第710話 もう大丈夫

 毒の象徴たる幾何学模様が、全て消えた。跡形もなく。

 しかし、暫くの間誰も動くことが出来なかった。呆然とした声が聞こえたのは、たっぷり十を数えた頃。

「……きえ、た?」

「……うん、復活はしないみたいだ」

「ユキ」

 春直、唯文、そしてユーギが口々に言い合う。ユーギに抱き着かれ、ユキはハッと我に返った。それと同時に宙に浮かんでいた幾つもの氷の壁が割れて消え、キラキラとした水滴だけを空中に残す。

「おわっ……たの?」

「そうだよ! もう嫌な気配はしないっ」

「そっ……かぁ」

 ほっと肩の力を抜いた途端、ユキはその場にしゃがみ込みそうになった。それを防いでくれたのは、傍にいた克臣だ。

「お前、一気に緊張が解けたな」

「あっはは……。そうみたい。ありがとう、克臣さん」

 克臣たちの手を借りて立ち上がったユキは、最も無事を確かめなければならない人を探して視線を彷徨わせた。それもすぐに終わり、つんのめりかけながら駆け寄る。

「晶穂さん、兄さんは!?」

「ユキ……」

 呼ばれて顔を上げた晶穂の目には、大粒の涙がたまっていた。もしかしてと一瞬最悪の事態が頭を過ったが、ユキにはそれが杞憂だとすぐにわかる。

「……兄さん、見せつけるじゃん?」

「そういう、わけじゃ……ないんだがな」

 目を真っ赤にしながら笑うユキに、目を覚ましたリンは弱々しく苦笑するしかない。彼のバングルが嵌められていた右手は今、晶穂の手を握っているのだから。

 晶穂に体を預けるようにして座っていたリンは、しゃくり上げる彼女の目元を指で拭った。

「ごめん。また、泣かせた」

「ほんとにね。……でも、帰ってきてくれたから良いよ。おかえりなさい」

「ただいま」

 リンもまた、少し泣きそうに顔をしかめる。バングルはいつの間にか壊れ、粉々に砕けた。袖やグローブは破れ、見るも無惨な姿だ。腕がむき出しになっており、赤い傷が生々しく表に出ている。

 晶穂がまた顔を歪めるのを目にして、リンは彼女に寄りかかったままであることに気付く。体は休息を欲しているが、まずは一度立つべきだ。そう思ったリンは、晶穂を見上げて微苦笑を浮かべた。

「ずっと支えててくれたのか。ごめん、退くから」

 そう言って立ち上がろうとしたリンは、足に力が入らずに座り込んでしまう。目を見開くが、それを見た花の精がため息を付く。

『だるくて当然だ。お前は今まで、毒を体に飼っていた。今それから開放されたとはいえ、消耗は激しいはずだ。体はだるいのではないか?』

「だるいが、立たないわけには……」

「それくらい、わたしたちが支えるよ」

 立ちたいんだろう? その柔らかな声が聞こえた途端、リンの体が浮き上がる。振り返れば、ジェイスが呆れ気味の笑みを浮かべて立っていた。彼が後ろから、リンの体を支えてくれたのだ。

「……すみません」

「これくらい、きみの苦しみに比べればどうということはないよ。……さて、花の精」

『何だろうか』

 話の矛先を向けられ、花の精は首を傾げる。

「まずは、礼を言わせて下さい。リンを助けて下さって、ありがとうございます」

『全ては、お前たちの頑張りの結果だ。私は、その最後の手助けをしたにすぎない』

「それでも……解毒をわたしたちがすることは出来ませんでしたから」

「――っ、オレからも言わせて下さい!」

 身を乗り出すように前に出たのは、必死な形相のジスターだ。彼はジェイスの横に立ち、深々と花の精に頭を下げる。

「兄の凶行を止められなかった……その罪滅ぼしの気持ちで一緒にいたが、どうしたらリンから毒を抜けるのかわからなかった。だから、貴女には心から感謝しています」

『……お前が心から己の行動を悔いているのなら、これからも彼らと行動を共にすれば良い。お前が彼らと出会ったことは、偶然ではないのだから』

「――っ、はい」

 顔を赤くして、ジスターは真っ直ぐに花の精を見つめた。そこに迷いはなく、花の精は満足げに頷いて見せる。

『さて、私は再び眠ろう。眠ることでしか、この花畑を負の存在から守ることが出来ないのでな』

 ぐるりとリンたちを見回し、花の精は柔らかく微笑んだ。

『お前たちの迎えを呼んでおいた。光の洞窟を抜け、出迎えてやれば良い』

「迎えって……まさか、シンを?」

『その通りだよ、神子』

 ふふっと笑った花の精は、最後にとリンの目の前にやって来た。手のひらサイズの精霊は、くるりと宙返りして見せる。

『求める者よ。これにて、試練は終わった。体を休め、また立ち上がれ』

「はい。ありが……」

 ガクリ、とリンの体から力が抜ける。幸いにもジェイスが支えていたため、倒れることはなかった。

「兄さん」

「リンっ」

「二人共、大丈夫だ。眠っているだけだから」

 ジェイスの言う通り、リンは規則正しい寝息をたてて眠っていた。ユキと晶穂がほっと胸を撫で下ろすと、二人の頭を克臣が撫でる。

「もう大丈夫だって思って、気が抜けたんだろ。……ジェイス、背負うから手伝ってくれ」

「わかった」

 克臣がリンを背負うと、花の精はふっと笑った。

『さらばだ、求める者たちよ』

「はい。……おやすみなさい」

 晶穂が挨拶をすると、花の精は頷き目を閉じた。そのまま空気の中に溶けるようにして姿を消した花の精を見送り、一行は洞窟の外を目指して歩き出す。

「……咲いていて、きっと」

 いつの間にか、銀の花畑は花でいっぱいになっている。風に揺れる花々を目にしてそう呟き、晶穂は先に行った仲間を追って行った。

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