第588話 跳ねる兎

 どすんっと何度目かになる音と共に土煙が舞い、掘り起こされた草が踊る。巨大兎は無機質な顔のまま、丁度背を向けていたユーギに向かってその体を跳ねさせた。

「ユーギ、前へ!」

「!?」

 春直の声に反応したユーギがホームベースへ頭から突っ込む野球選手のように躱すと、兎がその後に着地した。そこへ春直が操血術で伸ばした爪で引っ掻こうとするが、するりと躱されてしまう。案外とすばしっこい。

「くっ」

「わたしも」

 タンッと地を蹴り、晶穂は取り出した氷華ひかと名付けた矛の切っ先を兎へと向ける。それに気付いた兎は手を伸ばし、晶穂ごとはたいた。

「うっ……」

「「晶穂さん!!」」

 勢い良く木に背中からぶつかった晶穂が呻くと、春直とユーギが駆け寄って来る。頑強な木の幹に添うようにずるずると座り込みそうになり、晶穂は足に力を入れて立ち上がった。

 しかし完全に立ち上がることは出来ず、中腰に近い体勢になる。そんな晶穂を、春直とユーギが支えた。

「くっ」

「晶穂さん、怪我は!?」

「大丈夫!?」

「二人共、ありがと。大丈夫だよ、これくらい」

 本当は背中から切るような痛みが発せられている。おそらく切り傷になっているんだろうなと想像しながら、晶穂は無理矢理笑みを浮かべた。

「今はわたしより、兎をなんとかしないと」

 ゴーダが晶穂たちを気にしながらも、一人で兎を相手にしている。彼を一人には出来ない、と晶穂は言う。

 晶穂の言葉に、年少組は顔を見合わせた。

「……ですね」

「でもたぶん、後で団長が不機嫌になりそうかも」

「リンが? どうして?」

「わかんない?」

 ユーギが「ほんとに?」と念を押す。しかし晶穂は本気でわからないという顔をして、首を横に振った。

「春直、どう思う?」

 埒が明かないと諦め、ユーギは春直に話を振る。すると春直はユーギと晶穂の顔を見比べ、肩を竦めて笑った。

「どうって……らしいなぁって思うけど」

「だよね」

「……?」

 いよいよ意味がわからず、晶穂は困惑する。

 しかし、その謎を悠長に解いている暇はない。ゴーダとの一対一に飽きたらしい巨大兎が、標的を変えたのだ。

「お前たち、逃げろ!」

 ゴーダの一声で、三人は弾かれたように散らばった。その真ん中に兎が着地すると、ブンッと両耳を振るう。

「うわっ」

「おっ!?」

 その風がかすったユーギと春直が、風圧でバランスを崩す。丁度木の枝の上に乗っていたユーギが枝から滑り、落ちた。

「……?」

 しかし、覚悟した衝撃は来ない。おそるおそるユーギが瞼を上げると、ゴーダが受け止めてくれていた。

 地面に下ろされ顔をあげると、ゴーダは眉をわずかにハの字にしている。

「気を付けろ。油断していないのは知っているけれど、次も助けられるとは限らない」

「あ、ありがと」

 本気で心配している口調に、ユーギは素直に感謝を伝えた。照れ隠しに文句でも言おうとしていたが、完全に気を削がれた形だ。

 そんなユーギにふっと笑みを向け、ゴーダは愛用の剣を抜いて言う。

「行くよ」

「ああ!」

 ユーギも自慢のキック力を見せると意気込み、兎へと突っ込んで行く。先程の礼だとばかりに、今度は回転する兎を躱す。そして止まった瞬間に、その横っ面へ蹴りを繰り出した。

 狼人の脚力は獣人の中でも群を抜いており、子どものユーギも例外ではない。彼の蹴りがヒットしたことによって兎は体の均衡を崩し、ふらつく。

(今だ!)

 春直が飛び出し、操血術を駆使して兎に襲い掛かる。しかし兎の目の前であったために、兎の耳の犠牲にはなるかと思われた。

「晶穂さん!」

 しかし、そうはならない。春直は器用に兎の耳を掴んで衝撃を回避すると、晶穂へと道を譲る。

 兎が気付いた時、晶穂の姿はかの兎の目の前に迫っていた。春直が兎の気を引き、晶穂の姿を隠す作戦だったのだ。

「いっけぇぇぇっ!」

 投げつける勢いで突き出した晶穂の氷華は、巨大兎の眉間へと吸い込まれる。何かを仕留めた時の重い感覚はなく、晶穂は内心首を傾げた。

(手応えがない? まるで、すり抜けていくみたい)

 しかし氷華が突き刺さったことで、巨大兎には確かな変化が起こった。

「―――――ッ」

 声にならない声で叫んだかと思うと、その姿を数え切れない程の光の粒へと変えたのだ。パンッと風船が弾けるように、突然。

「これ……」

 着地した晶穂は、周囲に漂う光の粒に手を伸ばした。しかし一つとして捕まえることは出来ず、すり抜けてしまう。

「あ、見て下さい!」

「飛んで行く!?」

 春直が指差したのは、日が沈む方向。ユーギも身を乗り出し、晶穂とゴーダを手招いた。四人が見たのは、光の粒がある一方向へと流れるように進む光景。

 その美しさに見惚れそうになったが、ゴーダがいち早く我に返った。

「もしかしたら、あの先にリンがいるかもしれない」

「うん。……何となく、さっきのは守護本体じゃないんじゃないかって思う。根拠はないけど」

 自信なさげに言う晶穂に、ゴーダは驚きもせずに首肯する。

「晶穂がそう思うのなら、そうなんだろう。全ては、行けばわかる」

「うんっ、行こう!」

「きっと、克臣さんやジェイスさんたちも向かってますよ」

 ユーギと春直も同意してくれ、晶穂はほっと胸を撫で下ろした。

「ありがとう、みんな」

 背中は痛む。だが、ここで立ち止まってはずっとリンに会えなくなるかもしれない。その方が、何百倍も怖いし痛い。晶穂は出来る限り背中に意識を向けないように努めながら、三人の後を追った。

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