第600話 蝶陽炎
幾つもの廊下と階段を経て、リンたちはイリスの執務室前へと辿り着いた。サラが代表してノックすると、中から「どうぞ」という落ち着いた男の声が聞こえる。と同時に、何か書類の束が床に散らばる音も聞こえた。
サラ以外のメンバーは顔を見合わせ、リンも扉に伸ばした手を止める。
「……これ、入って良いやつ?」
「良いと思います。失礼しまーす!」
「サラ!?」
晶穂が止める間もなく、サラは遠慮なく部屋に入り込んだ。彼女の後ろから室内を覗いたリンは、散らばる書類を集めるエルハの姿を目にして、何かにぶつかられて下を向く。そこには、小さな少女の頭があった。
「リンおにいちゃん、いらっしゃい!」
「ノエラ姫……?」
「そう!」
思いがけない出迎えに目を丸くしたリンが尋ねると、ノエラは子どもらしい笑みを浮かべてリンに抱き付いた。
リンも驚きつつ、膝を折ってノエラと同じ目線の高さになる。嬉しそうなノエラの姿に、こちらも表情が緩んだ。
「久し振りだな、ノエラ姫。元気にしていたか?」
「元気だよ! サラおねえちゃんたちの言うことちゃんと聞いて、お勉強も頑張ってる」
「そうか、偉いな」
そう言って頭を撫でてやると、ノエラは「えへへ」と顔を緩ませる。更に彼女は誰かを見付け、そちらへと駆けた。
「晶穂おねえちゃんだ!」
「わわっ。ノエラ姫、危ないよ」
注意しつつ、晶穂はノエラを抱き締める。ノエラも抱き付き返し、ふわふわの髪をなびかせくるっと一回りした。
「今日、みんなに会えるって聞いてたから、早起きもしたの! それで兄上のお部屋に来たんだけど……」
「ノエラ、少しお転婆が過ぎるよ」
そう言って肩を竦めたのは、書類を拾い終わったエルハだった。イリス殿下の義弟という身分ではなく、彼の側近として王城にいる。最初こそ周囲の役人たちからは遠巻きに見られていたが、エルハ自身の努力と人柄が理解されるにしたがってわだかまりも徐々に薄らいでいった。
今では、敏腕な役人として一目置かれている。
エルハにため息をつかれ、ノエラはしゅんっと肩を落とした。ごめんなさいと呟く妹に、兄が助け舟を出す。
「まあまあ、エルハルト。ノエラも最近頑張っていたし、もう書類の多い部屋で飛び跳ねることもしないだろう。一度目だ、大目に見てやってくれ」
「兄上は、ノエラに甘いですよ」
苦笑するエルハは、兄の顔を立ててこの話を終わりにした。それよりも、とリンたちに視線を向ける。
「久し振りだね、みんな。立たせたままで申し訳ない。好きなように座って」
「ああ、久し振り。お言葉に甘えるよ」
イリスの執務室は広く、部屋の中央に合わせて十人は余裕で座ることの出来る大きなソファーが四つ置かれている。その真ん中にはシンプルな木製のテーブルがあり、侍女の代わりにやって来たクラリスが人数分の飲み物を置く。
「ありがとう、クラリス」
「ええ、殿下。……あ、そうだ」
イリスに礼を言われて微笑んだクラリスは、リンを見付けると彼の耳に囁いた。
「融が、あなたと手合わせしたがっていたわ。種のことが終わったら、是非近衛府にいらっしゃい」
「……わかりました」
「アタシから融にも伝えておきますね」
では、とクラリスは執務室を出て行った。少々複雑な表情を浮かべていたリンだが、何度か瞬きを繰り返して気持ちを切り替える。咳払いをし、目の前に座ったイリスを真っ直ぐに見た。
「――こほん。時間もないので、単刀直入に話に入らせてもらいます。銀の花の種について、殿下たちがご存知のことがあれば教えて頂きたいです」
「勿論。まずは、これを見て欲しい」
イリスがテーブルに並べたのは、ほとんどが事前にサラが水鏡を通して見せてくれた書類の束だ。その中に新たな紙の束が追加されていた。
「これは?」
ユーギが引っ張り出したそれは、新たな報告書らしかった。見ても良いかと目で尋ねるユーギに、イリスの傍に控えていたエルハが頷く。
「読んでくれて構わないよ、ユーギ。昨日の報告を簡単にまとめただけだから、必要があれば補足はするよ」
「わかった」
クリップでまとめられた束の表紙をめくり、ユーギはみんなに聞こえるように声を出した。
「えっと……『今回報告するのは、城から離れた村に残っている言い伝えである。以前報告したものと似ているが、また違うものがあった』。これは、光る蝶々?」
「そう。最近国の北部で見られるようになった、名前もついていない蝶なんだ」
これを見て、とエルハが数枚の写真を机に置いた。そのどれもが、爽やかな青空と共に白く光る蝶を写している。日の光に溶けそうなその存在は、確かに普通の生物には見えなかった。
「これはどの辺りなんですか?」
「王国の北部、神庭に近い場所にある山間の集落だ。やはり明確に種に関する話は伝わっていないけれど、昔話で白い蝶には気をつけろと書かれている」
「気をつけろ……ってことは、前にもこういうことがあったのかな?」
「その通りだよ、ユキ。どうやら、数十年に一度は見られるらしい。触れようとすると消えてしまうから、自然現象の一つだと考えられたみたいだけどね」
「だから、異名として『
晶穂の指が、ユーギの持つ報告書の一文を撫でる。昔の人がそう名付けた、と書かれていた。
「綺麗な名前ですけど、不穏な感じもありますね。実際、被害などが?」
「仔細は不明だ。けれど言い伝えとして残っているのだから、そういうことなんだろう」
昔の人は、未来に生きる人々へ何かを伝えたい時、口伝や文字を残す。その多くは注意喚起であり、大切な何かであることが大半だ。
イリスの言葉を受け、リンは腕を組んだ。
「行ってみる必要はありますね。それで、もう一つあるとか?」
「ああ。こちらは……」
情報交換は、決して長時間行われたわけではない。しかし互いに正しく現状を把握し、これからの方針を決めることが出来た。
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