身の程を知らぬもの
幸運というものは時として、偶然よりもっと軽やかに……自分の方へ落ちて来るものだ。太陽の光に柔らかさが生まれる時間に、決まって少年と少女は私の下へやって来てくれた。
「今日はルールの復習だね」「今日はちょっとしたテクニックを教えるよ」と少女が実に楽しげな表情で言えば、少年は「うん」と無愛想に答えた。一見無表情な彼も、胸の内は踊らんばかりの喜びで満ちているのが私には分かった。
二人の来訪が続くにつれ、私はすっかり私の使い方を学び終えていた。
例えば、自駒と王駒には「罰則」が用意されている。誤って自駒を四隅の穴に落としてしまうと、それまで落としていた自分の的駒を一個、私の中心に置く。
万が一……手順を違えてしまい、的駒に先んじて王駒を落とした時などは、的駒を五個も置かなくてはならないのだ!
手厳しい罰則はその分、遊戯に制限と奥行きをもたらす。設けられた罰則を掻い潜り、いち早く勝利へ駆け抜ける――どの遊戯にも言える事だろう。何かを楽しむ為には、必ず罰則を添えるのが人間の癖らしい。
そしてこの罰則は――生来が不器用らしい少年を実に苦しめた。懸命に落とした的駒を、ほんの少しの至らなさによって、丸ごと私の中心に置く事は幾度もあった。
「あちゃー、やっちゃったねぇ」
失敗を茶化すような、少女の淡々とした声調が可笑しかった。嘗めて貰っては困ると言わんばかりに頬を染める少年は、指先に要らぬ力を込めてしまい……かえって罰則を喰らうのがお定まりだった。
ばつの悪そうな顔で首を傾げる少年を、少女は気持ち良くなる程に笑い飛ばした。最初は「少年の機嫌が悪くなるのでは」と冷や汗を掻いた私も、共に笑い出した少年につられて笑ったのは良い思い出だ。少年は無愛想だが性格は大らかで、特に自身の失敗を拗ねずに笑いの種へ変化させる特技を持っていた。
ある日、積み上げた的駒の一番上のみを、弾き上げた自駒で打ち落とすという曲芸を少女がやってのけた。凄まじい技術に驚く少年は、「自分も出来るのでは」と夢を見たらしく、すぐに少女の真似を始めた。
弾き上げた自駒は勢い良く飛んで行き、窓ガラスへヒビを入れてしまった。一瞬だけ少年は目を見開き、「やってしまったよ」と高笑いした。流石に狼狽していた少女も、楽しげな笑い声に負けてしまい、二人で腹を抱えて笑った。
少年が持ち合わせていた大らかさは、次第に少女の心をゆっくりと……それでいて力強く包み込んでいったのだろう。三人だけの特訓が(正確には二人だが)、確か一四度目を迎えた日だったろうか。私が見ても、そろそろ少年は「終了」しても良いぐらいに上達した頃の事だ。
「うん、これだけ上手なら他の人とも遊べると思う。後は実戦あるのみ、かな」
「本当に? 道のりが長かったなぁ、感謝するよ」
頻繁に笑うようになった少年と比べ、幾分か少女は潮らしい態度を取るようになった。決して不快そうに眉をひそめる事はしなかったが、それは特訓の時間が終わりに近付くにつれて顕著になった。
「何かあったのか?」
心配する少年に、何故か少女は突っぱねるような態度で「ううん……」と答えた。困ったような笑みを浮かべる少年を、つまらなさそうに見上げる少女の頬の色を、私はこの目でしっかりと認めた。
私の下へやって来た時と比べ、ほんのりと赤みが増しているのだ。人間の観察には自信のある私が言うから間違い無いが、少女は明らかに少年へ「好意」を抱いていた。
不器用で頼り無い少年の面倒を見る内に、少女の心にいつしか彼が居座り始めたのだろう。段々と……彼は頼んでもいないのに大きくなり、遂にはか弱い心の大半を、無遠慮に制圧してしまった!
この侵略行為を初めて受けたらしい少女が、余りに身勝手で無意識な少年の横暴に反発するのは仕方が無かった。
それでも……少年は時折笑い、少女の心に自らの征服旗を突き立てては、「具合でも悪いのか」と素知らぬ風に、いや、彼自身は気付いていなかったのだ。
少年と少女は、互いに惹かれ合っているという事を。
私は喜びと同時に――一抹の不安を抱いた。
後輩達と比べ、手入れの面倒らしい私を使い、彼らの間に温かな繋がりが生まれていた事実は非常に喜ばしい。しかしながら、二人は実を結ぼうとする若木に気付かず……。
「また、明日もやりたいな」
「……そうだね」
擦れ違いの為に、若木を枯らしかねなかった。
人間の特別な繋がり――愛とは何て脆く、手の掛かる存在だろうか。もし私に言葉が喋れるのなら、部屋を出て行く二人に一言だけでも言ってやりたい! 何度思った事だろうか。
君達、いい加減に気付きたまえ、と!
当然――私の叱言が彼らに届く事は無かった。左右に滑らかに動く戸がピシャリと閉まると、後は暗色が満ちていく部屋の中で一人……少年達の事を思うだけだ。
この時程、私は私の無力さに打ちひしがれた事は無い。
私など……平たい身体を人間に提供し、駒を弾かせて一定の罰則と共に楽しませ、その時間を共有する事が出来る、だけだった。
たったこれだけが出来るだけで、私はいつの間にか、人間と同じように――色々な事が可能であるかのように思い込んでいた!
少年少女の事を考え、二人の行く先を憂い、明日も来るのだろうかと不安な日々を過ごすだけの私に、一体何が出来るのだ!
いつの日かは分からない。
けれども木製の私は、必ず……朽ち果てる宿命だ。幾ら手入れを施されても、人間達に優しく扱われても、「結末」から逃れる事は出来ないのだ。
永遠が欲しかった。
その内に……端材としてバラバラになる事が恐ろしかった。少年達と関わってしまったが為に、私は人間といつまでも関係を持ちたかった。
同時に、どうしてか私が行える「思考」を止めたかった。
この建物の何処かにいるという後輩達は、私のように思い悩み、考え込む事が出来るのだろうか?
もしも、「思考」とやらが照明を点けるように、いきなり芽生えてしまうものだとしたら、私は是非とも警告しておきたい。
身の程を知っておけ、と……。
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