそが!
「Sinカワイイ細胞……! わたくしたちに宿るのは、誰もが手に入れることのできる、〝真のカワイイ〟なのですわっ!!」
女王には、理解ができない。
彼女にとって、そんなものはカワイイではなかった。
カワイイとは女王のことであり、女王以外はカワイイではなかった。ましてや、カワイクナイなどという不純物が混じったものなど。
ゆえに、不機嫌を隠しきれず眉をひそめ、この一撃で逆賊を葬らんと更に絶美圧を高めていく。
しかし星衣羅と葉湖も負けていない。
星空のカワイイ結界を増幅させ、宇宙を膨張させていく。
三人のカワイイオーラが空間をきらめかせるほどに凄まじく強くなった、その時であった。
「……!?」
「あれは!?」
「何ですの……!?」
白銀の閃光。
眩い白光が、夜空から降りてくる。
そのあまりの神々しさに、女王も星衣羅も葉湖も、一時的に視線を釘付けにした。
白光はまるで天空への
そして、きざはしを上ったところにあるその果てには、純白に輝く祭壇があった。
「あれはいったい……?」
「星衣羅! 祭壇の上を見て!」
「上ですの?」
星衣羅が見ると、そこには、何かが置かれていた。
何か、としか言い表せない。瞬きをするたびに形を変えているように見える。王冠のようにも見えるし、ネックレスのようにも見える。ピアスのようにも見えるし、ブレスレットのようにも見えた。それはひとつの形に留まらず、しかし、尋常ならざる神格を湛えている。
星衣羅も、葉湖も、女王も、本能的に理解した。
あれは神器だ。
美の神器だ。
三人の最高潮に達した美により、神界への門が開かれたのだ。
女王が自分以外のカワイイを零落させずとも、女王自身と星衣羅と葉湖のカワイイが合わさって空間に満ち、その総合美力が美神に肉薄した結果……
この三人は、女神となる資格を得た。
つまり。
「あれを手に入れさえすれば……」
女王クレオパトラが、妖しく目を光らせた。
「妾は、美の女神に……!」
睡蓮の花から跳躍する女王。もはや星衣羅と葉湖の姿は眼中にない。
「やばい! 星衣羅、女王を止めなくちゃ!」
「わかっていますわ! シャイニング・ロリータカラテ〝
「なないろ・やまとなでしこカラテ、明鏡止水〝まどあけてぬれたあおぞらあめあがり〟!!」
星衣羅が跳び上がって最速の技を出す。葉湖もその場からカワイイエフェクトのレーザービームを放つ。
しかしそれらは女王に到達する前にかき消えた。
「ネフェル・シェペト
女王の美技が、カワイイエフェクトを生み出す。
ふたつ発生したエフェクトは、女王自身の姿形となって、星衣羅と葉湖を相手取った。
「妾はあなたたちに構っている暇はないのです。あなたたちの相手は、妾の影にしてもらいますね」
「く……! 本体ではないのなら、このような分身程度……」
女王のふたつの幻影が声を発し、それぞれ星衣羅と葉湖に対して美撃を打ち込む。
「〝耕し齎せ、豊穣のイシス〟」「〝氾濫を告げよ、星のセペデト〟」
その威力は、女王本体に決して劣らない。星衣羅は空中で体勢を崩し、葉湖は防御に専念せざるを得なかった。
そうしている間にも、女王クレオパトラは天空のきざはしを一歩一歩、上っていく。
「くっ! このままじゃ……!」
「葉湖! わたくしに、力を!」
星衣羅の叫びに、葉湖はハッとして頷く。わずかな合図で、葉湖は星衣羅の意図を理解した。
「なないろ・やまとなでしこカラテ、為虎添翼〝きんいろのいなほのうみのこなみかな〟」
葉湖は金色の帯状をしたカワイイエフェクトを星衣羅に向けて放った。星衣羅の燃え上がる太陽のドレスの周囲を、金の帯がくるくると回転する。
受け取った金の帯を、星衣羅は自らの右腕に集めた。
右の細腕が、黄金に輝く。
カワイイオーラの高まりに反応したか、女王の幻影は星衣羅に一度に飛びかかった。
「〝畏れ敬え――――」「〝冥闇にて泣け――――」
しかし星衣羅の方が、
「〝
閃光が迸る。
昼と紛うほどの光の奔流に、女王の幻影は呑まれていく。
耐久力自体は本体ほどでもなかったようで、影は吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。
星衣羅と葉湖の合わせ技。対女王の奥の手として温存しておくはずだったが、この状況ではやむを得なかった。今は一刻も早く女王の女神化を阻止しなくてはならない。
美の神器を、手に入れさせるわけには――――
「星衣羅! 女王が……!」
「ああ……なんてこと……!」
女王クレオパトラは、既に階段を上りきり、祭壇の前に佇んでいた。
「……まだですわ! 女王はまだ、神器を手にしていません!」
「うん! 星衣羅、ぼくが道をつくる。きみは全速力で女王を……」
葉湖の声が途切れて、聞こえなくなった。
耳鳴りがひどい。
星衣羅は、何が起きたかわからぬまま、屋上の床に叩きつけられている。
ぱちぱちと目を瞬かせると、視界には、女王の幻影がひとつ。
巧妙に隠されていたのだ。
幻影は、あの時点で三つ生み出されていた。
役目を終えた幻影は消え、
そして。
屋上に仰向けに倒れた星衣羅と葉湖の視線の先で、女王が神器を手に取った。
「……ふふっ」
神器は、持ち主を定めたかのように、不定だったその形状をティアラの形に落ち着かせる。
「二千年間、待ち望んでいました……」
女王は、燦然と輝くティアラを両手に持ち、掲げた。
「クレオパトラたる妾が、女神になるその瞬間を……」
星衣羅と葉湖は、動けない。
もう間に合わないことは肌でわかった。
女神が誕生する。止められない。
脳の奥で讃美歌が鳴り響く。
きっと今この瞬間、全人類の頭の中で、それは歌われている。
最も新しき神を讃える、清らかな歌。
女神クレオパトラは、微笑んだ。
全人類の価値観が、書き換えられていく、その最中で――――
声がした。
「――――にゃんにゃんカラテ、拾ノ型。」
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