第639話 誰にも見られないように

 リンは黒いグローブを外し、両腕を月へ掲げる。指の先端まで広がった唐草紋様のような黒い痣が、月明かりに照らされて影になった。

「……また、広がってるな」

 腕を下ろし、袖をまくってみる。毎晩風呂で確認はしているが、何度見ても気持ちが冷え込むような感覚に陥ってしまう。

 袖を戻し、シャツの裾を掴んで上げると、しなやかな体躯が露わとなる。細身ながらも鍛えた体に、まるで刺青のような模様が浮かび上がっていた。それは腕に描かれているものと同じで、今や足の付け根まで広がっている。

(……これが全身を覆えば、命はない)

 何度目だろうか。悪寒に似たものが全身を駆け巡る。いつからか、リンは仲間たちと離れることが怖くなっている自分に気付いていた。一時的なものならば良いが、永遠となれば回避するために何が出来るかと懸命に探す。

「昔は、そんなこともなかったんだけどな」

 自嘲気味に笑い、シャツの裾を整える。この感情が『弱さ』ではないと思っているが、いつ『弱さ』となるかわからない気持ちであることに間違いはないだろう。

「……戻るか」

 そろそろ戻らなければ、ジェイスたちに心配される。リンは月を見上げ、それからニーザの家に戻るために振り返った。

 そして、視線の先にいる影に目を見開く。夜風に明るい灰色の髪が揺れた。

「――晶穂、いつから」

「少し前、かな。リンがその……シャツを上げてるところから」

「……悪い、変なもの見せたな」

 晶穂に見られていたとは。一気に羞恥心が駆け上がって来て、リンは顔を横に逸らす。不可抗力とはいえ海でもないのに男の体を見せる等、ただの犯罪ではないか。

 しかし、晶穂はぶんぶんと首を横に振った。

「そんなことないって言うのも変かもしれないけど、そんなことないよ。背中を痣が覆っていて……胸が苦しくて」

「な、何でお前が泣くんだよ。晶穂」

「あ、あれ?」

「ったく」

 ぽろぽろと涙を流す晶穂の瞳を綺麗だと思う間もなく、リンは彼女に駆け寄ってその目元を指で拭う。それでも零れる涙は止まらず、どうして良いのかわからず困ったリンは、一瞬迷ったがそっと両腕を差し出す。

 そのまま一歩晶穂に近付き、彼女の体を包み込んだ。

「――っ」

 晶穂の息を呑む気配が伝わってきたが、リンはそのまま彼女の背中をとんとんと叩く。

「大丈夫、大丈夫だ。俺はこんなことで絶対死なないし、晶穂たちが死なせはしないだろう? だから、そんな顔して泣かなくて良いよ」

「う、んっ。おかしいな、わかってるんだよ? リンを死なせはしない、何が何でも絶対に。でも、どうしても……悔しくて、辛くて。こんなに弱い自分、とっくに置いて来たと思ってたのにな」

「ああ、そうだな。……俺も同じだ」

「えっ?」

「晶穂にこうやって触れてるだけで、酷く安心する。それくらいには、自分に起きていることが怖いよ」

 本当のことだ。リンは「月しか見てないから言うけど」と苦笑する。こんなキザめいた言い方、普段はしようとも思わない。

「毎晩毎晩、風呂に入る度に怖い。今日は何処まで広がっているか、踏み止まっているか、そういう考えが頭を掠めて止まらない。もしかしたら、ジェイスさんや克臣さんは気付いてるかもしれないけど、何も言わないだけだろうな」

「一番怖いのはリンなのに……わたしが泣いてたらダメだよね」

「……俺は、そうやって泣いてくれる人がいるからまだ泣かずにいられるんだと思う」

 ごめん、ありがとう。リンはそう晶穂の耳元で呟くと、一際強く彼女を抱き締めた。

 晶穂も耳まで真っ赤にして大人しくしていたが、おずおずとリンの背中に手を回す。そんな控えめで恥ずかしがり屋な彼女が可愛くて、リンは心臓の音を耳の近くで聞いていた。

 人通りも人目もない、月明かりが注ぐ薄明るい場所。建物の影になって、近くを人が通っても静かで気付きはしないだろう。

「……」

「……」

「……晶穂、もうちょっと充電させてくれ」

「バングルの魔力、増やす?」

「そうじゃない」

「ふぇ?」

 きょとんと目を丸くした晶穂から少し離れ、リンは彼女の頬に触れる。ピクッという彼女の反応が愛しくて、淡く微笑んだ。

「目、閉じててくれ」

「……っ」

 触れるだけのそれは、たった一度だけ。

 惜しむように離れ、二人は互いを正面から見詰めた。

 徐々に晶穂の顔に赤みが差し、ずるずるとしゃがみ込む。顔を隠してしまった彼女の前にリンがしゃがむと、小さな文句が聞こえてきた。

「〜〜〜っ、ずるい」

「普段かなり我慢してるんだ。……弱った時くらい、彼氏っぽいことさせてくれ」

 リンとて、恥ずかしくないわけではない。今も心臓は苦しいくらいにドクドクと鳴っているし、手も震えている。

 晶穂は組んだ腕に顔を埋めたまま、うぅ……とうめきながら続けた。

「いつも照れてそんなこと言わないししないのに」

「俺だって……。もしかして、嫌だったか?」

「そんなことっ!」

 勢い良く顔を上げた晶穂は、覗き込んでいたリンと間近で目が合って固まる。大きく見開かれた瞳に映る自分を見て、リンは苦笑いを浮かべた。

「そんなこと?」

「そんなこと……ない。緊張して、固まっちゃうけど、本当に嬉しくて幸せで……大好きって思う、よ?」

 暗がりの夜の光の中でも、晶穂の林檎のように赤い顔はよく見える。ふと気付くと、晶穂はリンのシャツの裾を指でつまんでいた。震える声で答えを言う晶穂の姿に、今度はリンが色々な意味で打ちのめされそうになる。

「……可愛すぎる」

「え?」

「何でもない。そろそろ戻ろう、みんなに心配されそうだ」

「うん」

 再びグローブをつけるリンを眺めていた晶穂は、先に隠れてしまった彼の左手をそっと取る。無言で驚くリンに構わず、晶穂は彼の手を自分の手で包んだ。

「後四つ。必ず、全て手に入れよう。こんな痣なんかに負けない」

「勿論だ」

 リンと晶穂は笑い合い、ニーザの家の前までは手を繋いで帰って行った。当然のように、玄関に触れた瞬間に手を離して。


 翌日、リンたちはアルシナたちからもう一つの種に関する話を聞くことになる。

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