第6話 「……わが、女王」
闇の中にいた。全身が気怠い。真っ暗で何も見えない。頭の上からコールタールのような泥がゆっくりと流れ落ちてきて、体全体を覆っていた。泥は視界を遮り、耳を塞ぎ、鼻と口に入り込む。何も見えない。何も聞こえない。でもなぜだろう、呼吸がとっても楽なんだ。ふと目を覆う泥に隙間ができて、外が少しだけ見えるようになる。そこも相変わらず闇だったけれど、遠くに、一筋の光が見えた。久しく見ていなかった光だ。なんなのだろう。この空間は太陽ですら照らせやしないのに。光の方から声がした。
『あなたはっ! わたくしの幼馴染み、
……。
そういう、きみは……
…………まさか……
途端に息が苦しくなった。口の中を、喉の中を、肺の中を満たす泥が、煮え立つように体内を焦がす。やめて。星衣羅なんか知らない。星衣羅って誰だよ。ぼくは……われは、アンチキューティーの次期幹部。コードネームはブルーシャドー。全てのカワイイを憎み、排斥する存在。なぜならわれは、カワイクナイのだから。息苦しさが薄れてくる。頭上から落ちてくる泥が量を増す。視界を真っ黒が塞いだ。何も見えない。何も聞こえない。でもなぜだろう、呼吸がとっても楽なんだ。
◇◇◇
夕暮れの街。
西の空は黄金に光り輝き、東の空は暗い。
街に佇むビルとビルの間で、両横の壁を交互に蹴り、ジグザグに上方向へ跳んでいくふたつの人影があった。
やがてふたりはビルの屋上に着地し、対峙する。
「さあ、これで一般人の邪魔は入らない。心置きなく戦えるにゃ」
にゃんにゃんカラテの使い手、
「それとも今から星衣羅ちゃんを追うかにゃ? ま、無駄だけどにゃ」
「問題はない。奴らはわれらの〝女王〟が追うだろう」
幼い声で返事をするのは、小四程度の体格をした黒衣の刺客。相も変わらず黒いパーカーのフードを目深に被っている。
まおが「にゃはっ!」と声を立てた。
「それこそ無駄にゃ。女王だか何だか知らにゃいけど、なんにせようちのリーダーはバカ強いから星衣羅ちゃんは安全にゃ。それに、あんたも余裕ぶってるけど、さっきのまおの〝化け猫デスエッジ〟をかわしきれなかったこと、もう忘れたのかにゃ~?」
刺客の少女は黙りこくる。彼女の黒パーカーは、右腕の部分が引き裂かれ、破れて、素肌が露出していた。
「だがその技はもう見た。――――次は完璧に躱す」
「猫被りを解除したまおの技は見切れはしないにゃ。――――次はフードを引き裂く」
西の空に輝く夕焼けの太陽が傾いていき、ビルの陰に隠れる。
それが合図だった。
「アンチ・カワイイカラテ、暗キ闇〝闇纏・醜毒躯体〟」
少女が闇のオーラを纏う。まるで少女の周囲だけが光の届かない暗黒空間になったかのようだ。近寄りがたい威圧感に、まおは思わず汗を滲ませるが、それでも決して目を逸らさない。
そしてここに来る前のことを思い出す。
(心那とアリスの見立てが当たっているのなら、不用意に近づくのはまずい……)
少女がズダンと音を立ててビルの屋上の床を蹴り、間合いを詰めてくる。暗黒の弾丸のように素早い攻勢。まおはそれを見て、カワイイオーラを研ぎ澄ます。常時発動中のカワイイエフェクトが、頭には猫耳、腰には猫尻尾、そして両手には猫爪の形となってまおの体を補強する。
げきおこ・にゃんにゃんカラテと、アンチ・カワイイカラテが、激突する。
「陸ノ爪!」
「死ノ闇」
その攻防は一秒にも満たない。少女が必殺の威力を込めた拳を引く。まおの猫爪エフェクトが縄張りに近寄らせまいと空間を乱れ裂く。しかし少女は空中で体を捻って回避し、引いた拳を放った。同時に猫爪も閃く。少女の一撃とまおの連撃が交錯する。
「〝首領猫・不侵の縄張り〟ッ!!」
「〝無明常夜・即殺〟」
少女のパーカーの胴部が、ずたずたに引き裂かれた。
まおのブラウスの左肩が破け、擦り傷の素肌が露出した。
攻防は、互角……
かのように見える。
(さっきの『次はフードを裂く』っていう宣言をミスリードにすることで何度か爪を当てられたのはいいものの……)
まおが傷ついた左肩を気にする。
そこには、醜い吹き出物ができていた。
そして……まおの体を纏ったカワイイエフェクトは、風で頼りなく揺らめく炎のように、消えかかっている。
(……心那とアリスの言っていたことは本当だった。アンチ・カワイイカラテは……相手のカワイイ細胞を殺すカラテ!)
内心冷や汗を垂らすまお。一方の少女も、腹から胸にかけて走る引っ掻き傷を押さえ、息を荒げている。今まで圧倒的な力でカワイイカラテ使いたちをねじ伏せてきた少女だったが、久々の傷に動揺しているようでもあった。
(まだお互いにかすり傷。このまま畳みかけるにゃっ!)
相手の精神が揺らいでいるこの好機を逃すまいと、まおが体勢低く疾駆する。
数々の技の中から、この状況に適した型を瞬時に選別。
敵が焦りを感じているなら、その穴を、更に広げてやる。
「壱ノ爪! 〝猫も杓子も乱れ打ち〟!!」
目まぐるしい連撃拳。普通のにゃんにゃんカラテの〝ねこパンチ〟よりも、一撃一撃が重く、速い。少女はその全てをいなし、受けきっているが、動きにはやや精彩を欠いている。直撃はしない。しかし衝撃を殺しきれない。
後退する少女が呻き声を発する。
屋上のペントハウスの壁に叩きつけられたのだ。
追い詰めた。
「終わりにゃあっ! 拾ノ爪――――」
「――――……っ!?」
とどめの一撃は、少女には当たらなかった。
いや、そもそもまお自身が放たなかった、の方が正しい。
まおは何度も大きくバックステップし、屋上の端まで後退した。
(……!? まおは何故こんな、逃げるような真似を……)
全身に鳥肌が立っていた。体中の感覚が警告を発している。だくだくと汗が流れ出る。息が苦しい。
落ち着け、状況を整理しろ。
黒衣の少女は何もしていないし、何も変わっていない。あのまま技を当てられれば、少女はダウンしていただろう。それは間違いない。しかし、技を放たず逃げたからこそ、まおの首は今も繋がっているのだ。そう思わせるほどの、何か心を竦ませる重力のようなものがまおを襲っていた。
少女の隣に、いつの間にやら異国の美女が立っている。
長身。肌は褐色。ゆったりとしたエスニックな衣装に包まれていながらも、丸みのある腰や豊満な胸からとめどなく色気を発していた。顔はヴェールに隠されてはいるが、時折、風になびいて口元だけがちらりと見える。その紅い唇は、常に神秘的な微笑を湛え、見る者の心を惑わせた。
そして、その
まおを遥かに凌駕し、底が見えない。
黒衣の少女が、震える声で、呟いた。
「……わが、女王」
あいつが。
あいつが、アンチキューティーの、女王。
まおはゴクリと息をのむ。おそらくあの美女がアンチキューティーのリーダーで間違いはないだろう。なぜここに……いや、そんなことは今はどうでもいい。二対一。あまりに不利。そもそも今回の目的は、黒衣の少女の足止めだ。これ以上の戦闘は避けなくてはならない。生還しなければ意味はないのだ。
思考を終えるまで、一秒。
すぐさま逃亡を開始する。
「〝
猫被り解除状態での不赦ノ構。砕ける勢いで床を蹴り、ビルの屋上を飛び出した。
まおの記憶は、そこで途切れている。
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