扉編
二つの世界
第712話 目覚めを待つ
リドアスへ帰って来てから、リンは眠り続けた。長期間毒という呪いをその身に飼い続けた代償は大きく、体が深い休息を必要としていたようだ。
「リン、朝だよ」
その間、晶穂は甲斐甲斐しく世話をした。カーテンを開け、水を口に含ませる。いつ目覚めるかもわからず、晶穂は不安の中でも決してそれを口にしなかった。
「兄さん、そろそろ起きないと晶穂さんを誰かに取られちゃうよ?」
ユキもまた、兄の目覚めを今か今かと待ち望んでいた。日に何度も兄の部屋を訪れては、様子を見ていく。そして夜は、兄の部屋で眠った。
二人だけではなく、ジェイスや克臣たちも気持ちは同じだ。誰かが部屋に行くと誰かがおり、互いに苦笑する。
「愛されてんな、俺らの団長は」
「そうだね。……目覚めたら、好きなもの食べさせてやらないと。お腹空かせてるだろうから」
「だな」
ジェイスと克臣は、留守の間に溜まったであろう仕事を片付けようと帰宅後翌日に集まった。しかしその心配は杞憂であり、ほとんど文里や真希たちが片付けてくれてた。それを知って二人して微苦笑を浮かべたのは、彼らだけの秘密だ。
一方、ジスターは翌日の昼前に一香に声をかけていた。何か手伝えることはあるかという問いに対し、一香は洗濯物を干すのを手伝って欲しいと頼む。
「手伝って下さってありがとうございます」
「……ああ」
そして現在、中庭で竿にハンガーにかけた洗濯物を干している。リンたちが帰って来たことで、泥や血で汚れた衣類が一気に増えたのだ。
パンパンとシャツのしわを伸ばし、ハンガーにかけていく。見様見真似だったジスターも、回数を重ねることでうまくなっていった。
「……でも、休んでいても良かったんですよ? 皆さん、まだ疲労が溜まっているでしょうから」
あと数枚で洗濯物を干し終わる。その時、一香が苦笑交じりにそう言った。
言われたジスターはきょとんとした後、肩を竦めてみせる。
「座っているのは性に合わない。それに、他の連中も何だかんだ理由をつけて、休んでる奴なんて一人もいないだろ?」
「ふふ。その通りですね」
ジスターの言う通り、旅に出ていた者の中で休んでいる者はリン以外にはいない。
「魔力は回復していないが、動くのに支障はないから。……それに、貴女にはきちんと礼も謝罪も言っていなかった」
「私にですか?」
今度は、一香がきょとんとする番だった。目を丸くする彼女に、ジスターは少しばつの悪そうな顔を背ける。
「その……世話してもらったのに、黙って出て行っただろ? 世話してもらった礼と、何も言わずに出て行った謝罪。あの時は、本当に助かった。感謝してる。それから、それなのに恩を仇で返すみたいなことして、申し訳なかった」
「……気にしてくれてたんですか。優しい人ですね、貴方は」
ふふっと控えめに笑う一香の様子に、ジスターはわずかに頬を赤くした。しかしそれを誤魔化すように咳払いをし、言葉を続ける。
「――優しくなんてない。前は、こんなこと考えもしなかった。誰かがどう思うかなんて、考えようとすらしなかった」
「ならば、きっと貴方は元々優しい人なんですね。今まで隠れてしまっていた分、これから貴方の本当が見られます」
「……オレの本当、か」
照れくさい響きだ。ジスターは思わず目元を緩め、それからそんな自分に気付いて最後の洗濯物を手に取り、はたいて竿に掛けてしまう。
「終わった。……オレは、鍛錬に行くから」
「いってらっしゃい。手伝って頂けて本当に助かりました」
「……ん」
洗濯かごを一香に預け、ジスターは足早にその場を去った。
そして、四日目の朝のこと。
「……ん」
意識を浮上させたリンは、ぼんやりと天井を見上げていた。ここは何処だと寝ぼけた頭で思い、思考が明確になるに従って現状を把握する。
「部屋、か。戻ってきたんだな」
――どさっ。
腕を天井に伸ばし、動かせることを確かめて上半身を起こす。まだ少しぼんやりとしながら起きようかと考えていた時、離れた場所で何かが落ちる音がした。
顔を上げて見ると、タオルや水の入ったコップを落とした晶穂が立ち竦んでいる。コップはガラスではなかったらしく、中身が溢れただけで割れていない。
「リ……ン?」
「晶穂、か。……その、おはよう」
「おはよ……っ。心配、したんだよ!?」
「な、泣くなよ」
その場に座り込み、晶穂がしゃくり上げながら泣き出してしまった。リンはベッドからゆっくり下りると、晶穂の前に膝をつく。彼女の涙を指で拭い、泣きはらした目じりに唇を触れさせた。
「――っ!?」
「お蔭で帰って来られた。ありがとな」
「そういうとこ……」
泣いただけではない理由で顔を真っ赤に染めた晶穂は、照れが勝ってリンにしがみつくように抱き着く。晶穂は知らなかったが、抱き着かれたリンは耳まで赤くして固まっていた。
「どうした、晶穂ー?」
物音に気付いたのか、克臣の声が耳に入った。その途端、リンと晶穂は即座に距離を取る。
「あっ兄さん!」
克臣よりも先に、廊下からユキの弾んだ声が聞こえてきた。彼は部屋に飛び込むと、床に座っていた兄にダイブするように抱き着く。
「ちょっ……ユキ!」
「マジで心配したんだからね!? 本当に、ぼくのせいで……っ」
「お前のせいじゃない。それに、ほら」
ユキの後頭部を撫で、リンは弟に袖をまくって自分の腕を見せる。そこには、数日前まで絡みつくように幾何学模様で埋まっていた。しかし今、きれいさっぱり消えている。
「もう、何もない。だから、大丈夫だ」
「――っ、うん」
ようやく笑みを浮かべたユキは、急に恥ずかしくなってすくっと立ち上がった。
その時、丁度克臣たちがやって来る。リンと晶穂は立ち上がり、ユキは表情を直して仲間たちを迎えた。
「目覚めたか、リン」
「よかった。何処も痛くないかい?」
「はい、ジェイスさん。心配をかけてすみませんでした」
「案じるのがわたしたちの仕事だ」
微笑む兄貴分たちの横をすり抜け、ユーギが飛び込んで来る。
「団長!」
「うわっ」
「団長。だ、大丈夫ですか!?」
「ユーギ、勢い付け過ぎだ」
春直と唯文が苦言を呈する中、ユーギに押し倒されたリンはもふもふのユーギの狼の耳を撫でた。
「心配してくれたんだろ、ユーギ。ありがとな。春直と唯文もな」
「何回死にかけたら気が済むんだよー。ユキは泣きそうだし晶穂さんも元気ないし、団長も起きないしで、心配なんてものじゃなかったんだからな!?」
「な、泣いてないし!」
「あはは、バレてたか」
流れで暴露されたユキと晶穂は、それぞれの反応でユーギの発言を裏付けた。
リンはしたたか打った後頭部に痛みを覚えながらも、抱き着いたままのユーギの背中を撫でてやる。幸いにも、床には柔らかいカーペットが敷かれていたために痛みは軽減されたはずだ。
「もう大丈夫だ。大丈夫だからな、ユーギ」
「……うん」
ぐすっと鼻を鳴らし、ユーギが顔を上げて笑った。そしてようやく、自分がリンにのしかかっていることに気付く。大慌てで立ち上がった。
「ごめん! 大丈夫、団長?」
「大丈夫だ。だけど、誰かに抱き着く時は勢いを弱めような、ユーギ?」
「はぁい」
「いい子だ」
立ち上がって差し出してくれたユーギの手を借り、リンは改めて立ち上がる。そして、遅れてやって来たジスターと一香も含めて眺めた。
「起きたんだな、リン」
「よかった。おはようございます、団長」
「ジスターさん、一香さん。ありがとうございます」
どことなく、ジスターの雰囲気が柔らかい。そんな変化を感じつつ、リンはようやく安堵を実感していた。
(帰って来られたんだな、俺は)
眠っている間、ほとんど夢を見なかった。毒は残滓もなく全て花の精が取り去ってくれたらしく、久し振りに目覚めが良い。
「ご心配おかけしましたが、もう大丈夫です。だから、今日からまたよろしくお願いします」
深々と頭を下げると、突然頭の上に何かが乗った。それが克臣の手だと気付いた時には、ぐりぐりと乱暴にかき撫でられている。
「ちょっ……」
「水臭いんだよ、お前は。丁寧ってことだけどな」
「種は、一香に頼んで結界の中に置いてもらったよ。リン、後で確認してきてくれるかい?」
「わかりました」
ジェイスに言われたリンが頷くと、一香も「あとで案内しますね」と微笑んだ。
そこへ、恥ずかしさを脱したユキが顔を出す。
「あ、まずはご飯食べようよ。三日間寝てたんだから、お腹空いてるでしょ?」
「……確かに。って、三日も寝てたのか」
「そうだよ、リン。……食堂に行こうか。大量に食べたら胃が驚いてしまいそうだから、おじやでも作ろうか」
「あ、ありがとうございます」
「手伝います、ジェイスさん」
「ありがとう、晶穂」
冬の朝、ようやくひと時の穏やかな時間が訪れていた。
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