第7話 「ぼく……星衣羅のこと、好きだよ」

 千条院せんじょういん星衣羅せいらのファーストキスの相手は、女の子だった。


 星衣羅が小学三年生になりたての頃、ある日曜日のこと。大雨が降っていて、星衣羅は家でのんびりと過ごしていた。すると突然、幼馴染みから電話がかかってくる。虹ヶ峰にじがみね葉湖はこだった。出ると、電話口の彼女は「やあ、星衣羅。ぼくだよ」と前置きしたのち、こう言った。


「虹を探しに、行かないかい?」


 キザな言い方だった。星衣羅はちょっとジト目になった。


「……虹ですの? まだ雨が降っていますけれど……」

「天気予報だと、止むってさ。雨が上がったら、ぼくとお散歩しよう。虹が出てるかもしれない。さあ、行こう。虹を、探しに……」


 おかっぱの青髪をファッサーとしている様子が目に浮かぶ。やはりキザだった。とはいえ、ロマンチックですわ、と星衣羅は思った。つい頬が緩む。


「仕方がありませんわね。わかりましたわ、葉湖」


 葉湖は、通話越しにも笑顔がわかるような声色で「じゃ、公園で」と言い、切った。


 雨が止む頃に、公園の前で彼女と待ち合わせた。ふたりで街を歩く。他愛のない会話をした。日曜朝のアニメのこと。学校の授業のこと。人気YouTuberのこと。友達の恋路のこと。

 そして、カワイイカラテのこと。


 ふたりはこの頃から、カワイイカラテの実力をめきめきと上げていた。

 ビューティー・ロリータカラテの使い手である星衣羅と、やまとなでしこカラテの使い手である葉湖。その強さは地元の外へも伝わるほどだったが、それとともにふたりの仲の良さも伝わっているらしかった。星衣羅はちょっと気恥ずかしいような誇らしいような、複雑な気持ちになったものだった。

 そんな話をする中でも、ふたりは空を見上げて、虹を探し続けた。


「ところで……」


 散歩の途中、公園の丘の頂を目指して坂を登っている時のことだった。葉湖が青紫色の瞳をぱちくりさせながら新しい話題を出す。


「虹って、何で雨の後にできるんだろうね」

「それは、空気中に残った小さな雨粒が、太陽の光を七色に分解するからですわ」

「どういうこと?」

「水滴は太陽光に照らされるとプリズムの役割を果たすのですわ」

「よくわからないけど、星衣羅は物知りだね。さすがだ……」

「えへへ……それほどでもありませんわ。ん、てっぺんに着きましたわね」


 丘の頂は、周囲の住宅街よりも高く、ふたりのいる街を遠くまで見渡せた。雨上がりの世界は、水が滴っていて、きらきらと輝いている。

 光の中で、先に見つけたのは星衣羅だった。


「あっ、ありましたわ!」

「え、どこ? ……あ、本当だ!」


 東の空には、陽光にほんのりと照らされた雲が、まるで淡い花のようにふわふわと漂っている。その曇り気味の空に光のアーチが架かっていた。虹だった。ふっと吹きかければ消えてしまいそうな光に、星衣羅の瞳は釘付けになっていた。なんとなく口を噤んで、眺めていると、ふにゅ、と左手に柔らかな感触。

 葉湖が隣で星衣羅の手を握っていた。

 にこり、と向けられる葉湖の笑顔。

 星衣羅も、頬が熱くなるのを感じながら、葉湖の手を握り返した。

 幼い手と手が絡み合い、体温を交換する。

 ふたりで虹を見上げた。


「綺麗だね……」


 葉湖が小さく呟いた。

 星衣羅も、「ええ……」と頷く。


「…………」

「…………」

「……虹ってさ……」

「…………」

「虹って……よくわからないけど、太陽がないと、見られないんだよね」

「ええ、そうですわ」

「ねえ……星衣羅。それってさ。まるでぼくみたいだ」

「……えっ?」


 丘の上にはふもとから風が吹き上がってきていて、少し涼しい。葉湖の青色をしたおかっぱが揺れる。


「ぼくは星衣羅が友達でいてくれたから、楽しい小学校生活ができたんだよ。覚えてる? 星衣羅が可愛いからって嫉妬してる奴が、星衣羅をいじめようとした時のこと」


 一年生の頃の、星衣羅の椅子が教壇の上にひっくり返されていた、あの事件のことを言っているらしい。連鎖的に思い出す。あの後、母親から、美しき者とはなんたるべきかを諭された記憶を。

 太陽のような女の子になると誓ったあの記憶――――


「でも星衣羅は、犯人に対して毅然とした態度で立ち向かったよね。ぼくはその姿を、カッコいいって思ったんだ。だからぼくも、星衣羅みたいな、可愛くてカッコいい女の子になりたくて……。太陽だった。星衣羅は、ぼくを照らしてくれた。……何のことか、わかんないでしょ? でも、星衣羅がいたからぼくは……弱々しい光だけど、虹みたいに、ここにいられたんだよ」


 星衣羅は……

 何と言ったらいいのかわからなかった。

 言葉を探すけれど、当たり障りのないがらくたしか見つからない。ただ、全身のカワイイ細胞ひとつひとつが、嬉しくてきゅんきゅんするのを感じていた。


 太陽のような女の子になりたかったのだ。

 誰よりも、葉湖にとっての、太陽に。


 星衣羅が何か言う前に、葉湖は、告げた。


「ぼく、引っ越すんだ」

「……えっ」

「来月から、京都に行く。そこに、やまとなでしこカラテのすごい人がいるんだ。その人に師事することになると思う。……ほんとはもっと前から決まってたんだけど……言えなくって。ごめんね」

「葉湖……」


 葉湖が再び空を見る。星衣羅もつられて視線の先を追った。虹は、晴れの光が強くなるごとに、儚く消え去ろうとしている。


「寂しい」


 星衣羅の口からほとんど無意識に言葉がこぼれ落ちた。それをきっかけに、あふれ出す。


「……寂しいですわ。葉湖としばらく会えなくなるなんて。もっと早く言ってくだされば、わたくし……」

「ごめん……」

「……決めましたわ。これからは、思い出貯金をします」

「思い出貯金?」

「葉湖との思い出を有り余るくらいたくさんつくるのですわ! そうすれば、葉湖が行ってしまっても、ちょっとくらいは寂しくなくなるはず。葉湖も、わたくしがいなくても心細くなくなりますわ」

「……! そうだね。これからはいっぱい思い出貯金しよう。じゃあ、手始めに……」


 葉湖は目を瞑り、あごをほんの少しだけ上げ、そのまま動きを止めた。

 星衣羅は「?」のマークを頭の上に浮かべた。


「葉湖、なんですのそれ?」

「えっ? キス顔……」

「なんでですのっ!?」

「思い出貯金なので……」

「さも当然のことのようにキスをねだらないでくださる!? わたくしたち、女の子同士ですのよ!?」

「えぇー、イヤなの-?」

「い、イヤではないですけれどっ!」

「イヤじゃないならできるじゃん。そーれ、キッス、キッス」

「い……いい加減にしてくださいまし! キスなんて……キス……あぅ……」


 顔を真っ赤にしてわたわたと腕を動かしていた星衣羅だったが、やがて静かになり、視線を泳がせるだけになる。途中で具体的な想像をしてしまったのだろう。葉湖もまたその反応を見て、「あはは、じょーだんじょーだん……」と呟き、そっぽを向いた。


 そうして沈黙が訪れる。

 丘の頂に春風が吹く。

 ふたりきりで丘に立ち、気まずい思いをしながら、それぞれあさっての方を向いている。


 星衣羅はしきりに幼い指をもじもじと絡ませていたが、やがて、唇を開いた。


「葉湖は……」

「……?」

「女の子同士とか、関係なく……わたくしとキス、したいんですの……?」


 ふるりと震える、星衣羅の長い睫毛。ふにふにとした雪白の肌は、今は恥じらいのピンクに色づいている。そしてみずみずしい唇の間からは、熱っぽい吐息が漏れた。

 葉湖がこちらをじっと見てくるのを感じた。

 星衣羅もおずおずと目を合わせようとしたが、また葉湖に目を逸らされてしまう。


「ええと……ぼく……冗談のつもりで……」

「…………そ、そうですわよねっ。ごめんなさい、わたくしったら……」

「でも……」

「……でも?」

「ぼく……星衣羅のこと、好きだよ」


 星衣羅は、ぼっ、と顔を真っ赤にする。いよいよ葉湖の顔が見られない。そんな星衣羅に構わず、葉湖は恥ずかしい言葉を続ける。

 葉湖は余裕があるのだろう。

 なんだか悔しかった。


「星衣羅のこと、好きだし……好きな人と、ちゅーしたいって思うのは、当たり前だよ。女の子同士だからとか、関係ない。まあ、最初は冗談だったけど、でも、ちょっと興味が出てきちゃった。うん。ぼくは星衣羅と本気でキスしたい……かも」

「そっ……そんな、たちの悪い冗談……っ」


 星衣羅と葉湖の目と目が合った。

 葉湖もまた、耳まで紅潮させていた。

 余裕などではなかったのだ。

 もう、お互いに目は逸らせなかった。


 けたたましく心臓が鳴る。星衣羅は物心ついてから小学三年生になるまでを振り返っても、これほどまでに緊張したことはなかった。しかし、それは身が固くなるような緊張ではなかった。甘い衝動で体が満ちる。星衣羅は葉湖の、青紫の瞳を見つめる。吸い込まれそうだった。


「葉湖……」

「星衣羅。……いくよ」

「あ……っ」

「……星衣羅……」

「や……」

「……?」

「や、やっぱり、わたくし、こわいっ」


 未体験の感情に、星衣羅は戸惑い、うろたえた。


「わたくしも葉湖のことが好き……っ。で、でも……なんだかわたくし今、自分が自分じゃないみたいですの。葉湖のことが、いつもより、とっても可愛く見えますの……」

「星衣羅……」

「やっぱり、は、はずかしいっ……」


 小さな手で顔を覆ってしまう星衣羅。

 葉湖は、そんな大好きな幼馴染みに、母のような慈しみの目を向けた。


「……星衣羅。手をどけて」

「で、でも…………、………………っっ!?」


 千条院星衣羅のファーストキスの相手は、女の子だった。唇と唇がそっと触れあい、すぐに離れる。その幸せな感触を、星衣羅は決して忘れはしないだろう。ふたりはお互いに顔を真っ赤にさせ、葉湖は微笑み、星衣羅もまた、頬を綻ばせる。ふたりきりの丘の上で語り合ったあの日のことは、今でも星衣羅の心の中で、宝石のように輝いている。




     ◇◇◇




 星衣羅を乗せて猛スピードで走っていたバイクは、ある程度まで走った後に法定速度にまで減速した。運転手が追っ手は来ないと判断したのだろう。やがて、この前の荒々しい運転からは想像もできないほどの穏やかさで、バイクが停車する。

 そこは千条院家の邸宅の前であった。


「さ、星衣羅チャン。降りられる?」


 フルフェイスのヘルメットをしたボディースーツの女性が、優しく声をかける。星衣羅は赤いドレスをふわりとさせてバイクから降りた。

 それから女性の方をまじまじと見る。

 スレンダーで長身の女性は、ヘルメットのままで首を傾げた。


「なあに?」

「あの……あなたは……?」

「移動中にも言ったでしょう? 名乗るほどの者じゃないワ」

「でも」

「アナタには関係のないことよ。さ、今日は帰ってお風呂に入りなさいな。汗を放っておくと、お肌に悪いワよ?」

「……嫌ですわ」


 星衣羅が語気を強くする。目元にぐっと力が入る。


「あいにくわたくしは、自分が巻き込まれた事件について何一つ説明もされず『あなたには関係ない』と言われて、はいそうですかと引き下がれる女じゃありませんの。今ここで全て聞かせていただきますわ。わたくしは何に巻き込まれたのか。あなたと猫柳ねこやなぎまおさんは何者なのか。あの物悲しい、アンチ・カワイイカラテとは何なのか。そして……」


 ドレスの柔らかな生地にしわが寄る。

 星衣羅の震える指が、自分のドレスの裾をぎゅっと掴んでいた。


「……どうして、幼馴染みの葉湖が、わたくしを、襲ったのか……」


 星衣羅の瞳に涙が滲む。泣くまいと、必死で我慢しているのだろう。

 バイク乗りの女性は、『幼馴染みの』の部分を聞いて、ぴくりと反応した。

 それでもしばらく無言でいたが、やがて溜息をつくと、自分のフルフェイスヘルメットを外す。


「星衣羅チャン。アナタの疑問も、もっともだワ。アナタが知りたいのなら、アタシはその権利を否定しない。お望みとあらば、ここで、全てを教えてアゲル」


 あらわになった頭はベリーショートヘアで、顔は、どこかキツネめいてはいたが優しげな目鼻立ちをしていた。


「その前に自己紹介よね。アタシは屋久島やくしまイズミ」


 屈んで星衣羅の頭をぽんぽんと撫で、お茶目にウインクする。


「ビューティー・オネエカラテを極めた、最強のオネエよ♡」

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