第656話 黒い煙を切り裂いて
晶穂が眠りについてしばらく後、リンが台所へ繋がる居間へとやって来た。寝ようとしたが喉が渇き、水を飲もうというのが理由だ。
「……寝てる、な」
薄暗い部屋の中、小さな寝息が聞こえる。起こさないようそっと部屋に入り、コップに水を注ぐ。何度かに分けて飲み干し、コップを洗ってひっくり返して置いておく。それから再び部屋の出口に戻ればよかったが、リンはそっと回り道をした。
(かわいい。……いや、何を考えているんだ俺は)
ソファの背もたれ側から覗き込み、リンは素直な感想が頭をもたげてきて眉間にしわを寄せた。晶穂は起きている時よりも幼い顔をして、規則正しい寝息をたてている。
さっさと部屋に戻って寝なければ、明日以降に支障をきたす。それは重々承知しているが、リンは足音を忍ばせてソファの前側へと移動する。行儀が悪いと知りつつも、手前のテーブルに腰掛けて晶穂の寝顔をじっと眺めた。
「……あ」
寝相の良い晶穂は、ソファから落ちる心配はない。しかし少し顔を背けた拍子に、顔に長い髪がかかった。
リンはほとんど考えることなく、そっと晶穂顔に手を伸ばす。そして顔にかかった髪を払った。
(よし。……そろそろ寝るか。起こしたらいけないしな)
晶穂がぐっすり眠っているのならば、それで良い。リンは物音に気を付けながら立ち上がり、その場から立ち去ろうとした。しかし、何かに服が何かに引っかかって進めない。
「何が……って」
引っかかっていたものの正体に気付き、リンは言葉に詰まった。
ベタなのはわかっている。けれど、仮にも恋人が無意識に自分の服を掴んでいたら驚くと同時に少し嬉しさも感じる。
(って、俺も大概だな)
数年前の自分が聞けば引きそうだ、とリンは苦笑を浮かべた。
そっと晶穂の指に触れ、相変わらず細いそれを自分の服から外していく。
「晶穂、指離してくれな? このままじゃ俺が寝られ……うおっ」
ガタンッと大きな音がした。自分がテーブルを蹴った拍子に出た音だと気付いたが、リンはわずかに動いてしまったテーブルを元の位置に直すことも足をさすることも出来ない。何故ならば、晶穂に抱き締められていたから。
「――っ」
かろうじて晶穂を潰すことは右手でソファの背もたれを掴むことで回避したが、リンは晶穂に覆い被さる形になって硬直する。彼女の手がリンの服の裾を引っ張って、リンがバランスを崩したのだ。
(びっくりした……)
目の前には、晶穂の寝顔がある。あと数センチで、互いの唇が触れてしまう距離だ。リンはふとその柔らかな唇に触れたい衝動に駆られたが、理性を総動員して耐える。そしてそろそろと体をずらし、晶穂の腕をゆっくり外して彼女の横に体を横たえた。
このソファは下にもう一つ足置きにもなるソファが隠れていて、引き出せば寝転がることも出来るから二人寝ることも可能。そんなことを、ニーザが食事の席で言っていた。晶穂が事前に引き出しておいてくれたお蔭で、リンが横になれる場所がある。
(なんか、仕組まれてた感があるが……)
眠気に勝てず、リンはそのまま目を閉じる。相変わらず晶穂は手を離さないが、眠っていれば気にならない。リンは眠気で回らない頭でそう結論付け、睡魔に身をゆだねた。
夢の中だとわかる。周囲がやけに現実感のない白濁とした空間で、自分が先ほどまで横になっていたと知っているから。
「……わりと鮮明な夢だな」
白濁として、掴みどころがない。しかし、何か敵意のようなものをひしひしと感じる。リンはいつでも戦える心の準備をした上で振り向いた。
「成程。いつでもお前の首を狙っているってか?」
リンの首に、黒い煙のようなものが巻き付いている。その出所は不透明で、宙の中に消えていた。煙には当然触ることは出来ず、空手になるが締め付けに抗い自分の首を傷付ける。
「――っ」
ガリ。リンは顔をしかめ、忌々しげに煙の果てを睨む。手の爪に赤いものが付き、首に自ら切り傷を作った。
「……俺を殺したいんだろうな。それがお前の願いだから。でも、願いを叶えることなんてさせてたまるかよ。俺には、共に生きていきたい人たちがいるんだ。だから」
手のひらから、使い慣れた剣を出現させる。夢の中で実体はないだろうが、同じく実体のない呪いを一時的に退けることくらいは出来るだろう。
じわじわと、呪いを示す痣が広がろうとする。首元に焼け付くように広がろうとするそれを止めたのは、リンを守る白い光の
「……ありがとな」
痣と拮抗する力を見せる種と光に、リンは囁くように礼を言う。光からは温かさが感じられ、リンにとっては仲間と共にいる時のような安心感がある。
だから、とリンは痛む胸を押さえて顔を上げた。
「お前の思い通りには、事を運ばせないぞ。――イザード」
挑む相手は、リンに呪いを残していったサーカス団の支配人。黒い煙はジジ……とくすぶるような音をたてて人の影に形を変えた。
リンは手にした剣を構え、不安定な地を蹴って刃を叩き下ろす。同時に煙は四散し、リンは再び白濁の中に取り残された。
「……くっ」
ガクッと膝をついたリンは、ゆっくりと周囲の景色が薄まっていくのを見ていた。それが夢の終わりだとわかり、再びやって来た睡魔に身をゆだねる。
不意に左手に優しい熱を感じて、リンの口元が緩む。彼を内包したまま、夢はその姿を消した。
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