第603話 草介の話

 食事を終え、リンたちは改めて歩き出した。滝の轟音は離れる毎に小さくなり、やがて静かな森の音のみが聞こえるようになる。

 人の使う道を辿って行くと、時折商人や旅人らしき人々とすれ違う。彼らはリンたちが物珍しいのか、ちらりと横目に見て通り過ぎて行く。目が合えば、リンたちも会釈を返した。

「何だか、和やかですね」

「そうだな、春直。こう落ち着いていると、現状を忘れちまいそうになるが……」

 春直に言葉を返しながらも、克臣の目は油断ない。口は軽くふざけているが、態度は落ち着いていた。

 やがて道幅が広がり、人の暮らしのにおいが漂って来る。いち早くそれに気付いたサラとユーギが、ほぼ同時に指差した。

「もうすぐ人里です!」

「人の気配がするよ!」

 二人の言葉に頷き、エルハがリンを振り向く。

「そろそろ、北の集落ですね。前に調査に来た時に村長と会いましたから、挨拶に行きましょう」

「わかりました。案内をお願い出来ますか?」

「ええ」

 頷くエルハを戦闘に、一行はノイリシア王国の北の集落へと足を踏み入れた。


 北の集落は王国中心部よりも体感気温が低く、ユーギと春直、唯文が耳やしっぽの毛を逆立てた。寒かったらしい。

 集落という名が示す通り、その人口は三十人程。エルハによれば、老若の比率は半々らしい。

 寒さに適応し、住宅は全てレンガ造りで赤色の壁が鮮やかだ。リンたちは集落のメインストリートになっている坂道を上り、その上に建っている村長の家を訪ねる。

 エルハがドアに取り付けられたインターフォン代わりの木製の輪でドアをトントンと叩くと、中から「誰だ?」としわがれた男の声が聞こえた。

「こんにちは。村長、お久し振りです。王都から来ました、エルハルトです」

「おお、お前さんか」

 エルハが名乗ると、中からガチャッと鍵を開ける音が聞こえた。すぐにドアが開き、白髪の犬人が姿を見せる。

「こんにちは、村長」

「久しいな、エルハルト殿。……はて、そちらの方々は?」

 首を傾げる村長に、リンは深々と頭を下げた。

「はじめまして。ソディリスラで自警団、銀の華の団長を担っているリンと申します」

「これはこれは、ご丁寧に。銀の華というと、こちらでも名は聞いたことがありますよ。なんでも、王城と関係が深いとか?」

 新参者のリンたちに対し、村長は探るような目で見返す。それに対し、リンを庇うように前に出たエルハが貼り付けた笑みのままで村長との会話を続けた。

「ええ。僕が、以前この組織にお世話になりまして。……実は前回もお話ししましたが、蝶陽炎についてもう一度教えて頂けないかというお願いでして」

「成程、そういうことならば。入りなさい、客人たち」

 長老に招き入れられ、リンたちは彼の住まいへと足を踏み入れた。

「ワシの名は草介そうすけ。きみはリンと名乗ってくれたが、仲間たちの名も教えてくれるか?」

「はい」

「ご挨拶が遅れました。わたしはジェイス。そして……」

 ジェイスが紹介する形で、晶穂たちも丁寧に頭を下げて行く。彼らのきちんとした態度に、草介は驚いた様子だった。

「ふむ。最近の若者の認識を、また改めねばならんようだな」

 エルハルト殿といい、面白い。そう言って声を上げて笑った草介は、客人たちを残して部屋を出て行った。

 草介の足音が遠退いてから、晶穂はほっと胸を撫で下ろす。隣に腰掛けたリンに笑いかけた。

「よかった。印象は悪くなかったみたいだね」

「だな。……エルハさん、紹介して下さってありがとうございます。先に来て下さっていたから、スムーズに受け入れてもらえました」

「例え僕が先陣であっても、きみたちの態度が悪ければ追い返されたよ。まあ今回は、両方のタイミングが良かったってことだね」

 柔らかく表情を崩し、エルハが応じる。

 それから暫くして、草介が大きめのお盆を持って部屋に入って来た。幸い引き戸であったために開けるのにはそれ程の苦労はなかったようだが、最も戸に近かったサラが立ち上がって草介の手からお盆を受け取る。

「草介さん、お茶をありがとうございます。後はあたしが」

「おお、良いのか。助かる」

「サラさん、こっちに回して下さい」

 春直も腰を上げ、半分の量の湯呑みの乗ったお盆を受け取る。そこから自分側に座っていた人数分の湯呑みを机に置き、お盆はどうしようかと視線を彷徨わせた。

 すると、見かねた草介が「ほら」と手を差し伸べる。

「それはワシが貰おう。手伝ってくれてありがとうよ、少年。いや、春直と言ったか」

「はい、草介さん」

 名前を正確に呼ばれた春直が笑顔で返事をすると、草介も表情を和らげた。彼はお盆を近くの棚の上に置くと、自分のソファに腰掛けて身を乗り出す。

「さあ、昔話を聞きたいという話だったな。しかも、銀の蝶の話を」

「銀の蝶、というんですね」

 花ではなく、蝶というのがこの集落に伝わる話なのだろう。リンたちが真剣な顔で聞く体勢を取ると、草介はゆっくりと語り始める。

「この集落には言い伝えが幾つかあるが、銀の蝶は最も古い話の一つだ。ただ美しいだけではなく、目を奪われてはいけないという注意喚起が主な目的だがな」

「何処かに連れていかれるとか、危険な目に合うとか、ということでしょうか?」

「鋭いな、リンとやら。話が早い。十数年に一度、蝶陽炎として現れる蝶について行ってはいけない、と大人たちは子どもに言うんだ。魅入られてしまえば、二度と言えには戻れないから、とね。悪いことをした子どもへの常套句さ」

 ワシも幼い頃は言われたよ。そう言って苦笑した草介は、軽く息をつく。

「昔から、これは常套句だった。ワシもそう何度も蝶陽炎を目の当たりにしたわけではないし、対処の仕方を知っているわけでもない。だが……お前たちは用事があるんだろうな」

「……はい」

 じっと草介に見詰められ、リンは頷く。何十年かに一度しか姿を見せない蝶陽炎。その蝶が守護ではないかと考えたリンは、草介に鞄の中に入れていたノイリシアの地域毎の地図を広げて見せた。幾つかある中で、北の集落周辺のものである。

「草介さん、最近蝶陽炎が現れた場所を教えて頂けませんか? 大体で構いません」

 リンの頼みに対し、草介は少し考える様子を見せてから正面を向く。指が広げられた地図の道を辿る。

「……この辺りは、地元の者が道案内をしなければ危ない。だから、行くならば早い方が良い」

「え。案内して下さるんですか?」

「そうだ」

 善は急げ。動き始めた草介の後を追い、リンたちは草介の自宅を出た。

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