第715話 あの喫茶店

 奇妙な青年と出会ったその日の放課後、天也は気付くとあの喫茶店の前に立っていた。学校を出てから何処をどう歩いたのか記憶にないが、天也は苦笑いをするしかない。

「……無意識ってやつか」

 店の窓ガラスは気温差のためか曇っていて、中の様子は窺い知れない。それでもきっと、彼女はいるだろう。

 天也はドアノブに手をかけ、古めかしい扉を開いた。

 ――カランカラン。

「いらっしゃいま……何だ、きみか」

「何だはないでしょ、アイナさん」

「その名は呼ぶな」

 塩対応だが、塩原美里しおばらみさとことアイナは、きちんと天也を席へと案内する。仕事はきちんとこなすのだ。

 カウンターの奥では、この店の主人である塩原円しおばらまどかが「おや」という顔でこちらを眺めていた。

「いらっしゃい、天也くん」

「こんにちは、マスター」

「マスターか。……ふふ、何だかこそばゆいね」

 円は目を細め、天也向けのカフェラテを作り始める。ここに来る時はいつもそれで、いつの間にか注文せずとも出てくるようになった。

 カフェラテが出来上がるまでの間、天也は何となく店の中を眺める。普段この時間に訪れると、五組程の客で席が埋まっていのだが、今日は天也以外の客がいない。

 だからか、と天也は納得した。他の客がいる時、美里はここまでつっけんどんな塩対応はしないのだ。

(最初は塩過ぎて嫌われてるのかと思ったけど、ただこの人がそういう人ってだけなんだよな)

 むしろ、他人には猫を被る美里が自分には素で相対してくれる。それはかなり嬉しいことだった。

「五分くらいか。ずっと店の前に突っ立っているから、いつ声をかけようかと思っていたぞ」

「えっ、そんなにいたんですか……?」

「自覚はないだろうな、そりゃあ」

 クスクスと笑うのは、カフェラテを持ってきてくれた円だ。彼にも五分くらい立ち止まって虚空を見つめていたと言われれば、赤面するしかない。

「あぁ……。俺、変な人でしたね」

「……何かあったのか? いつもはすぐに入って来るのに、珍しい」

「あ……」

 店に客がいないからか、美里が天也の目の前の席に座る。四人がけを占領していた天也は、彼女の真剣な瞳にドキリとした。

「……美里さん、円さんも聞いてくれませんか? そして、アドバイスがあれば下さい」 

「それは、きみの話次第だ。今日はしばらくお客さんは来ないだろうから、ゆっくり話しなさい」

「その通り。話してみな」

「はい。実は今日、学校で不思議なことがあったんです」

 二人が真剣に聞く体勢になってくれたことに感謝しつつ、天也は昼間に出会った青年について出来るだけ細かく話した。張り紙のこと、それに関する青年の不思議な物言い、そして嫌な予感。

 天也が話し終えると、円と美里は顔を見合わせ考え込んだ。

「その若者は、異世界に……ソディールに興味を持っているということか?」

「それも、あまり良い意味ではないようだな。……こんなことを私が言うことではないだろうがな」

 美里の言葉に、円も肩を竦める。

 二人は以前、ソディールで『狩人』として銀の華と敵対関係にあった。魔種を駆逐するために行動し、数え切れない人々を傷付けた組織の一員だったのだ。

 現在は崩壊した組織から離れ、日本の地で名前を変えて喫茶店を営んでいる。親子に見えるが、血の繋がりはない養父子だ。

 しかし、天也には彼らが唯一銀の華を知る同志だ。誰にも相談出来ないことを話すことの出来る、たった二人の理解者である。

「だからこそ、二人に意見を聞きたい。俺は……あいつらのために何か出来ることがないかな?」

「相手が何者かわからない以上、軽率なことは出来ない。可能なら、その鍵開けイベントを中止させたいが……」

「難しいだろうな。あれだけ町中に張り紙をして、警察が動かないところを見ると、きちんと許可を得たイベントなんだろう。その邪魔をしたとなると、反対に訴えられかねない」

「ただ、何も力を持たない一般人を集めて適当に鍵を開けさせて、それで扉が繋がるものなんでしょうか……?」

 天也にとって、それが一番の疑問だった。

 レオラとヴィルアルトは、毎年五月十日にソディールと日本を繋げてくれると約束した。世界の創造主である彼らの約束を超えて、世界の繋がりを強制的に繋げることなど可能なのだろうか。

 少し考え、円が「可能性がないとは言い切れない」と応じた。

「日本だけの話ではないが、こちらの世界にも魔力を持つ者は存在する。発揮する機会がないまま終わることがほとんどだろうが、仮にその者がイベントにさんかしたとすれば、偶然にも道を開いてしまうかもしれない」

「……無理矢理にでも開くのなら、俺が開きたい。唯文たちに会いたいって気持ちは、この一年ずっと持ち続けているんだから」

「天也……」

 しんみりとしてしまった空気を変えようと、天也は「すみません」と言いながら苦笑いを浮かべた。

「俺が言いたかったのは、それじゃない。……当日、扉が開くのを阻止すれば、あっちに迷惑は掛からないですよね?」

「開かれる扉の中から、繋がる扉を探して開けさせないのか? そんな、幾つ用意されるかも何人が参加するかもわからないのに……」

「それでも、やらないと。あいつらのこと、守れる可能性があるのなら、それに賭けます」

 真っ直ぐに覚悟を述べる天也を見て、美里と円は肩を竦めた後に大きく頷いて見せた。

「我々に出来ることがあれば、遠慮なく言って欲しい。こちらも気を付けておこう」

「――はい」

 それから少し学校の話をして、会計を済ませて外へ出る。天也が外に出た時には、三日月がキラキラと輝いていた。

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